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音楽になる前のたった一音で、僕を魅了させ、ジャズを感じさせてくれた故・宮沢昭さん(1927年12月6日~2000年7月6日)は、日本のモダンジャズ胎動期の1950年代前半、伝説のピアニスト・故・守安祥太郎や穐吉敏子と邂逅し、白熱の演奏で日本のジャズ界を刺激し、成長させた、日本最高峰のサックス奏者。
自ら作曲した曲には「山女魚」「岩魚」「虹鱒」「川鱒」「あゆ」「ブラックバス」「キャットフィッシュ」「キングサーモン」「シーホース」。はたまた「ブルーレイク」「ダンディフィッシャーマン」「フライキャスティング」など、魚の名前、釣り場、釣り人、釣りの仕掛けに至るものまで、その徹底したタイトル付けをしたジャズマンは、世界広しといえど、釣り好きの宮沢昭唯一人であった。 「演奏も、そのイメージ、たとえば、山女魚はスリリングですばしっこく。岩魚は神秘的に、鮎は優雅に。キャットフィッシュ(なまず)はおとぼけと、そういう風に!」と、僕にわかり易く語ってくれたのは1987年。 彼は1950~60年代に日本ジャズ界を牽引し、70年のアルバム「木曾」を発表後は、歌手・越路吹雪(1924~1980)の伴奏に徹した。80年代はジャズ界に復帰し「マイピッコロ」「グリーンドルフィン」「ラウンド・ミッドナイト」などのアルバムを次々と発表、その度に、SJジャズディスク大賞・日本ジャズ賞を受賞した凄腕だが、とてもあたたかく優しい人でした。 長野県松本市に生まれ「中学卒業後に陸軍戸山学校の軍楽隊で音楽を勉強、同級生に、作曲家の故・団伊玖磨・芥川也寸志等がいた。終戦後上京し銀座のクラブでアルトサックスを吹いたが、楽器を盗まれ、仕方なく友人から中古のテナーサックスを譲ってもらい、テナーマンになった」と言う。 「ジャズは常にチャレンジ。つまり即興ということでは世界選手権と同じ真剣勝負。ジャズの中に日本人を表すこと、その土地、土地の性を出す。それが世界に通用するってことです。ハングリーは仕方がない。しかし“心のゆとり”はある」そう言って、幾度となく日本ジャズの街だった陸前高田に来て演奏してくれたものでした。
一切の妥協を拒絶し、独自の音楽世界を追求し続けた車椅子のパーカッショニスト・故・富樫雅彦さん(1940~2007)。彼が、スイングジャーナル誌のディスク大賞で「金賞」「日本ジャズ賞」「最優秀録音賞」の3部門を独占受賞したアルバム「スピリチュアル・ネイチャー」が話題になったのは、僕が陸前高田にて「音楽喫茶・ジョニー」を開いた1975年のこと。そのLPは、聴く度に精神の高揚(昂揚)と清々しさを感じさせてくれる、崇高な作品。
「1940年(昭和15)東京に生まれ、6才からヴァイオリンを習った。SP盤で、JATPやショーティロジャースを聞いてジャズを演りたくなり、小学6年でジャズメンになる!と決めた。奥田宗宏さんに弟子入りし中学2年からビックバンドやダンスバンドで働き、15才の時には、松岡直也のバンドで月給を貰ったのがプロの始まり。だから学歴は中学までだよね」。そう僕に話してくれた彼。 世界的な天才ドラマーとして、日本ジャズの歴史的重要シーンの数々に登場し、共演者をも魅了させた彼・富樫雅彦が、突然の車椅子生活を余儀なくされたのは、1970年1月。それ以降「生まれた時からこんな体の者が打楽器を使うなら!」を考え、首と手を一緒に持ってゆくことで体を動かす方法や、打楽器の取付けを工夫し、世界最高のパーカッショニストに生まれ変わったのだ。 「どんな時でも演奏は、只一生懸命!