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ひょんなことから、ちょうど一年前に会うことが出来たバイナルアート作家・KAZUMA・FUJIWARAさん(39)からの電話だった。「穐吉敏子さんの“孤軍”出来上がりました。届けに行きたいし、穐吉敏子さんのコンサートも聴きに行きたいのですが、俺コロナになってしまったんです。なので友達に頼んで届けます!」でした。僕もその日は忙しさのあまり、届けて下さった方(斎藤美香さん)にもお会い出来ずで、ごめんなさい。
その孤軍とは、僕が20才になった1967年から主催していたレコードコンサートの最終回(1974年11月)に、東京帰りの先輩・軍記さんが持参したレコード(穐吉敏子=ルータバキン・ビッグバンドのデビュー作・孤軍)のこと。以来僕は穐吉敏子さんのファンとなり、現在に至る。そして僕と和磨さんが合うきっかけとなったのは、ほっちーこと細野高史さん(幸遊記・№557)のプレミアムもののホッチキスで互いに会ってみたかった者同志がガチャン!と繋げてもらったってこと。その和磨さんのことは数年前新聞で知り、いつか会いたいと想っていた。 彼は彼で「穐吉さんを知ったのは渡米50周年日本公演(僕のプロデュース)のCDとの出会いでしたし、その時丁度20才だった」と。そこから穐吉さんのファンとなり彼女のレコードを掘り出してきたが「まさかジョニーからの依頼で自分が穐吉さんを彫ることになろうとは、、、、感慨深いす」と。そのバイナルアート作品「孤軍」はリサイクル店でみつけたキズモノや針飛びのするダメージレコード(孤軍)を複数枚使用してレコードをカット(熱切)してジャケット風に仕上げ。手元にはピアノの鍵盤まで付け加えた彼ならではの作品、作風。僕はとても感心した。ありがとう。 ヒップホップからジャズ、ブラックミュージック全般まで聴くという和磨さんは、とにかく音楽が好きで、好きで、小学生の時から中古レコードを買い聴き最終学歴は石鳥谷中学校である。聴けない程のキズモノレコードはタイトルや演奏者、歌手などからイメージをふくらませて変身させるバイナルアートを創作。これまでに100タイトルは創ったというが「捨てられるものに再び命を吹き込む。このスタンスで一生やる。でもこれは仕事にはしたくない。頼まれたってストーリーがないとだめ。意見が合致しないと創らない!唯一無二の作品を楽しく創り続けたいのだから作りたいものしかつくらない!いい意味で頑固でいたいから」と言う藤原和磨さん。それはまるで誇り高く和を磨いた藤原氏の様でもある。
2022年11月11日(金)、盛岡市民文化ホールで行われたNPO法人穐吉敏子ジャズミュージアム主催の穐吉敏子三世代ドリームコンサートを聴きに、大阪の豊能町から盛岡にやって来た穐吉直人さん(37)は、未だお若いのに穐吉姓のルーツをかなり知っていて、いろんなことを僕に教えてくれた。
秋吉台で知られる山口県に、かつてあった“秋吉村”、今その地に秋吉姓は無し。元は水軍、お家断絶?で瀬戸内の海を渡り、流れついた先が九州中津藩の港・布津部。そこは遠浅の海、昔はそこを通らずに物資の流通が出来なかったところであるらしい。秋吉姓に、穐の字を使い穐吉を名乗ったのは秋吉村の厚東(ことう)氏(今から680年前に滅亡した)の三男坊。先祖(武家使用姓)に想い馳せ、祖先の穐に戻したことに始まっているのだという。 その穐吉家の墓石が並ぶのは布津部村にある唯一の寺、覚正寺(浄土真宗)。遠浅の海と堤防があってその後ろに砂地の墓地と道沿いにぽつぽつと家があるところです。そう話をしてくれた直人さんのルーツはどうやら穐吉の本家本元。それこそあの大横綱・双葉山(穐吉定次)の実家は隣。穐吉敏子さんの父の実家は、右斜め前。