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1月13日(2023)午後、今年初日のジャズ講座開催中に、何度となくメール着信「ニューヨーク・タイムズに盛岡が世界第2位の街にランキングされた」とある。しかも第1位がイギリスの首都・ロンドンだから、ビックリギョーテン。アメリカは当然、台湾やフランスからまで、フェイスブック、Gメール、ラインにメッセンジャーとSMS、色んなメデアにて報告が来た。しかもその記事の中に「ジョニー」が出てるよ!というのだったから、穐吉敏子ジャズミュージアム効果のひとつの表れ方なのではないか?とも思った。それは穐吉さんが、以前インタビューに答えて「盛岡に観光客が増え、市から感謝されるかも知れませんよ」の言葉が浮かんできたから、、、。
第2位の街とは「ニューヨーク・タイムズが選ぶ今年の旅行先(世界52都市)に日本の盛岡市が2箇所目に選ばれました。(1箇所目はイギリスの首都・ロンドン)」というもの。ちなみに第19位に九州の福岡市であった。これを見てふと僕の頭に浮かんで来たのは震災前の2010年3月、雑誌・「BRUTUS」(3/15号)の特集「アンチTOKYO?クールLOCAL!魅力ある地方都市ランキング50」で盛岡市が第9位に選ばれた時のこと。その本に「開運橋のジョニー」が穐吉敏子のシークレットライブを行っている店として紹介されたこと。そしてその時の第1位が何と「福岡市」だったのですから、これはまさに世界的な大逆転劇とも言えるものではないか!しかも福岡市は16才でプロ入りした穐吉敏子さんが17才の時、本格的なジャズ演奏を進駐軍クラブで始めた街だったのですからこれも縁。 更に丁度70年前の1953年穐吉さんがオスカーピーターソンに見いだされてアメリカのレコード会社に録音した日が11月13日の金曜日でした。ニューヨーク・タイムズが発表したのは1月12日。日本の日付で「13日の金曜日」だったのですから、当時の朝日新聞「幸運拾った13日の金曜日」の見出しが頭に浮かぶ。ピタゴラスイッチ! 「この10月まで日本はどの主要国よりも厳しい渡航制限を維持していました。岩手県の盛岡市は見過ごされたり、完全に無視されたりすることがよくあります。東京から北へ高速鉄道で数時間のところ。東洋と西洋の建築美学が融合、魅力の1つは古代城跡、豆にこだわるコーヒー店、わんこそば、古典的アートブックの提供。40年以上営業のジャズ喫茶(ジョニー)など紹介。このニュースを日本のTVや新聞各社もニュースとした
1967年創刊の隔月刊「ジャズ批評」誌2023年1月号(№231)、特集「私が選ぶ日本ジャズの名盤」。メイド・イン・ジャパンにこだわった46人の愛聴盤!!と、ある。選ぶ作品は原則日本のレコード会社からリリースされた、日本人がリーダーのいわゆる和ジャズのレコードとCD。ジャズを長年愛聴して来たジャズ喫茶店主やFMパーソナリティ、レコード制作者、報道関係者、ライター、評論家、編集者、楽器製造会社員、ジャズファン、レコード店主、オーディオ愛好者等へのアンケートで一人5枚ずつ選んだもの。
その中に穐吉敏子さんの作品が何枚選ばれているかとページをめくったら「孤軍」を選んだ山形オクテットの相澤榮さん。「1980・穐吉敏子トリオ・イン・陸前高田」を選んだ評論家の後藤誠一さん。「Toshiko」を選んだ嶋崎研二さん。そして読者編の各一枚では、「マイ・ロング・イエロー・ロード」と「トシコ旧友に会う」の計5枚が選ばれていて、納得。 そしてページをめくりながら僕の目を止めたアルバムが3枚ありました。それは言うまでもなく、外盤一辺倒だった日本のジャズ業界に一石を投じよう!と、当時北海道を中心に活躍していたベースの中山英二のレコードをプロデュースし、世に送り出した、ジョニーズ・ディスクのデビューにして中山のデビューでもあった「アヤのサンバ」(中山英二カルテット・1978年)そして第5作「海を見ていたジョニー」(坂元輝トリオ・1980)はたまた「1980・秋吉敏子トリオ・イン・陸前高田」(2014年発売)の3枚が」選ばれていてビックリギョウテン!。 