盛岡のCafeJazz 開運橋のジョニー 照井顕(てるい けん)

Cafe Jazz 開運橋のジョニー
〒020-0026
盛岡市開運橋通5-9-4F
(開運橋際・MKビル)
TEL/FAX:019-656-8220
OPEN:14:00~24:00

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幸遊紀NO.390 「上村雅代の能面と絵画とガラス」2018.7.10.盛岡タイムス
 ジャズピアニスト・穐吉敏子さんが言うところの「姉トリオ」(穐吉さんのお姉さんと2人のお友達)。その一番下1937年生まれの上村雅代さんは、福山の出身。東京から現在の高槻市に移って25年。「東京は気の読み過ぎ!大阪は開けっ広げ!それがよくわかったのよ!」という彼女は今も海外を歩き、山へも登る健脚。教育者だった両親の影響もあり、武蔵野美大で絵画を専攻し、のち彫刻をやり、ステンドグラスも!と、気のおもむくまま?やりたいことを同時進行でやって来た彼女は今も元気百倍のバイタリティに溢れている!。
 絵は一貫してモデルを使っての人物画だけを描き続け、隣町の枚方市(ひらかたし)まで今も教えに通う。ニューヨーク・セントラルパーク・ウエストの穐吉さんの自宅へ伺えば、真っ先に目飛び込んで来る真っ白い女性の能面!それは彫刻家としての彼女の最高傑作とも言えるもので、のめりにのめり込んで彫った作品!「でも少しゆがんでるでしょ」と彼女は言うのだが、僕は作者の表情の表し方なのだろうと思いながら、その面を幾度も拝見し、写真にも撮った。大工さんにつき、立ち木の勉強から、木目利用の仕方、寝かす時間、ノミの研ぎ方を学び、彫の師匠からは四角の木材を彫りすすめ面へと形創っていく方法を教わったのだという。
 彼女は平面的油絵を立体的に観せるために?あるいは実際にモデルを使って描く時の光の変化や向きによる人の表情の移り変わる様を能面という固定された表情をつくることで面と立体を動体に帰してゆく光(ステンドグラス)までを手掛ける人間的な総合芸術を目指して生きて来た方なのだと気付かされる。しかもステンドグラスに至っては、ガラスの厚さが3センチもあり、透過する光がこの上も無く美しいことからと、バー、クラブ、レストラン、他ブティックなどに置かれていた。
 「今はね、暇つぶしに絵を描いている人が多いけど、昔はね“女が絵描きだと!!”と言われたもんですよ。作品の数?!1部屋ぎっしり!見たくもない!見せたくもない絵ばっかりですよ!」と謙遜するが、「でもね、1枚だけビル群を背景にしたシュミーズをつけた女性の絵は気に入ってるのよ!お呼びがかかったら送ってあげようと思ってるんですよ興味ある?照井さん!30号の絵だけど」はい!それは見たいですね!

幸遊紀NO.389 「春名道子の穐吉敏子ステージ衣装」2018.7.2.盛岡タイムス
 2000年4月1日、ワシントンDCの米国立ケネデイセンターでの穐吉敏子ピアノソロ。2003年10月17日、ニューヨークのカーネギー大ホールでの穐吉敏子ジャズオーケストラの解体(解散)コンサート。2006年3月31日、再度のケネデイセンターソロと3度アメリカへご一緒した兵庫県尼崎市の服飾デザイナーの春名道子さん(86)とは、東京などでの穐吉敏子さんのコンサートでも何回もお会いした仲。
 彼女は前回幸遊記に登場して頂いた穐吉さんの姉、折田美代子さんの親友で、彼女の着用服をずっと作ってきた方でもあることから、美代子さんがある時「あなたも春名さんに作ってもらったら」と穐吉さんに春名さんを引き合わせたところから、春名さんによる、穐吉敏子さんのステージ衣装作りが始まったという話を、僕は美代子さんから聞いた。
 春名道子さんの経営する尼崎市の「アトリエ・ミドー」には穐吉さんが仮縫いに店を訪れた時の写真なども残っており、それを見せられたら僕は実際に穐吉さんが立派なステージ等々に立つ時の、特別な、何種類ものステキな衣装を見てきたし、ホテルからタクシーで移動して会場の楽屋入りする時などは実際にその衣装を手に持ったりしてきたことがあることから、ほとんど見覚えのある衣装の数々の写真であった。実際それらは穐吉さんのコンサートが映されるTVなどでも必ず着ているし、衣装についてインタビューされたりしているのだから、春名さんの名前こそ出てこないけれど世界中の人々が彼女の創った衣装を見ていることになる。
 店の中には夏用の数多くの素敵な布地が沢山あって、その中から2~3引き出しマネキンにふわりと掛けてこうすればと、着衣に早替りの手腕に驚いていると、製図を使わない立体裁断なのだという。終戦後いち早くヨーロッパに渡った京都の藤川延子先生に学び、立体3次加工までを学びたいとフランスへ何度も足を運び、岩田屋百貨店で3年、阪急百貨店で10年デザイナーをやり独立。ランバン、ジバンシー、ミラ、ディオール、などなどのカラフルな生地棚を見渡しながらふと、僕にもらしたことばは「ほんとに店で寝起きしたいと思うのよ。美しい生地に囲まれている時が最高に幸せなの、、、、、」そう言って笑った顔の瞳はまるで未来をみつめる少女のように輝いていた。

