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岩手で初めての開催となる“オーガニックフェスタinいわて”が2013年8月31日(土)、9月1日(日)、紫波中央駅前のオガールプラザで行われる。「食べること、暮らすこと、もっと大事にしたいから」と有機農法で作られた安心安全な農作物や、オーガニックな食材で作られた加工品。更には住まいと省エネを学ぶオーガニックライフの紹介。プラス心のオーガニックとも言うべき音楽イベントまで提供するのは、まさに岩手ならではのこと。
主催の中心になっている人物は、オーガニック建築設計を手がける、谷内誠さん(62)。彼は開運橋のジョニーにやって来る度、あちらこちらのパンを手土産に持って来る。いつぞや“麦”というパン屋の大好物クリームパンを持ってきてからは、僕は秘そかに彼を無二の親友ならぬ“麦のポン(パン)ユウ”と言う事に決めた。 彼の言う、住の隅々(炭)までの心遣い。天然素材を生かした住環境作りへのこだわりには頭が下がる。昭和26年盛岡に生まれ、盛岡工業高校から工学院大学建築学科(夜学)へ、働きながら通った。その学生時代に京都出身の同級生から教わった“ジャズ”にハマリ、彼と共に京都のジャズ喫茶を巡り歩いた時、そのアンダーグラウンドな世界で経験したアンニュイ(倦怠感)は、まさに癒しの様なエクスタシーそのものだった。 以来「人間の体にダメージを与えない、真実,本物、自由な発想による、マクロビオテックな生活へとシフトを変え、平和な今日、弱い生き物を食べることは、人間のとるべき道ではないと思うようになり、草食男子となったら、体調もすこぶる良い」と言う。 ある時、ジャズ喫茶で考えたこと「そうだ!昔は全てが一体だった!今は分離的な考え方が進んだために、様々な歪みが出て、住いまでが病の元になってしまっている。それを戻すのには、やはり自分も革命を起こすことから始めなくてはならない!気付かせてくれたのがジャズ。そう!ジャズは音楽の革命だった」。オーガニックの世界もシェアは0.2~3%。だからこそ彼は、自らの革命論を実践すべく行動を開始した「誠」の話!。
「ギター弾きの恋」という映画(ウディ・アレン監督・1999年・アメリカ)を観てジャズに興味を持ち、そのサントラ盤CDを買って聴き、その中の「オール・オブ・ミー」が好きになった。そのことから同曲が入った「ジミー・スコット」の東京ライブ盤CDを買い求めたら、曲のイントロ(前奏)でのサックスとピアノに衝撃を受けてしまった。それが始まりでした。と増田玄洋さん(29)。
地元神戸の店「JB-5」へ行ったら「昔はジャズ批評社から出た“ジャズ日本列島”という本を持って、若者達がよく全国ジャズ喫茶めぐりをしたもの」と聞かされ「自分も30才までに納得出来ることをしたい!」と、ジャズ喫茶全盛時代の1960~70年から数十年経た現在、そのジャズ店の有り方を見聞して見よう!と思い立ち、2011年12月から、会社の休日を利用しての全国行脚。すでに38都道府県250店以上の店を訪ね歩いて来たと彼。 今回は神戸の店で知り合った先輩の佐藤裕志さん(32)と一緒に、北海道を車で6日間27店を回って来た帰りだと言う。開運橋のジョニー新店舗の様子や、僕達が元気にしているかを見届けに再来してくれた様子で、遂々朝方まで話がはずんだ。 聞けば「やめようかと考えている店も沢山あって、でも本当にジャズが好きだから頑張ってやっている。そのことに、意気を感じて応援する人、支え続ける人がどの位、その街に居るか居ないかの違いだけ。店主はある意味、皆変人。ガンコでおこりっぽく、そのくせ優しい。その人間的な魅力にひかれる。店(主人)はファンの代表。ジャズを発信するヒーローだと思う」と、キッパリ! 増田玄洋(げんよう)1984(昭和59年)3月4日、神戸生まれ。父は弘前出身。祖父は漢方薬の大家だった元養(げんよう)氏だったことから“ゲン”を担いで付けられた名前。兵庫県立工業高校を卒業して、JR西日本の保線会社に勤めながらの、ジャズ喫茶見聞。「今、ジャズの店は夢を持つのが難しい時代。だからこそ“あこがれ”があり、それが大事なのだ」と。自分の「夢」の実現に向ってジャズロードをひた走っている。
東北近代文学事典という、840ページにも及ぶ、B5判の分厚い本を抱えて、10人程の若者達と共に開運橋のジョニーへ現れ、「この本の“て”の欄を開いて見て!」と、我が女房・小春に言ったのは、昔の文士着物姿の須藤宏明さんだった。
本を開いてビックリした小春は「ジョニー!大変だよ!寺山修司さんと同じページに、照井顕が載ってるよ。しかも次のページは土井晩翠だよ」と興奮しきっている様子。「えっ!」と僕。考えるまでもなく、単なるアイウエオ順だから、たまたま並んだだけなのだが、大変なことだと気付き、落ち着かない。 それにしても、ジャズや音楽関係本とかならあっても?だが、何故僕が文学事典に??、、、。読んでみると「ジャズ喫茶店主。音楽プロデューサー。執筆者」とある。僕と店の楽歴(秋吉敏子ジャズオーケストラをはじめとする多数のコンサート活動)。レコード制作。特に、この事典にも載っている詩人・村上昭夫(1927~1968)の詩集「動物哀歌」の作品に“くつわだたかし”さんと共に曲をつけて歌ったCDについて「照井らの解釈による曲、声音によって村上昭夫の詩に、あらたな境地を切り開いている。」とある。 