それこそ戦後に始まった、本格的な日本のjazz史は約80年、その間に作られたレコードやCDのおびただしい数の中から、今なお名盤として愛聴され続けている不思議なうれしさと喜びは、ある意味で制作者の僕よりも、それらのレコードやCDを世に出すために、制作にご協力をして下さった日本全国のジョニーズ・ディスク・ファンクラブの皆さんのものでもあるに違いない。ありがとう! そういえば「海を見ていたジョニー」をギリシャのアテネで2004年に発見して買って来たという方の話(盛岡タイムス・幸遊記№605・2022/8/29)。ジャケットの裏に書かれていたサインを後日写真メールで送って貰ったら、何と‘82年2月に現地にて僕がサインをしてレコード店に飾って置いて下さいと頼んで来たそのものの40年後日本への帰着証拠写真に再度ビックリ!しました。
盛岡タイムス10月4日付(2022)幸遊記「齋藤博孝のピアノストーリー」続編です。昨年7月26日夜の事、一人の男性が僕の店・開運橋のジョニーにやって来て「盛岡の音楽マップを作ろうと思ってまして、ジョニーさんも載せていいですか?」と。「良いもなんも、本当に僕も以前から作りたいと思っていましたから、とても嬉しい!」と。その素案マップを眺めながら、その時工事中だったバスセンターに出来る「穐吉敏子ジャズミュージアム」も載せて欲しいと願いながら、その流れの中でNYの穐吉さん宅から盛岡へ運んで来る予定だったピアノを、地下2階から運び出せず!の失敗談をしたところ、彼は誰かに電話して「あのピアノはどうなりましたか?」と尋ねた。
その問いかけに直ぐ様飛んで来たのが齋藤さんだったのです。勿論僕はお二人共見知らぬ人達でしたが、マップ作りの方は、齋藤さんの息子さんが高校時代吹奏楽部でお世話になったコーチの古舘順一さんとのこと。つまり、そこから先の幸遊記(№610)の「ピアノ物語」が始まったのでした。そう、東京・山野楽器さんのピアノプレゼントに当選したはいいが、齋藤さんは、その時、土地家屋含む財産を失い、住むアパートさえ見つからず、それこそ路頭に迷っていた時の当選通知。しかもBSTVの取材付き。本来なら大喜びの瞬間だが最悪の落ち込み時。 だが、それを救ったのは、長女・佳奈さんの言葉だった。「未来は今が創るんだよ。立ち止まって考えていたって未来は来ない。今はすぐ過去になる。動き出さなきゃ写真みたいな過去しか生まれない」。それから一年ピアノを置ける場所が見つかるまでと預かって頂いていたところへ、なんと!「穐吉敏子ジャズミュージアムへ置くのは如何か?」と申し出の古舘さん。僕も、別のピアノを用意中でしたが、ストーリーのある齋藤さんのピアノで行くと決断!齋藤さんも山野楽器さんもOK!。9月下旬無事穐吉敏子ジャズミュージアムへ納入と成り、11月10日には斎藤さんの夢「家族でコンサート」を世界のレジェンド・NEAジャズマスター・穐吉敏子さんが穐吉敏子ジャズミュージアムでの「親子孫三世代ライブ」(世界初演)で、新たな魂をプラスしてくれたのですから、齋藤さんご一家の慶びは一汐、二汐。以来お陰様でピアノは様々なピアニストに愛奏され、喜々として第二の人生ならぬ、ふたたびの音生をスタート。この話BSフジ「東京物語」で放送になりました。
12月10日(2022)「NHK.TV今朝のおはよう日本を見ましたか?穐吉敏子さん出てましたよ」と、何人もの人からの電話だった。知ってはいたけど起きれずに見れませんでした!と僕。花巻の良平さんは「見でねぁがったらDVDに撮ってだがら送るがらよ」と、間もなく届いて拝見させて貰った。そういえば良平さんは、詩の芥川賞と言われるH氏賞の審査員に選ばれたそうですね。岩手県人として初めてのこと、本当におめでとうございます。
