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コロナ禍で上映が延期になっていた「JAZZ・KISSA・BASIE」(ドキュメンタリー映画・Swiftyの譚詩)が9月18日(2020)全国一斉封切!その日、一回目の上映を「盛岡・ピカデリー」で観た。前日夕方、主人公の菅原正二さんにTELして「一関で観ようかな」と話したら「俺は舞台挨拶もやらないし、じつは一週間ぐらい雲隠れしようと決めているのさ」だった。
「その男は、レコードを演奏する」「岩手県一関市、世界中から客が集うジャズ喫茶・ベイシー。マスター・菅原正二が50年にわたってこだわり抜いた唯一無二の音と“ジャズな生き様”を炙り出すドキュメンタリー」と映画のフライヤーにある。今、世の中は聴くでもなし、聴かせるでもなく只々、聞こえる程度のタレ流し放送設備で巷までジャズがあふれかえっており、それに正比例するように、ジャズ喫茶への客足もとだえがちになって久しい!だが、例外が一つあった。ジャズ喫茶・ベイシーである。日本一の音!いや、おそらく世界一であると思う。音の気圧で音楽を鳴らし、堪能させ、満足に至らしめる。そして、時にはそのステレオの音とドラムで共演するマスターのサービスも、彼にとっては再生音チェックのための演奏である。(それはそうと週刊文春”9・24”グラビアにも載った!) 一口で50年といえど、半世紀である。全国どこのオーディオマニアであろうが、ジャズ喫茶であろうが、束になってかかってみたところで、あの音、あの環境を作り出すのは不可能というもの。生き生きとしてスコーン、コカーン、ズドドドン、スタン!いきなりの絶頂。誰かが書いていた「こんなに聴こえる映画はほかにない」「優しい化け物みたいな音」「文化も歴史も音もこの映画に保存された」「歳をとったら又見たい」「人への愛、そして音への愛、それは生きていく上での大きなエンジンになる」と。特にも音に関しては、彼に影響受けなかった後続のジャズ喫茶は皆無といっていい程の存在であるが、あらゆる面で彼とは別路線を進んで来た僕も、店を45年続けてこれたのは、ベイシーという歳も店も5才先輩の巨大なスターの背を見て来たからなのですが、映画には僕もチラリ映し込まれていて、協力・「盛岡のcafejazz・開運橋のジョニー」とクレジットされていてビックリ!ああ、なんでだろう!
世界最高にして世界最高齢の現役ジャズ・ピアニストである穐吉敏子さんは、今年91才になる。彼女の代表曲と言えばシグネイチャー・チューンである「ロング・イエロー・ロード」。そして僕が彼女のレコードに出会った74年の「孤軍」。さらには彼女のセルフ・ポートレイト的な「ビレッジ」この曲の元になっているのは誰でも知っている日本民謡の「木更津甚句」で、僕などは、何十何百回聴いても、あの曲なの?だが、アフロ・キューバン的乗り、4分の5拍子。驚愕のダイナミズムあふれる演奏まさに穐吉敏子の真骨頂!である。
その木更津甚句で浮かんでくるのはあの「孤軍」の元になった「小野田寛郎・元少尉」を1974年、フィリピン・ルバング島で発見した冒険家の鈴木紀夫さん。その親友だった満州生まれ、大船渡市出身の故・千葉輝明さん(アルジェリアの日本企業で働いていた人で一関ベイシー菅原正二さんの幼馴染)の友が書いていた「鈴木紀夫君の思い出」(1988年・東海新報)を読むと、小野田さんを見つけてからの彼は、昔からの夢であった「雪男さがし」にネパールへ出かけ、その5回目は新婚旅行もかねていたというのだから凄い熱の入れ方だった様子。しかも1回目の時に実は突然目の前に子連れの雪男が現れビックリ!カメラ取り出す間もなく逃げられたそうだが、全身が黒く、連れていた子供の2人は白かったそうだが、まるでゴリラみたいだったと。そして最後となった6回目の87年、彼は戻らず仕舞いで友人の山岳家たちが探しに行ったがみつからなかった。だが、なんと奥様自身が探しに行き遺体を発見したとある。 「戸籍上では死亡になっている私が生き延びて、あんなに元気だった鈴木君が死ぬなんて、、、、、遺体発見現場まで行く、、、、、」と朝日新聞に語っていた小野田さん。 千葉輝明さんによれば、小野田さんを発見した鈴木さんが作家の林房雄氏の長女・京子さんとの結婚式の時も、又、友人たちとの誕生会などの時でも、とにかく酔えば必ず出てくる歌は彼の18番「木更津甚句」だったという不思議な御縁。それに鈴木さんが亡くなられて4年後の1991年、アルプスの氷河から数千年前の「アイスマン」と呼ばれる雪男がミイラの状態で発見されたのです。これも縁?