幸遊紀NO.388 「穐吉敏子の姉・折田美代子」2018.6.25.盛岡タイムス
 ジャズピアニスト・穐吉敏子さんの姉・美代子さんは毅然として「5才年下の妹は歳ですねーと自分で言っているけれど、私は歳だなんて思ったことはありませんよ!」という。生まれたのは満州(現・中国)4人姉妹の2女。白に赤紫の縞模様の入ったふわりとした上着に真っ白いパンツ。美しいキラキラ刺繍の入ったシャツにコテコテッとした真珠のネックレス。濃い紫に髪を染め、同系のサングラスをかけ、深い赤色のマニキュアと口紅。右の小指と左の人差し指には銀色の指輪。それがなんとも自然な美しさをかもし出していて最高!よくファッション雑誌から抜け出た様だと、ステキな女性をたとえるものだが、年令を考えても、考えなくとも、雑誌の方が逃げ出す程の美しい装いはまさに「ファッショナブル」の真実。魅せられてしまいました。
「私たち姉妹は敏子とは呼びません!“クリちゃん”と呼んでましたし、私は今でもクリ!と呼んでます。彼女が生まれた時、男の子が欲しいんだったら“クリ子”とつければ次は男の子、と言われたのでみんなでくりちゃんと呼んでたが役所に届けた名が敏子で、次の子は生まれなかったしで、くりと呼んだの。
穐吉さんはアメリカでも日本でもマネージャーという人を持たず、全てを自分でやって来た人だが、1961年の初帰国からつい最近の5年前まで、日本に帰って公演先をあちこち飛行機で移動するその航空券手配は全部お姉さんが一人でやっていたというのだから驚きだ!しかも未だにあの博物館もの的なダイヤル式の黒電話での用達なのだという。
「母はレコードが好きで、長唄や小唄、はたまたピストン堀口(東洋フェザー級チャンピオン)の唄まで聴いてましたし、政治の話も好き、よそには殆んど無い時ピアノがあった家でしたし、錦絵のようだといわれた綺麗な母でしたが、70才過ぎても英語の勉強してましたね。敏子は試験の前の日でも夕御飯までピアノを弾き、食べてまた弾く、それでも大連の女学校での成績は1番か2番でした。私は勉強嫌いで学校休みたい!すると母は休んでもいいですから、一日中仏壇の前に座っていなさい!というスパルタでした」
そう言う美代子さんは今年2018年1月2日、93才になった。朝ベットの上で体操して、お散歩15分、週1度プールで首までつかってのウォーキングを続け、転ばぬ先のチエ(杖)をつく!

