盛岡のCafeJazz 開運橋のジョニー 照井顕(てるい けん)

Cafe Jazz 開運橋のジョニー
〒020-0026
盛岡市開運橋通5-9-4F
(開運橋際・MKビル)
TEL/FAX:019-656-8220
OPEN:(火・水)11:00~23:00

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幸遊記NO.574 「小瀬川了平のどん底とモンタン」2022.1.25.盛岡タイムス
 真っ白な雪の中、真っ赤な車を運転して、僕を迎えに来てくれた花巻出身盛岡在住のUさん。行く先は花巻市東和町。目的は、萬鉄五郎記念美術館で開催中の「CAFÉ・モンタン・展」(12月11日~2月23日)。会場外には、盛岡が華やいだ1960年代、最先端のアートと詩、音楽、そして味覚を発信したモンマスこと、小瀬川了平(花巻出身)がそそいだ最上級の芸術エッセンス「CAFEモンタン展」“どん底酒場”と“モンタン”の大看板!
 会場は、それこそ60年代のジャズレコードジャケット群の壁飾りが圧巻!その中には店名になったシャンソン歌手の”イヴ・モンタン“を始め、ジャズの歌手や演奏家たちのレコードがズラリ!そして当時の店に集った人々の写真。店に関わった美術家や詩人たちの作品など、大小かなりの数に及ぶ。”モンタン“の開店は1959年8月、純喫茶として始め、当時数百万円かけたオーディオやテレビ、ピアノでの音楽はシャンソン。ロシア民謡を歌う会、そしてジャズ評論家を迎えての、モダンジャズ・コンサートと題したレコードコンサート。及び美術展など、次々と企画。モンタン賞という美術賞の創設。前身の店「どん底」から這い上がり、60年代の岩手、盛岡を牽引した凄い店だった様です。
 僕が小瀬川了平さん(1930~2010)と実際にお会いできたのは盛岡に来てからなので、2004年頃から。穐吉敏子さんのジャズライブやディナーコンサートなどに大宮政郎さんと現れたり、時折り開運橋のジョニーにも来て豪快にそして繊細な笑顔で語り飲んだ日の想い出は心の宝。
宝といえば彼が亡くなって、数年後、開運橋のジョニーにもたらされた数十枚ものLPレコード。盛岡市立図書館にて「盛岡労音機関紙(1962~1972)」を開けば、‘66年7月号から掲載のモンタン広告ページ(モンタン・ミニマガジン)に、モンタン入荷レコードという毎月数枚の新着輸入盤のお知らせコーナーがあり、読んでみたら、マルウォルドロンのレフト・アローン、エリックドルフィーのラストデイト、ソニーロリンズのアルフィー、リーモーガンのコーンブレッドなどなどが、’66年‘67年の何月に買ったものであったことまで判明。又毎月第2日曜日の昼2時からのモダンジャズレコードコンサートのお知らせ、イラストによるモンタン店内風景、他、ショートや詩なども載っていて、60年代へのタイムスリップを2度楽しませて頂きました。これも紅白!?

幸遊記NO.573 「佐々木健39年間の想い入れ」2022.1.17.盛岡タイムス
 今年(2022)10月オープンする「穐吉敏子ジャズミュージアム」へのご寄付や関係資料の提供を呼び掛けているところですが、先日、横浜の佐々木健さんから電話あり「自分が聴いて来た穐吉さんのコンサートのフライヤーやチケットの半券、パンフレットなど、寄付したい」だった。ありがとう!
 佐々木さんは僕と同じケン。出会った時から親近感を持った。以来交流が続き、2019年8月彼がお父さんと一緒に来た時には懐かしさに包まれた程、彼の父は昔の僕の父の面影を想い出させてくれた。盛岡に生まれ、仙台で育った健さんは今年還暦を迎えるが、彼は小学生の頃から父の影響で、洋楽にはまり、高校生になるとジャズに熱中。東京での大学生時代は休日ともなると都内や横浜のジャズ喫茶めぐり。アルバイトで得たお金は、ほとんどレコード代に消えた程、ジャズにのめり込んだ。
 その決定打となったのは‘83年11月6日、東京の郵便貯金ホールで行われた秋吉敏子トリオの演奏会を聴きに行ったことだった。その時、16才でダンスホールのピアノ弾きとしてスタートして以来39年目の秋吉。そして健さんはその83年から数えて39年の今年まで、大切に保存してきた「’83・秋吉敏子トリオ日本公演パンフレット」をご提供頂きました。39!39!サンキュー!まさに銀河鉄道スリーナイン!と僕の語呂合わせ!それはそうと、彼は83年から今日まで、幾度も幾度も穐吉敏子コンサートを聴き続けて来た根っからの穐吉ファン。
 彼の、もう一つの趣味?は写真。そう彼の目はクロートの目である。何年か前、送って来た開運橋の写真ハガキに僕は目を奪われ、感動のあまり彼にお礼の電話をした記憶。2019年には彼から届いた「柏原悌一写真集」(柏原悌一写真集製作委員会発行)。表紙の写真、砂浜のコンブ干し風景を見て想い出したのは昭和54年(1979)発刊の写真集団“いわて”作品集の中で特に印象に残っていた、あれ「磯に生きる」。もしかしてと探して見たら、やはり柏原作品だった。柏原悌一(1932~2013)氏は元岩手県写真連盟会長、生まれは僕と同じ平泉で健さんの母の妹のご主人(盛岡中央通りにあったお茶屋さん柏喜園の店主)だった。健さんはその叔父さんから暗室の技術を伝授して貰って以来40年、今なお白黒のフィルムにこだわり続けているのでした。あぁこれもジャズ。