昨2019年6月18日付、毎日新聞・岩手版に「盛岡のジャズ喫茶店主・秋吉さん想い”資料館“」の見出しで僕の記事が載った。書いてくれたのは藤井朋子記者。彼女は今年4月東京の本社勤務になり、学生時代からの恋も実って白木姓になった。おめでとう!盛岡支局勤務時、深夜までの仕事が終わると時折、開運橋のジョニーへやって来て珈琲を注文した。その光景想い浮かべれば、掃き溜めに鶴の如き姿。いつぞやは、学生時代からの恋人と、またあるときは故郷(兵庫県)の父母さえも店まで連れて来て紹介してくれた。
昨年は「穐吉さんを追いかけ続ける僕のことについて、穐吉さんご本人からも僕についての話聞き、全国版に書きたいのです!」と。草津、ニューヨーク、東京と、僕等と一緒に穐吉敏子への旅までして、ようやく今年・盛岡でのコンサート9月16日の翌日なら時間が取れるとの約束頂いたが、又、このコロナでどちらも身動き取れず仕舞い。それはそうと、その朋子さんから突然宅配便でお菓子届いてビックリ。前後の手紙に「8月末で新聞社を退社。9月からモスクワで働きます。2年間だけなので、又帰国した時はお邪魔させて下さい。秋吉さんの取材だけが心残りだったのですが、、、、、記事に出来ず申し訳ありません。」 それで折り返し電話をしたら、ロシアの日本大使館での仕事だという。凄い!彼女は元々神戸の外語大でロシア語を専攻、ロシア語の通訳者・米原万里さんのエッセイを読み、その考え方にひかれ!4回もロシアに渡り体験勉強した人「どうしてロシア?」との僕の問いに「ジョニーさんはどうしてジャズが、穐吉さんが?と同じだと思います!」とキッパリ!「2年後に日本に戻ってきたら、もう一度大学でロシアの研究をしたい」のだとも! その時突然僕の頭の中で鳴り出したのは岡林信康の「友よ!」だった。「友よ!夜明けまえの闇のむこうには、友よ!輝く明日がある、友よ!昇りくる朝日の中で友よ!喜びをわかち合おう」「朋よ!元気で行ってらっしゃい朋よ!コロナという闇の中で朋よ!内なる炎を燃やせ朋よ!輝く未来のために。やはり青年はいつの時代でも荒野を目指す」か!!。
今夏(2020)10年振りに鈴木周二氏(元・東海新報編集長)と約束して大船渡のうなぎやさんで一緒に飲んだ。氏に初めてお会いしたのは忘れもしない1978年の夏。辺境気仙地区で、グラフ誌創刊!エーッ!凄い!一体誰が?。新聞を見てビックリした僕は購読希望のハガキを贈ったら、わざわざ届けに来たのが鈴木さん。郷土の歴史・自然・民族・文化・文芸と主とする内容で嬉しかったのを覚えているが、何よりのビックリギョウテン!は、次号への執筆依頼!。あれは一生忘れられない!
