盛岡のCafeJazz 開運橋のジョニー 照井顕(てるい けん)

Cafe Jazz 開運橋のジョニー
〒020-0026
盛岡市開運橋通5-9-4F
(開運橋際・MKビル)
TEL/FAX:019-656-8220
OPEN:14:00~24:00

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幸遊記NO.74 「小川延海の未来少女」2012.6.4.盛岡タイムス

 「陶道に入って32年になる」という手紙をともに、一編の詩「陶板との出会い」そしてその当時の“ろくろ”を回す手の写真が添えられた手紙が、大槌町御社地天神前の“ギャラリー花舘”から届いたのは、2006年4月29日のことだった。
 その“花舘”の主人・小川延海(のぶみ)さんは、かつて全国的ブームを巻き起こした、あの独立国「吉里吉里」の仕掛け人で、工芸大臣だった。「イッタカキタカ号」などという一つの胴の両方に頭がついた狛犬や、河童や魚の置物などユニークな作品を創った。僕が盛岡に来てから訪ねて行ったとき、僕にくれた「石のような焼物オブジェ」は、今も僕の店のカウンター上にある。
 彼は1970~80年代に「花屋敷」という朝9時から夜9時までのジャズ喫茶を大槌町で開いていた。山水のアンプ、マイクロのプレイヤー。ブラウンのスピーカーで鳴らすジャズは、シャレタ店内に、まるで絵の様な美しさで流れていた。
 出会ってから、2011年3月11日の大津波の時に67才で居なくなるまで、名の如く延々と、手紙や詩編や個展の案内状が届いていた。陶を創作し、絵を描き、詩を作り、喫茶店ギャラリーを経営し、写真も撮った。彼の仕事で僕が一番好きだったのは、写真や、写真と絵のコラージュ。とりわけ若き日のジャズピアニスト・故・本田竹広や、今は無き同町の小さな老舗ジャズ喫茶「ケルン」のオヤジさんを撮った写真などが素晴らしく、昔一度、僕の店でも写真展をやってもらったことがある。
 その小川延海さんが、2010年の秋頃から頻繁に交流を重ねた、名古屋市在住の、詩集編集者・水内喜久雄さん(60)に送った最後の詩「未来少女」が、今年(2012)2月28日の岩手日報に載っていた。「あの日に去った少女は青き海のかなた、深き海に見えるあの記憶は貝に・・・」。「ポエムフェスティバルin名古屋」に展示されたその詩を、盛岡で歯科医を営む延海さんの兄・邦明さん(71)のもとへ、水内さんがわざわざ届けに来て、帰りには僕の店(開運橋のジョニー)に立ち寄り、そのコピーを見せてくれた。そのことに感動し、僕も、今手元に残る、この10余年間に延海さんから届いた手紙類を数えたら、50通を越えていました。



幸遊記NO.73 「大宮純の小説・崖の上の楓」2012.5.28.盛岡タイムス
 2007年7月15日発行のA5版361頁からなる「空を駆ける」。同じく2009年7月15日発行の400頁の「機関銃を捜しに来た男」。そして今年2012年の、たぶん7月15日には3冊目となる「春を告げる王の鳥」という単行本を出版する大宮純さん(64)は、日本民主主義文学会に所属する盛岡在住の作家である。
 彼と出会ったのは、2008年の「あづまね山麓オータムジャズ祭」の会場でした。紹介してくれたのは、僕の中学時代の同級生で、彼の奥さんである直子さん「作家活動をしている夫です」だった。なかなかの男前!
 その翌年の2009年、僕が講師となって4月から始まったNHKカルチャーセンターの講座「ジャズの魅力への招待」を聴講しに夫婦で来たので、僕はビックリギョウテン。何しろ直子さんは、中学時代は学年のテストで毎回1・2番の成績、僕にとっても、同級生の誰にとっても、超あこがれの的だったひとでしたから。
 その講座の時、純氏は来た理由を「照井さんの話やジャズを聴き、それについてのエッセイを書きたい為に申し込んだ」と言うものでした。それは2冊目の本「機関銃を捜しに来た男」という小説の巻末エッセイに「ジョニーへの伝言」として載っていました。タイトルの小説は、1971年7月30日に雫石上空で起きた、全日空機と自衛隊機の衝突事故に関する内容で、読み応えがあり、かつ印象に残る作品だった。
 そして今年3冊目となる本に、推薦文というか感想文というのかを、僕が書くことになり、ようやく読み終え書き終えたところなのです。何しろ今作も10篇の小説と65編のエッセイ、それに寄稿文や寄稿小説まで並ぶ大冊なのである。タイトル小説は、2011年3月11日の東日本大震災時の体験を綴った「春を告げる王の鳥」と、その続編。中でも僕を捕らえてしまったのは、彼、大宮さんの母が麻を植え、それを繊維にし機織機(はたおりき)にかけ布にし、遺していった反物にまつわる「崖の上の楓」。大宮純(本名・伊藤孝)と、その兄たちが生まれ育った江刺、50年前の母の懸命さと、作者自身の心が一つになって生まれた作品であった。