敏子さんの父は次男だが長男の末息子・穐吉としゆき(敏子さんのいとこ)さんは現在、宇佐市にある観光交流施設「双葉の里」の館長を務めているそうなのですが、直人さんの祖父の兄は双葉山の同級生。戦争で亡くなり双葉山がその遺骨を持って帰って来たのだと。しかも遺骨となったその兄の嫁さんは弟と再婚。その弟が直人さんの祖父で父はその五男。直人さんは父が住む大阪で生まれたのだという。 それこそ布津部にいた直人さんの祖父母は、敏子さん一家のことも知っていて、「中国(満州)から引き揚げて宇佐の布津部に来たのですが、落ち着く間もなく別府に移った」のだと。何故かは、敏子さんの姉が結核のため別府のサナトリウムに入院したことから、そこで一家の生活が始まり、敏子は街を散歩中に「ピアニスト求む」の張り紙を見つけ、ダンスホールのピアニストとしてスタートした。そのことから別府は敏子さん(四人姉妹末っ子)にとって日本の故郷になり、のちに「タイム・ストリーム」という曲を生むきっかけとなり、又、ジャズ史に残る別府国際ジャズフェスティバルの音楽監督をつとめ、そして大分国体の曲を作り、大分名誉県民の称号までいただいたのでした。それこそあの双葉山の69連勝に迫った横綱白鵬の63連勝。今、双葉の里にはその両横綱の双手形。その双葉山の墓と、敏子さんの父母の墓や、そして敏子さんの穐吉籍(本籍)は東京である。ああ豊(とよ)の国(大分の古称)の昔話と穐吉ルーツのお話、温故知新でした。
コロナ禍の中、待ちに待った!とはこんな時のことを言うのだろううかと思った11月 (2022)。「穐吉敏子・親(92)子(59)孫(22)の三世代による、ドリーム・コンサート」を盛岡で世界初演という形で無事開催できた奇跡。
その日を迎える1カ月前には、それこそ世界初となる「穐吉敏子ジャズミ ュージアム」のオープン。その準備でおおわらわの最中、僕の尿道からビュ ンビュン飛び出した、何十匹?もの魚のごとき真っ赤な物体。 それはまるで火山の噴火のようだったが無痛だったことの恐ろしさから日赤の病床に沈下した10日間。退院後のたまりにたまった雑用?で体はおろか頭まで爆発しそうになりながら、何日完全徹夜したかも、うろ覚えの毎日。女房すら体重5キロ減。 そして迎えた11月11日、盛岡市民文化ホールでのドリームコンサートの盛況。アンコールに応えてのソロピアノは、あの長い長い、超高速曲「テンパスフィジット」(バド・パウエル曲)。それを何と最後まるでマジックのごと く弾き切った超絶的な凄演奏に、聴衆のアゼン! 開いた口がふさがらないままスタンディングオベイションのそれこそ嵐のような大拍手は鳴りやむどころか、大きくなるばかりで、楽屋に向かう穐吉さんに、拍手鳴りやみませんが・・・と追い掛けたら「終わりです。疲れ果てま した」の返事!で、僕が舞台に出て行ってそれを伝え、ジ・エンド。 CD販売コーナーにも長い列。打ち上げ会場となったホテルマザリウムにも人、人。サイン攻めで飲食どころでなく「テルイさんに殺されそう」と穐吉さんの悲鳴が耳に届き、打ち上げ半ばで切り上げお部屋に。 それもこれもファンを大切にする、穐吉さんならではのサービス対応。現実は、12月12日93歳になられるご高齢と右目の失明。考えるまでもなく、普通の人なら、ただ生きているというだけでも大変なこと。なのにニューヨークからコンサートのための帰国(長旅)。 そして子と孫との共演用各パート譜の書き直しと練習。3人での音合わせの数時間と2日間ものリハーサル。それを開運橋のジョニーに行って、会場へ移動し、本番のステージと相成るすごい精神力。生涯現役を貫く姿勢は感動ものでNYからおいでの小野山弘子氏が、来年、穐吉さんのカーネギーホ ールコンサートを実現させます、と言 ったら、穐吉さんいわく「ホールは1年先まで埋まっています」と皆を笑わせたが、来年はリンカーンセンターのコンサートも決まっているという。皆で行きましょう!