何故かといえば、それまで僕は物の本や新聞に載せてもらえるような文章を書いたためしがなかったから!で、氏から手取り足取り文章の書き方を一から教わり、大きな大きな紙にびっしりと言いたいことを書き、それを削ったり足したりの推敲や校正をしてやっと書き上げた初めての文章は「わがジャズ日本列島改造論」(日本ジャズの隆盛は気仙から)‘78年10月。それが今日に至る僕の執筆活動?の原点。 氏はそれまで10年間勤めた東海新報をやめ、1人出版の道を志した!まではよかったのだが何せ当時の2市2町合わせても10万に及ばぬ陸の孤島!では、やはり続かずに、すぐさま立ち行かなくなった。だが東海の社長は彼を編集長として再雇用!彼も彼の独自路線で郡の歴史をさかのぼり、過去を洗い、ノリ養殖の始祖の功績や気仙大工遺産、地域文化を掘り起こし、それに根差した未来気仙の育成に取り組み、地区民の心技を行政にわからせ、まとめる役割を担って行動した。「東海なければ夜も明かず!」の圧倒的な読者支持を受け、ある意味4市町の舵取り役とも言えた程の人。「歴史の積み重ねてきたものを全て破壊したのは文部省を始め、国家機関の人づくり怠慢と手抜き以外のなにものでもない。復興の町づくりは地域の歴史と文化が鍵なのだ」と、静かな怒り。 それで想い出したのは「気仙は精神的に岩手を離るべし」(‘88年頭提言)。明治元年気仙は政府の直轄地となり、同2年江刺県を皮切りに一関、水沢、磐井、宮城の各県へと所属をたらい回しされ、同9年岩手県に所属。しかしその後21年気仙郡は再び宮城県に移管してほしい旨の嘆願書を内務大臣に提出するも却下された経緯を持つことから気仙は春来る「鬼」という「心の砦」を持つ独特の国に至ったのだ。
ほとんどの日本人は盆になると自分の生まれた家(実家)あるいはそのルーツとなる本家などの墓参りをするため帰省するという本能(DNA)を持っているが、僕はジャズ喫茶を構えてからというもの、ほとんど盆には実家に帰ったことがない。というのも盆にふる里帰りする人たちで一年中で一番忙しいときだから!は陸前高田時代のはなし!盛岡では逆だったが20年もすると少しは来るようになったのだが、今年はコロナ禍で延々閑!おかげで長年果たせなかった「盆に実家へ帰っての墓参り」が叶った。
家は平泉町北沢29番地。垂直に切り立つ岩に掘られた顔面大仏に向かって右下に半分屋根の達谷窟毘沙門堂と西光寺光堂。左下には駿河と照井家。僕と年齢が同じだった実家を建て直す際、町が発掘調査を実施、昔々寺人たちの住んだ僧庵?寮?跡が出て来たという。地形的に見ても確かに境内の一角であることは一目瞭然!しかも家の屋号は「禰宜」で、通称「ねぎわの西」と呼ばれていた。隣の駿河家は(東)だったなと思い出す。 道路から家に入る小道(門口)を横切って流れる用水路が照井堰(北照井堰)。一関・厳美渓の上流(磐井川)から取水。隧道(穴堰)を通って達谷窟前を流れる太田川に合流。その数百m下流に揚場を作って分水される水は下流の田畑はもちろん毛越寺の泉ヶ池にまでも流れゆくがその取水口が僕の実家の前なので、平泉を潤す照井堰の水を最初に使えるのが照井で、次が駿河、そして毘沙門堂前の池へと流れゆく。そんな訳で揚場(人工滝?)から流れ落ちる水の音、天気次第で水量が変わり音も変わる、いやおうなしに毎日聴いて育ち、今も音で生きている僕の原点。何十年振りかで取水口の揚場に佇んで生音を聴いた。うーむ!ひらたくいえばみずみずしい音だ!と僕。 照井堰は藤原秀衡公の家臣で普請(工事)奉行であった照井太郎高春の起工。その子・高安が父の遺志を継ぎ難工事を推進し竣工したと伝えられるが、今日に至るまでの先覚者達の業績は明確を欠き未だに不明点多々。僕は女房と一緒に実家からの帰りに一関の照井神社や昔の平泉照井館に立ち寄り久遠の昔に想いを馳せた盆の1日となった!「夏草や兵どもが夢の跡」(芭蕉)。 Prev [P.1/102] Next
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