幸遊紀NO.387 「穐吉敏子への旅」2018.6.18.盛岡タイムス
 1974年秋。秋吉敏子=ルータバキン・ビックバンドのデビュー作「孤軍」をLPレコードで聴いて以来、これまでの44年間、彼女の全作品(別バージョンも含む)を探し求め聴き続け、コンサートを主催し、その他日本各地での、コンサートやライブ、はたまた、アメリカでの重要なコンサートがあると聞けば、僕の知る全国の穐吉ファンに声を掛け一緒に何度も聴きに馳せ参じてきた僕の半生は、まさに「穐吉敏子への旅」そのものである。
 そのことから、僕は今年2018年4月1日「穐吉敏子への旅」(添乗員・照井顕)というタイトルの穐吉敏子全作品写真集本を出版した。中味は彼女のデビュー作(1953)年から最新作(2017年)までの全作品で、シングル盤、ソノシート盤、LPレコード、カセットテープ、CD(コンパクトデイスク)など、ジャケットや収録曲などの、いわゆるバージョン違いのものや全集まで180タイトルを収録。
 他に穐吉さん自身の著作本や語り本など6冊。雑誌(表紙)新聞(トップ)など18点。他彼女が一番最初に聴いたジャズのレコードと、一番最初に買ったレコード(どちらもSP・78回転盤)までおまけに収録した。「世の中には有名奏者などのデイスコグラフィーはあるけれど、作品の裏表までを収録したものは在りそうで無かった初めての本、凄いね!」(全部を持っている人でないと作れない)と、都内のとあるジャズ関係者のことば。
 僕はこの穐吉敏子作品全集にVo.1とナンバーリングをしたので、彼女に関する本を今後何冊かシリーズで出してゆきたいと、次作を練っているところですが、この2018年6月、穐吉敏子さんと関係、関連のある人々と街を訪ねる初めての一人旅をしてきた。その第一日目、花巻から大阪に飛び、穐吉さんが「姉トリオ」と呼んでいる三人の女性達「穐吉さんの姉(4人姉妹の2女、美代子さん)」そして「穐吉さんのステージ衣装を作ってきた春名道子さん」「その二人の友で美術家の上村雅代さん」。二日目は初めて広島へ行き、あの「ミナマタ」に次ぐ社会的な作品「ヒロシマーそして終焉から」の原爆ドームや国立広島原爆記念館、オバマ前大統領が来た平和公園など見学。三日目は秋吉さんにその作曲を依頼した善生寺の中川元慧住職らにお会いして話を聞いて来た。

幸遊紀NO.386 「菅野俊吾の海浜健康文化都市」2018.6.12.盛岡タイムス
 昭和54年(1979)から2期、岩手県議会議員。昭和62年(1987)から4期、陸前高田市長だった菅野俊吾氏が今年2018年3月26日、82才で亡くなった。かつての自宅は陸前高田市大町商店街にあったが、2011年3月11日の東日本大震災で流失、節子奥様の実家が有る住田町にて借家住い中だった。そのお別れ会が6月2日陸前高田市のコミュニティホールであり、盛岡の東北絆まつりに背を向けて行って来た。彼が東北大学法学部を卒業して七十七銀行に入ったのは1969年。そして家業の高田活版所を経営するため、銀行をやめて印刷会社にて半年間見習いし、陸前高田に戻ったのが、あの東京オリンピックの年(1964).
 僕が平泉の中学を卒業して夜間の高田高校へ通うため、叔父(父の弟)が経営する照井クリーニング(3・11で被災し廃業)に、住込みで働き出したのが1963年。聞いた話は、照井クリーニング創業時は「高田活版所の一角を借りていた」とのことだったから、1977年、その何となく親しみの覚える高田活版所の数軒隣り並びの大町へ荒町から僕は店を移転し列島唯一の「日本ジャズ専門店」とし、地方から東京を狙い撃つべく自主レーベル「ジョニーズ・ディスク」を立ち上げた。
 その甲斐あってか当時の専門誌には「電車(ジーゼル)は2時間に1本、その町には海があり、町の人々の生活がしっかりと息づく中、ジャズは自然に流れていた。日本のジャズが海の向うへ届けとばかりに」「陸前高田は小さな町にもかかわらずジャズ熱盛んで日本有数、東北一」。「マスターの駄洒落の連発はとみに有名。奏者は、演奏よりこちらに疲れ、帰ってくるのが常識」などと書かれたりした。そんなある日、菅野市長が店にやってきて「会議であちこち行きますが、名刺を出すたび、あっ!ジョニーのまちですね!と言われるんでまいりますよ!」と言うのだった。盛岡に移ってからも来店して「ジョニーさんのルーツ、陸前高田市!(海浜健康文化都市)と色紙にしたためてくれたりもした。
 1980年から度々陸前高田市を訪れた世界一のジャズピアニスト秋吉敏子さんに1989年の日本ジャズ祭ステージ上で陸前高田市は感謝状を贈ったのですが、「実は議会で否決されたのを市長が土下座して頼み何とか可にして貰ったそうよ」と節子夫人から聞いたことがあった。秋吉さんもその市長に頼まれ「陸前高田ふるさと大使」という市の宣伝役を1997年に引き受けたのでした。

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