幸遊記NO.572 「北G日曜日朝のFM放送」2022.1.11.盛岡タイムス
 毎週日曜朝8時半から放送されているFM岩手の長寿番組「北Gのサンデー・モーニング」(パーソナリティ・北島貞紀(ジャズピアニスト)/アシスタント・佐野より子(民謡歌手)/ディレクター・佐々木寿仁(FM岩手)/番組提供・うちむら家具、JA全農いわて)の2022年正月番組に2週ゲスト出演の依頼があって収録に行って来ました。とはいえ約束の日時をすっかり忘れていて、電話を貰って慌ててタクシーに乗った。あーあ!今年も自分の事ながらおもいやられるなあと独り言。
 僕がFM岩手でジャズ番組を担当したのは1985年の開局から25年間だから2010年まで。それ以来のスタジオ入り。セキュリティが厳しくなっていて受付で名前など書き、渡されたカードケースをかざさなければエレベーターさえ動ず、第2スタジオの場所さえ忘れてた。覚えていたのは開局当初から今なおも再々雇用で局に居る小田島大さん。久し振りの再会に大感激!その節は大変ご迷惑をおかけしました。
 ということで1月9日分のスタート!「70年代80年代バンドマン生活を通して出会った人たち、音楽をする事の喜びや悲しみ、今、全ての事が愛おしく思えます」と北Gさん!僕を呼んだテーマは“穐吉敏子”彼女のジャズミュージアムが、今年秋オープンする新盛岡バスセンターに出来るから。それでかけた音楽は僕が最初に出会った穐吉さんの曲「孤軍」(1974年の穐吉敏子=ルータバキン・ビッグバンド演奏)。そして僕等が彼女のコンサートを初めて主催して聴いたオープニング演奏の「黄色い長い道」(1980年6月13日の陸前高田市民会館)。
 次週16日放送分は、2000年4月1日アメリカ、ワシントンDCの国立ケネディセンターで行われたソロコンサートからの「インプロビゼイション・イン・ファイブ」穐吉さん(現92歳)70歳の時の演奏である。日本から彼女のお姉様(現97歳)達と20人程で聴きに行った「ジョニーと行く穐吉敏子への旅」まで想い出され、2曲目の「クレオパトラの夢」に至っては、僕が彼女に憧れたように、彼女が当時憧れたモダンジャズピアノの開祖・バドパウエルの人気曲、それを穐吉らしくバースの前奏を付加したアレンジで、彼女らしい。ともあれ久しぶりのFM,自分がやっていた時よりはるかに楽しいものでした。ありがとう!北Gさん、佐野より子さん。