裸のままの自分を見てもらい、一瞬一瞬に最善を尽くしてゆく!それしかない。昨夜は感動的なコンサートだった」。そう彼が言ったのは、1988年4月16日、僕が主催し、数百人が聴いた、富樫雅彦カルテットの陸前高田市民会館での演奏会。 そういえばあの富樫さんの演奏姿を撮った写真家・朝倉俊博さんの写真を、版画家の加地保夫さんがシルクスクリーンで刷り、富樫さん、朝倉さん、加地さん、そして僕の4人がサインした30部の作品。その残部があったはず!と最近思い出し、陸前高田の加地さんに電話をすると、何と津波は彼のアトリエの庭先で止まり、作品は無事!と、彼は残部を即贈ってくれたので、関係者に配り僕も額装し店に飾った。
昨2012年の9月「このジャズヴォーカリストを応援しているので聴いてみて下さい」。と開運橋のジョニーへ飯田久美子さんのCDを持参してくれた中村寛昭さん(67)は、その場で彼女に電話して僕と彼女をつないでもくれた。その時、一緒に「お土産です!」と手渡されたものは、彼が考案した「江戸ぺん」というボールペンだった。
スケルトンのボールペン芯に、様々な柄の千代紙を巻いた、オシャレなペンで、見せると誰もが「ワー、キレイ!」と言う。ジャズ講座に通ってくる皆さんに配り、そのペンでそれぞれ名前を寄せ書きにし、それを中村さんに送ったら、再度、再三、再四に亘って「使って下さい」と、送ってくれたり、持参してくれたりで、随分お客様にプレゼントした。 中村さんは昭和21年(1946)豊島区長崎の彫刻家・中村留雄氏の長男として生まれた。実の兄弟は5人だが、父が39才で亡くなる時、友人だった神田の日本美術工芸社の柳沢保基(やすもと)さんに、自分の妻子の面倒を頼んだという。頼まれた柳沢さんには2人の奥さんが居て、それぞれに7人、5人の子がいたから、しまいには17人兄弟になったのだと笑う。 その柳沢さんは戦後の疎開先・平泉に「日本美術工芸社」を移し、神道を広めるためには、神社も布教活動をしなければならないと、お札や破魔矢、祭壇、神棚作りをやり、実用新案の神葬祭用のお墓の考案から、新しいものでは太陽系第3惑星國土大神の「地球神社」トラベルラッキーカード(世界旅行願意成就)なるもの等々。2006年に98才で亡くなるまでに100種を超える発案。昭和30~40年代は霊友会が作った日本一大きな弥勒菩薩像(10m)や釈迦像(13m)などを一本の木で彫らせた立役者、それを手伝った寛昭さん。 工芸社を継いだのは寛昭さんの末弟・基文さん(53)。寛昭さんは、機械が好きで、練馬工業高校へと進み、現在は精密機械を使っての非平面の凸凹や球面体へのパッド印刷を手掛ける会社「キンテツスクリーン工業」の経営者。以前はクラシック現在はジャズ。5月に飯田さんと彼は、僕達と一緒にブルーノート東京で穐吉敏子ジャズオーケストラを聴いた。
岩手出身のジャズピアニスト・故・本田竹広(彦)のレコードデビューがジャズを好きになる決定的出会いとなった僕。以来今日までジャズを聴き続けてきた40数年の想いは、本田に続くプロのジャズミュージシャンが岩手から生まれ出てくれることだった。