幸遊記NO.72 「荒井勝巳の純手工ギター」2012.5.21.盛岡タイムス

 僕は、若い時からギャグ(ダジャレ)好き。今流行の「オヤジギャグ」ではない、チャチャを入れるところから始まった、筋金入り?の「逆親爺」。ある時、是非、僕に会わせたいシャレの達人が居る、と言ったのはギタリストの故・七戸國夫さんだった。
 その人と、初めて会ったのは、七戸さんの通夜の時だった。しゃべり出してみれば、さすがの凄シャレ。仏前で、いつ果てるともなく、泣き笑いしながら、友人達との駄ジャレの応酬、そして僕に「師匠!」と手を付いたのは荒井勝巳・名工と呼ばれる純手工ギターの製作者だった。七戸さんが、「最高の音」と言ってくれるまで、徹底して制作研究に打ち込み、創り上げた10年目の作品を気に入って持ち帰り、演奏したのが最後となったらしい。
 彼、荒井勝巳さんは1941年、埼玉県潮来の生まれ。溶接工だった10代の頃、友人が弾くギターに魅せられ、ギターを横尾幸弘氏に師事した。20才の時、同じ教室に通う生徒の持って来た手作りギターに感動し、先生の紹介でギター製作者・黒澤常三郎氏、そして田崎守男氏にギター製作を学び、27才で独立。埼玉県に工房を構えた。最初に、師の手工ギター工房で触れた自然な音が、彼のその後の人生を決定付けた。ドイツの名ギタリスト故・ベーレント氏が来日した際に彼のギターに出会い絶賛。自ら発注、生涯愛用し、旅先から、近況報告の手紙が来たと言う。それは「世界一流の製作家」への道標となった。
 彼が言うには、名器と呼ばれる楽器とは「円やかで,芯があって、細くなく、ボリュームに遠達性があり、オリーブ油の様な音がする」ものらしい。彼が製作上、特にこだわっているのはバランス、そして高音よりも「へたばらない低音」を重視する創り方。
 僕は、今だギタリストには成れず、ただ、タダ、打ち鳴らすだけの乱暴な奏法。それでも、ガンガン鳴り、気持いいのだ。ギタリストが弾くと、うっとりする音で鳴る。そのギターは、出会った直後に、彼が、僕の為に作りプレゼントしてくれた宝物。
 そのギターを貰いに行った1994年の三日三晩,起きて寝るまで将棋さし!彼は物凄く強い!全敗で、「師匠!」と、僕が手を付いた。「お酒です。ご飯です。お風呂どうぞ。」彼の故・禮子夫人の献身的なおもてなし。そして、その後、時折の代筆手紙は、妻の鏡でした。