幸遊記NO.571 「般若心経の淳子ちゃん体操」2021.12.27.盛岡タイムス
 「世界一ポピュラーな、あの般若心経が口ずさめる歌になった!テクノとお経の新鮮なコラボレーション。自分の唄声で、般若心経の和訓や、般若心経を経心若般と全文を読みうたう(逆説)など、テクノ音楽をバックに録音したのは1997年のこと、それから12年の歳月をかけ初CD化(照井顯&テクノ楽団)。今年はまた、その発売から12年(計24年)の歳月がたったなと思っていたら、先日、紫波町在住の佐藤淳子さん(79)から電話あり、何人かCDが欲しい人が居るからと、手土産持参でご来店。
 彼女の話によると、数年前から、僕のCD「般若心経」を使い、誰でも踊れる、椅子に座ってでも出来る簡単な振り付けをして、“ジャズダンス”(淳子ちゃん体操)に取り入れているとの事。「地元の紫波、矢巾、盛岡、雫石、等々、JAいわて家の光講師、盛岡保険推進員、紫波社会体育指導員、などやってきたけどね、田野畑村に生まれた山猿ですよ」と笑う彼女。県立岩泉高校を卒業して玉川大学の通信教育や岩手大学の聴講生として学んだ人。結婚してからはご主人(自衛官)の仕事で全国を回り、14回目の転勤で岩手に戻ったのは平成6年(1994)。
 最近紫波第一中学校でのスポーツチャンバラの準備体操であれやったら、リズムに乗りやすいと生徒たちに喜ばれたといって僕をも喜ばせてくれました。
 その般若心経CDジャケットの仏像写真は、それこそ昨2020年に360年振りの大修理を終えた二戸市浄法寺町・天台寺の慈愛に満ちた大きな仏像のお顔だった。そのお陰なのかインターネット上でも聴けるようにして頂いている東京のウルトラヴァイヴ社から、毎月、デシタルコンテツ売上報告書というものがパソコンに届くのですが、昨年、今年のApple Music 、iTunes Cloud、AMAZONPRIM、同UNLIMTED、YOUTUBU、dヒッツサイト、等でのサブスクリプション(音楽定期購読)による、僕の般若心経歌?を聴くためのアクセス数が、日本でも世界中からも、以前とは比べられないくらい増えていることに驚いています。とはいえ一回当たり円以下の銭単位なので、せいぜい何百円なのですが、コロナ禍が始まった昨年から今年と急上昇しているのです。拝!

幸遊記NO.570 「akiyoshi-jazz.com」2021.12.20.盛岡タイムス
 我らが天使・穐吉敏子さんが92歳の誕生日を迎える日「12月12日(日曜日)は盛岡中央郵便局午前中で窓口が閉まるよ!」と女房。何としても間に合わせようと、前夜は完徹しての郵便発送準備に全集中、おおわらわ。窓口が〆切の昼、12時、といえば、いつだったか穐吉さんのお姉さんから直接聞いた話が浮かんだ。「敏子が生まれたのは、昼の12時でしたよ」と。「12月12日12時!おお!ジョニー、ジョニー、ジョニー時!」と僕は叫んだ!
 郵便物は、いわずもがな「2022年10月オープンする穐吉敏子ジャズミュージアムの実現に向けて」の案内パンフ。トシコさんのプロフィールと、盛岡バスセンター内「ホテル・マザリウム」のロビーに開設するミュージアムに関することや、共感支援寄付金の募集(お願い)と、穐吉さん関連の資料のご寄付、無償使用の募集案内。
 そしてもう一つのパンフは、1963年の高校一年生時に、同級生から見せられて読んだシングル盤レコード(45RPM)の歌詞「みんな名もなく貧しいけれど」に始まってから今日までの、僕の音楽ストーリー。とはいえ1974年から来年の2022に至る「穐吉敏子ジャズミュージアムへの旅」と題した僕からの手紙。翌日から、届いたよ!読んだよ!泣けたよ!生きていたか!自分の友達にも知らせるよ!パンフをもっとくれ!オープンしたら行く!早速振り込んだからね!などなど様々なメールや電話が次々届く。嬉しいなあ。
 発送と同時に公開した、「NPO法人・穐吉敏子ジャズミュージアム」のホームページは、紫波町の北田唯さんが作ってくれたもので中々の評。僕のフェイスブック「ジョニー照井顕」で開けば、開運橋のジョニーと穐吉敏子ジャズミュージアムのホームページアドレスがあり、タッチすれば、どちらもすぐ見られるようになりました。ジョニーのホームページについてはこの幸遊記(№565/11/19付)に書きましたが、ミュージアムの方の「エピソード」欄には2009年1月から2010年12月まで本紙・盛岡タイムスに100回書かせて頂いた、あの「トシコズ・ドリーム」を第一回の「開運の橋を渡る」から随時掲載し始めましたので、少しずつでもお読みいただけたら嬉しいです。ご感想や、ご意見などホームページからでも送れますので、どんなことでも、気兼ねなく交流できることを願っておりますので呉々(暮々)もよろしくお願い致します。Eメールakiyoshi.jazz.m@gmail.comです。

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