盛岡バスセンター3階のホテル・マザリウムロビーに開設なった世界の穐吉敏子ジャズミュージアム。 そのオープン記念として、11日 (金) 夜7時から盛岡駅西口のマリオスにある盛岡市民文化ホール(大ホール)にて親子孫三世代による世界初演の「穐吉敏子ドリームコンサート」を企画。いよいよという日にちまでやってきました。今年(2022年)4月NYの穐吉さんのご自宅からお預かりしてきた賞状や盾などを並べ飾っているミュージアムの壁一面には、それこそ彼女の直筆によ る書「黄色い長い道」の掛け軸とともに彼女が生まれてから今日までの90年余りに及ぶ年表 (ジャズ史や世界情勢と照らし合わせた)を掲示していますが、それを作ってくれたのが刈屋千帆子さん。
彼女は長年FM岩手で番組の制作ディレクターやミキサーを担当。このたびの穐吉ミュージアムのスタッフとしても活動。通信教育での学芸員資格も持っていることから、NPO法人の理事にもなってもらい、穐吉敏子さんの年表を制作するという、いきなりの大仕事を頼んでみたのでした。 すると、穐吉敏子さんの本を読み、ジャズ史、世界史まで勉強して 「穐吉年表」を見事に作り上げたのです。それこそ重箱の隅を突っつけば、間違いも少々見受けられますが、まずは、よ くできました、とそのままに掲示しています。ご苦労さまでした。 千帆子という名から浮かぶは青い海原。そう彼女は宮古の生まれ。小学校から盛岡。月が丘小、厨川中~下小路中、盛岡二高。函館大学では商学部にて宣伝広告を学び上京。東京のアパレル会社を経てニュージーランドに行き盛岡に戻ってからは、ミュージックバーに通いながら、イベント会社やTV映像、ウェディングプロジェクトやアートサポートをやり、フジロックフェスには10年も通い、はたまた仏像にはまり京都へも。 なので、弥勒菩薩(みろくぼさつ)を自称し気のおもむくままに人生の旅をしてきたのだと。ちゃんとした就職はしたことがないし、結婚の経験もなしだが、音楽と旅が好きという海風を切って海を渡る正に千帆の生き方。それこそこの穐吉ミュージアムを手伝う以前は盛岡鉈屋町の町屋物語館の学芸員でもあった。 年表を作りながら感じたのは、穐吉敏子さんはカッコイイ女性。強くて天真爛漫。昭和の初めから平成、令和と時代の勉強にもなりました。という (47 歳でした)。
町屋君との出会いは確か1999年12月。盛岡川徳デパート前のスクランブル式交差点にあるモダンなビル内にあった「ギャラリー・ラヴィ」。当時陸前高田の住んでいた僕は、そこで写心展「日本ジャズの原風景」を開催して頂いた時でした。当時僕は「アテルヰじゃんず楽団」の名でライブも時折やっていたことから、最終日にバンドで自作曲を歌った。その時彼は岩手大学農学部応用生物学科の学生でしたが、すでに白黒コピーの手作り写真集「雪と共に」を出版していて、これがなかなかよく、気に入り買い求めた。僕が盛岡に店を出した2001)にはお母さんと一緒に来店してくれて嬉しかった事迄思い浮かぶ。
今年2022年10月4日盛岡バスセンターがオープンした日には、3階に設置になった「穐吉敏子ジャズミュージアム」にも現れ入念に写真を撮っていた。彼は旧バスセンターをこよなく愛し保存運動にも関わっていた一人。だから新築の外観にも、旧バスセンターの面影が感じられることは、彼にとっても保存を望んだ人々にとっても、少しはほっとしたのではないだろうか。まして旧ロゴの保存活用には、なお更であろうしローカルハブ社や設計者の心使い,心意も伝わって、嬉しく思っている人が多いことにも感心しています。 彼、町屋君は旧バスセンターが17才の時に宮城栗原で産声をあげ、小学校に入る時に盛岡へ。その頃からカメラに興味を持ち、城西中・盛岡四高・岩手大学と、ずーっと写真部一筋だっただけに素晴らしい写真を撮る、撮れる、根っからの写真好き。しかも鉄道やバスが大好きなことから、旧バスセンターに入った時のレトロ感が気に入り、その財産性をキレイに撮り、残したい!と思い、行動に移して写したその原点は、」かつて盛岡に住み、盛岡の古い街並みや建造物を写真に収めて2冊の」写真集「あの角を曲がれば」1985年地方公論社。「この角を曲がれば」(2001同)の伊山治男写真集に感銘を受けたことだったが、もっと深いところでは、大好きだったすてきな建物(おじいちゃん、おばあちゃんの家)が壊されるのを見たショックが彼の記憶という名の記録への始まり。彼が「旧バスセンターは僕にとって父母みたいな存在でした」そう言いながら、「照井さんに持っていて欲しいんです」と僕に差し出したのは、なんと「盛岡バスセンターの記憶」という試作写真集で、旧センターの日常と最終日、最終便のバスまで写っていました。嗚呼ありがとう。 |
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