又、以前、たった一作だけ書いた小説・幻想の縄文ジャズ物語「瑠璃色の夜明け」(1996年)について「自身の経験も取り入れたと思われる生き生きとした描写と、ユーモアをちりばめた軽妙な筆致が注目される」とあり、どうやらこれらが“当選”理由のようである。(筆者は佐藤大裕氏) 岩手出身者では、啄木、賢治、昭夫、をはじめ金田一京介、野村胡堂(あらえびす)、巽聖歌、新渡戸稲造、森荘己池、須知徳平、三好京三、中津文彦,藤井逸郎、深沢紅子、西塔幸子、沢野起美子、大西民子、宮静枝さん等故人。現役では、高橋爾郎、高橋克彦、斉藤純、松田十刻、澤口たまみさん等が目に止まる。 編集者名を見ると東北6県の大学教授たち6名。岩手は県立大学教授の松本博明氏。プラス日本現代詩歌文学館学芸員。そして編集者代表者には何と須藤宏明(盛岡大学教授)の名。執筆者数234人が5年の歳月をかけて出来上がった大文学事典(勉誠出版刊)15750円である。
ポップス歌手の松原みきさんが、ジャズ曲を唄ってリリースしたアルバム「ブルー・アイズ」(1984年発売)を聴いて、ジャズ歌手とは違う歌い方に興味を持ち、彼女のステージを聴きに行ったホテルにて、終演後の彼女と直接話が出来たのは1987年の夏のこと。
話の中で僕が、高田松原海水浴場の松の木話を持ち出して「松原の松は、あなたみたいに、本当に幹が美しいのですよ!」と言ったら、「ワーッ!うれしい今の言葉、必ず残して下さい」と物凄く喜んだ。3・11で消えた松原に残った一本松が話題にのぼる度に、松原みきさんの顔とことばが、僕の頭の中に浮かんで来る。 そういえば、最近彼女の名を聞かないなと思いながら、久し振りに彼女のシングル盤「JAZZY・NIGHT」を引っ張り出して聴いてみたら、彼女の今が気になって、パソコン見ると、2004年10月7日、子宮頸がんのために44才で亡くなっていた。いきなりのショック!僕の頭の中で梵鐘の音がした。 彼女は1959年11月28日、岸和田生まれ、3才からピアノ、中学でロック。プール学院高校時代にはキーボード奏者として京都のライブハウスに出演。1977年、プロになるため上京し、文化女子大学付属杉並高校へ転校。「高校の時、東京の“バードランド”で友人に紹介されたのがジャズピアニストの世良譲さん(1932~2004)だった。その時、対応の声が気に入ったとスカウトされ、周りの人達がプロダクションやレコード会社に紹介し、あれよあれよという間に全てのお膳立てが出来て仕上がったのがデビュー曲“真夜中のドア”(1979年11月発売)でした」と彼女は言った。 そのデビュー曲は何と30万枚を超える大ヒットを記録し、様々な賞に輝いた。彼女の母もとこさんは、スマイリー小原とスカイライナーズの専属歌手だったと言った。「私も歌は言葉が全てだと思いますから、伝えようとする心が大切なので聴いてくれた人の中に“一言でも残ってくれたらなぁ”というのが人十倍も強いので唄い続けて行きたい」と僕に話してくれたのだった。がんと知りレコードや楽譜を全て燃やし音楽に一切触れることをやめていたらしい。生きることに専念するために。
日本最大のドラマーとしてその名を欲しいままに人生を送った「ジョージ川口」さん(1927~2003)。ジョージ川口といえば「ビッグフォー」。1952年、「ゲイ・セプテット」を退団した彼と、ベースの小野満。それに「渡辺晋とシックスジョーズ」に居たテナーサックスの松本英彦と、ピアノの中村八大が合流して出来たコンサート専門のバンド。名付けたのは、リーダー兼、ドラマーのジョージ川口(当時25才)。バンドは結成時から売れに売れ、爆発的、熱狂的に連日連夜、日に10回もステージに立ち、女性ファンに追いかけられ、芸者衆からお座敷が掛かる程の超人気。以来幾多のメンバーチェンジを繰り返しながら、不屈の精神で最高水準のバンドを最後まで保ち続けた彼・ジョージ川口。
彼の父は日本ジャズの草分けサックス奏者・川口養之助(1896~1952)。「海外へ出てプレイしたのも、アメリカの船や、上海で演奏したのも第一号じゃないかな」と彼が僕に語ってくれた時の誇らしげな笑顔が今も浮かぶ。 本名・川口譲治。京都生まれ。6才からの14年間を父が居た大連で過し、ピアノやヴォイオリンを習い学校ではラッパとサックスと小太鼓など一通りの楽器を演奏したという。しかし戦争中は欧米音楽が禁止されたので飛行学校へ行って短波放送から流れるジャズを「カッコイイナー、凄えなー」と聴いたのだと。 戦後大連でドラムを叩き始め、日本に引き揚げ、ジャズ界にデビュー。一般的には、豪放でエキサイティングなドラマーとしての定評。本当はデリケートで叙情的なプレイも好んだ様だが、ファンの期待に応える演奏をし続けた。彼の息子・雷二もジャズドラマー。 「何でも、その道の超一流になればよい。それは自分の努力。答えは簡単!努力の仕方だよ。本当の芸術家って世界にほとんど居ない。皆商売人になっているからね。僕に関して言えばプロに徹しているってことだね。皆にも厳しい。いい加減なプレイは許さない。どんな場所でも、たとえ客が居なくても、目一杯行け!と、そうじゃなかったら、プロとして失格だからね」そう語ってくれたのは、僕が、ミュージシャンを目差す若者へのアドヴァイスをお願いした時のこと。平成元年。第一回全国太鼓フェスティバルで和太鼓奏者の小口大八さん(1924~2008)と競演する日のことだった。 |
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