「平和来ずとも希望は捨てないジャズピアニスト・穐吉敏子さん、本場ニューヨークで活躍を続けて来た世界的なレジェンド」コロナ禍のため3年振りの帰国となった。親子孫三世代による世界初演(盛岡)の為帰国。盛岡の後、東京ブルーノートで14日にデュオを演るというので僕も見聞に行きました。昼夜共に満席。93才にならんとする直前のライブは皆カタズをのんで聴き、終われば驚きともとれるどよめきの様な拍手。 NHKTV「朝いち」に盛岡から生中継の要望もあったのですが、朝は断って下さいとのことで、東京で久し振りにインタビューに応える穐吉さん。 「コロナ禍でコンサートはキャンセルと悲しいけれど、毎日少なくても2時間はピアノの練習。昨日よりは少し進歩したい。少なくてもその努力はする」。「我々は聴いてくれる人、共感してくれる人が居て初めて自分のやっている意味意義がある訳ですから、感じてくれる様な演奏が出来ないと独りよがりになりますから」と今尚精進する努力の人である。 彼女は言う「ジャズは社会芸術(ソシアルアート)ですから、無力と解っていても諦めず、希望の音楽を。私自身はある意味で国の行き方に対する反抗みたいなものだと。そういうつもりで音楽を作ったりプレイしている。平和は来ないでしょうけど、我々はいつか来るように希望します。そうありたいと言う。恵まれた立場に居たら希望なんて持つ必要無いかもですがウクライナの様な悲惨な立場にいればいるほど、希望は持たなきゃいけないですね。プライドが誤って出ると権力者みたいな方に走る。私は日本人であること、女性であることに誇りを持って、良い意味での自信を持つ。自分をよく見つめるという事です」と彼女。はるか昔から少しもぶれずに今に至る宝物の言葉の数々でした。そして照井良平さんいつぞやは「穐吉敏子ジャズミュージアム」へ詩のお届けありがとうございました。感謝!感激!
11月10日(2022)午前。盛岡バスセンター近くの「サンセール盛岡」に於「県文化スポーツ表彰」(村松玲子氏・不来方高校音楽部顧問ら11個人1団体)。「いわて暮らしの文化特別知事表彰(斎藤純氏・作家・石神の丘美術館芸術監督ら2個人1団体)の表彰式。僕もその2個人の中に含まれていて驚きましたが、この日はNYからの我らがジャズピアニスト・穐吉敏子さんが、開設になった「穐吉敏子ジャズミュージアム」で、関係者たちへのお披露目演奏会の当日であり、準備などテンヤワンヤで、僕の気はそぞろ。
代表で挨拶して下さいとのことだったが、その原稿を書く時間の余裕もなく、名を呼ばれ皆さんの前に立ったはいいが、頭ぼーっとして言葉にもならず、何十秒?もの間、無言で立ち尽くし会場シーン、、、、。何を話そうか?口を突いて出たのは20才から今日まで55年間に及ぶレコードコンサートにライブコンサートや文筆等による音楽の普及活動に関する事と、言えば少し聞こえはいいが、本当に勝手気儘な僕の行動や実践を、影日向なく、様々な形や方法で、やっている、やろうとすることを一緒に面白がって手伝い応援し続けて来た全国の皆さん(ジョニー・ファミリーと女房が言う)への表彰なのだろうと思ったら、自然に涙が滲んだ。ありがとう。 達増拓也県知事から頂いたそれを店(開運橋のジョニー)に持ち帰ったら、穐吉敏子さんが夜の演奏の為の、ピアノの練習をしていたので「これを頂いて来ました」と見せたら、賞状を両手に持って「あなたは長年にわたり県民の日常生活に密着した文化的、芸術的な活動を通じ岩手ならではの文化の創造に貢献するとともに本県ならではの文化芸術の魅力を県内外に広く発信しその功績は極めて顕著であります。よってここにこれを表彰します。令和四年十一月十日・岩手県知事・達増拓也」と、立派に読み上げ更に「おめでとうございます」と付け加えてくれた声を聴き、僕はとても有難いと思いました。女房も「ジョニーが天女だと思っている穐吉さんに読み上げて頂けるなんて最高に幸せだね」と言う。 表彰が決まった時には、昔々FM岩手でお世話になった斎藤純さん。表彰後日には、何と村松玲子さんまで、ご挨拶に来てくれたことも嬉しかったです。なのでそのことを、かつて盛岡少年少女合唱隊の指導者だった芦野真弓さんに話したら「あの子もここに来たの?」と、教え子だった彼女のことを懐かしく話してくれました。 それはそうと皆様ありがとうございます。お陰様でした。先ずはご報告まで。カンパーイ!! Prev [P.1/125] Next
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