大槌から、臼沢茂(tp)のちに宮古から畠山芳幸(b)等が上京しプロ活動。僕は何よりも、その決断と実行に拍手を贈ったものでした。盛岡出身の村井洋介さん(51)もその一人。彼は世界的な名ドラマーだった故・小津昌彦さんの弟子で、彼のボーヤからの叩き上げドラマーであることからか、マーサ三宅、テリー水島、細川綾子、水森亜土、小美濃真弓、ドリーベイカー、フレディコール等、トップクラスの歌手たちからの絶対的信頼を受けながらも、新進やアマチュア歌手の果てまで、実践的歌伴に付き合い、それを録音し、アドヴァイスする、個人教授的存在でもある。 時折盛岡に帰省し、僕の店でも演奏してくれる。毎年9月に開催している、紫波の「あづまね山麓オータムジャズ祭」にも何度か彼のグループにも出演して貰ってきた。そう!1989年、陸前高田で開いた第2回「日本ジャズ祭」(女性がリーダーの8グループ出演)に、ニューヨークからの「秋吉敏子・ジャズオーケストラ」の招聘元ロードマネージャーとして、来たことも鮮烈。 彼、村井洋介さんは1962年3月11日生まれ、上の橋の盛岡正食普及会が実家。岩手高校を卒業、ソシュウ、セラヴィ、真珠苑でバンドマン生活を4年送ったのちの上京だった。「師匠のボーヤをやったお陰の人脈が今の僕を支えてくれている」のだと、今も師に感謝の日々。父・村井良和さん(79)、母・栄子さん(88)も共に正食で元気。 夢は、いつ何処で演っても「来てくれたお客さん達に幸せになって帰ってもらうこと」。「演奏を聴いた人に“ありがとう”と言われる事はこの上ない喜びでもある」と言う村井さん。結婚3回、3度目の正直で、よくケンカをしてお互いの気持を響かせ奏で合うことで生まれた2人の子供だから、名前は響くん(10)と奏ちゃん(5)。結婚12年目である。
盛岡市若園町で1978年から歯科医院を開業しているソプラノ&テナーサックス奏者の黒江俊さん(65)が率いる「ジョン・コルトレーン・メモリアルバンド」が、コルトレーンの命日である7月17日に、ちょうど、もりげきライブ(毎月第三水曜日)にあたることから、久し振りに盛岡劇場でコンサートを開くと言う。
黒江俊さんが、ジャズの巨人・ジョン・コルトレーン(1926~1967)の音楽に出会ったのは中学3年生の頃。彼自身も当時はブラスバンドで吹いていた。ハンククロフォード、ソニーロリンズ、に次ぐ3枚目に買ったLPレコードが運命的出会いとなった「アフリカ・ブラス」だった。 高校入学時には念願のテナーサックスを親から買って貰い、コルトレーンそっくりに吹きたいと、毎日毎日練習したと言う。トレーンのスピード感、疾走感のカッコ良さにハマリにハマッて、大学に入った時には、当時まだほとんどだれも持っていなかったソプラノサックスをフランスから輸入。それとて、コルトレーンが吹いていたから欲しかったのだ。 彼、黒江さんは産婦人科医の父・富雄と母・八重の長男として1948年(昭和23)3月14日、青森県弘前市に生まれ、弘前南高(同級生に、いなかっぺいさん)を卒業し岩手医大歯学部に入学。卒後医局に4年在籍後、気仙沼市と紫波町でそれぞれ1年づつ勤務医を経験し独立。 音楽は当時父が持っていたレコードの全部を、小学生のときから電蓄で聴いて覚え、グレンミラーから江利チエミまで、その全てが彼の血となり肉となって、大学時代はクラブやダンスホールで週3回3ステージづつ舞台を掛け持つ、バイト三昧。 60年代前半を引っ張ったコルトレーン。17回忌(1984)の頃にはトレーン派の連中も皆フュージョンになってしまった淋しさから彼は、コルトレーンの黄金期のスタイルを再現するバンドをつくった。翌年(1985)僕は、彼等に陸前高田で開催した真夏の「日本ジャズ祭」に、20年後の2005年には、開運橋のジョニーに出演してもらったのでした。メンバーは今も変わらず、鈴木牧子(p)下田耕平(b)戸塚孝徳(ds)黒江俊(ts)。JCメモリアルバンド結成からすでに29年、コルトレーンはまだまだ生きている! |
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