幸遊記NO.71 「畠山耕太郎のなって頂戴大物に」2012.5.14.盛岡タイムス

岩手県知事・達増拓也氏が言い出しっぺとなって世に送り出された「コミックいわて」が好評で、その2冊目の「コミックいわて2」が初版1万5千部を刷って発売になった。
昨2011年に発行された「同・1」のトビラを開いた時、岩手が舞台の漫画作品マップというのがあって、そこに「陸前高田邪頭(ジャズ)音頭」畠山耕太郎「実在のジャズ喫茶・ジョニーのマスター(僕のこと)の話を漫画化した作品」という紹介が載っていた。
その「陸前高田邪頭音頭」は、昔、月刊の「アフタヌーン」という漫画雑誌に読み切りで載り、のち「KIZA」という彼のヒット作がリイド社から単行本で出版された時、最終の第7巻の巻末に「おまけ」で載った作品。そのおかげで、その後、台湾版や韓国版にまでなって1980年代から90年代にかけて話題となったものでした。
ある時畠山さんが、その原画(稿30ページ)を持参し、僕にプレゼントしてくれた。僕はそれを新聞社に頼んで、新聞用紙に大量に印刷してもらい、今尚、読みたい人にプレゼントし続けている。それは、1975年高田松原球場で行った、当時の革命的な野外コンサートのドキュメンタリー作品。
その漫画家・畠山耕太郎の本名は耕史。1959(昭和34年)陸前高田生まれ。中学時代より長距離ランナーを目指し、専修大学時代まで走り続けた。高校時代には、一関・盛岡間や北上・横手間の駅伝で区間賞を取り、「第1回・陸中山田マラソン」高校の部・10kmで優勝するなどし、大学では、20km1時間。30km1時間40分。で走った。
大卒後のフリーター時代に拾い読みしたマンガ本を見て、これ位なら俺も書けるんじゃないかと、一年発起し漫画家を目指し、描いた作品が認められ、マンガ家・守村大(もりむら・しん)氏のアシスタントをして2年間修業。
そして26才の時、独立して描いたマラソンマンガ「なって頂戴大物に」は、なんとコミックモーニング新人大賞の「ちばてつや賞」に輝いたのでした。賞金100万円。すぐ様講談社のアフタヌーン誌で、その続編の連載が開始され、全3巻の単行本にもなった彼の初ヒット作。あれから四半世紀、彼は今、仙台にてパチンコやパチスロマンガを描いている。


幸遊記NO.70 「鷺悦太郎の油彩画“アリア”」2012.5.8.盛岡タイムス

 長い歴史を持つ美術の公募団体「白日会」に3年連続出品し「一般入選」「一般佳作賞」そして今年、2012年の第88回展に於いて、油彩F100号の「アリア」で遂に「白日賞」そのものを手にした陸前高田の画家・鷺悦太郎さん(53)。
彼は昨年の3・11東日本大震災の大津波で、住まいもアトリエも200を超える作品も失ってしまったが、受賞作は、津波後に高田松原に立つ女性を描いたもの。今は仮設住宅に住みながら、それこそ仮設のアトリエも設けて、創作活動。更には9ヶ所の絵画教室も復活させ後進の指導にも当たっている様子。
 小学生の時、絵画コンクール入選。以来、高田高校時代の日洋展入賞。岩手大学特設美術科時代には一般公募展にて史上最年少入賞。新制作展ではいきなりの賞候補に登場するなどで、「絵画の神童」と呼ばれた男だった。が、ある時パタリと出展をやめてしまった。昔は描きたい「物」にこだわり、その後には、モチーフとバックの「関係」にこだわって描き続けていた。
 僕も彼の絵が大好きで、若い時に描いた魔法瓶と炭火入れの絵(F80号)を10年以上も店に飾らしてもらった。実にいい絵だった。地元のバンマスで、シンガーソングライターの平岡睦男さんのLPレコード・ジャケットに瓶が歌っている様な不思議な絵を使わせて貰い、ジョニーの本の表紙絵、挿絵も描いてもらった。
 1998~99年頃、何ヶ月もの間、僕の店が終った深夜から未明にかけて、酒を飲みながら二人でセッセと絵手紙(はがき)をかいた。彼、鷺さんが絵を担当、僕が、その文を担当するという遊び、あれは実に、楽しい日々だった。気が付いたらそれは200枚を超えていた。その展示会は、ギャラリーや博物館、郵便局や温泉、しまいには盛岡市立図書館まで、1999年から2000年にかけて何度もの巡回展へと発展し大好評だった。絵も書もお互い「上手に書かないこと」が“約束”だったからか、見る人たちの笑いが絶えない程、馬鹿受けした。
 彼の絵は、表面的な表し方ではなく、その物の存在感や質感を優先させる描き方。そしてそれを、空間の中にどう置くかということにこだわっていた。最近は生命あるもの、いわゆる生き続けているものの、内面性とその魂までも伝える描き方。見る側にも、その物語が始まる。



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