盛岡のCafeJazz 開運橋のジョニー 照井顕(てるい けん)

Cafe Jazz 開運橋のジョニー
〒020-0026
盛岡市開運橋通5-9-4F
(開運橋際・MKビル)
TEL/FAX:019-656-8220
OPEN:(火・水)11:00~23:00

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幸遊記NO.143 「村田浩のBOP・BAND」2013.9.30.盛岡タイムス
 日本で唯一人とも言える“レギュラーの5人編成による、ハード・バップバンドを率い続けること38年の大ベテラン、ジャズトランペッター・村田浩さん(70)が、昨年に続き、今年(2013)も又、開運橋のジョニーに出演し、心が静かに沸き立つ熱演を繰り広げてくれた。
 彼がその「BOP・BAND」を結成したのは1975年。そう、僕がジョニーを陸前高田に開店した年であることから、彼の存在は勿論、レコードもよく聴いていたのだが不思議にも、何故か最近まで縁が無かった。
 出会ったのは2006年8月6日のBE・BEPPU・JAZZ・INN。かつて僕は、デューク・エリントンの「C・JAM・BLUES」という曲をもじって「SEA・JAM・BLUE」とし、店のキャッチフレーズにしていたことがあったけれど、大分県別府市のジャズファンたちは、ジャズスタイルの「BE・BOP」を「BE・BEEPU」とシャレて、ジャズ祭をやっていたのだった。
 ジャズは時代と共に、社会背景を取り込みながら、常に変化し生き続けているのだが、トランペッターのディジー・ガレスピー(1917年10月21日~1993年1月6日)等に始まった、モダンジャズの原点ともいえるビーバップスタイルを変えることなく、極め尽くすかののごとく追求してきた信念の人・村田浩。彼は1943(昭和18)年6月20日、横浜に生まれたが、父はその2ヶ月後に亡くなってしまい、母は駄菓子屋を開いて、彼を大学(日大商学部)まで通わせたのだ。小学5、6年の頃、映画でラッパを吹く真っ黒い人(ルイアーム・ストロング)に憧れ、高校、大学と吹奏楽でトランペットを吹き、サラリーマンを1年経験後の1967年プロデビュー。
 1992年発売のアルバム「THE・BLUES・WALK」は世界的なヒットを見せたが、彼は決しておごることなく「喜んで貰えるかという意識。夢を売るのではなく、夢を買って貰う様な、スムースな演奏が出来て嬉しかったと思えること」。「僕のバンドは僕よりもいいメンバーに恵まれて幸せ」なのだとも。「ジャズはたいがいカバー曲の演奏だが、中味は演奏者それぞれによって、全然違うオリジナルみたいなものだから自分の曲を書く気持にはならなかった。だから、作曲はたった4曲だけ」と恥ずかしそうに笑うのだった。


幸遊記NO.142 「澤口良司のドラマーな人生」2013.9.23.盛岡タイムス
 僕が盛岡に来て、最初に気に入ったドラマーが澤口良司さんだった。あれは2002年の春のこと。TAKESやSOUND8でのプレイを聴いて、何でも叩ける人という印象から、オルガン奏者・鈴木清勝さんが東京からやって来るという時、ドラマーを探してると言うので澤口さんを推薦した。以後彼は藤原建夫トリオのレギュラーを務めながら、自己のトリオでの唄伴も随分とやってくれている。
 4月から10月までの第二日曜午後に、2010年から始めた「盛岡大通・ビック・ストリート・ジャズライブ」も3年で20回。そして今年2013年8月はビック・ストリート・ジャズフェスティバルと4年間毎回文句の一つも言わず、只ひたすら汗を流しながら楽器や機材を車で運んでくれて、勿論後片付けもし、ストリートライブを支え続けてくれた事に、僕は感謝しても、しても、しきれない位なのだ。彼が居なかったら、とても続けられなかった。
 それなのに、冬には茶餅。春になれば山菜を。夏には岩魚。秋にはきのこ。などなどを自分で採って直ぐ料理出来る状態にまでして、店に度々持って来ることすでに10年。新鮮この上ない天然物を居ながらにして食べさせて頂ける幸せ。
 澤口良司さん(64)は松尾村(現・八幡平市)に昭和24年4月22日、農家の長男として生まれた。盛岡農業高校と畜産講習所を卒業し、家畜の人工授精師の資格を持つ人だが、ビートルズが来日した時にTVを見て以来、バンドをやれば女の子にもてると思い、親に頼み込んで買って貰ったのがドラム。エレキバンド全盛時テレビの演奏を見ながら、ドラムを練習したから、右利きなのにドラムだけは左利きになったと笑う。
 高校時代から他高生とバンドを作り、オリジナル曲をやり遠征もした。学卒後は、昼は農業、夜はドラムを叩く2重生活を15年も続けたと言う。そんな生活の足を洗い、ふとん店に勤めることすでに30年。だがドラムだけは止められず、アマチュアとして楽しんでいる今も、勉強熱心。そういえば、小学校の先生になった彼の一人娘・志穂さんが、初めて演奏を聴いたという2003年「お父さんって、かっこいい!」と涙ぐんだ日の美しい光景が目に浮かぶ。


幸遊記NO.141 「20年~30年振りの再会」2013.9.16.盛岡タイムス
 陸前高田で音楽喫茶。ジャズ喫茶。日本ジャズ専門店。ジャズクラブ。などと冠を変えながら「ジョニー」という名の店を自分が経営していた1975~2000年までの25年間を、時折、振り返えさせられる人、人、人が現在の盛岡・開運橋のジョニーまでやって来る。
 大船渡から時折、幼稚園や小学生の頃に父親に連れられて店に来ていた、可愛い坊やが大学時代に父と又来て、今度は盛岡に就職したと言って、一人でジョニーに来てくれた新川君。
 高校、大学時代に店に通い、今、仙台太白区でクリニックを開業していると言う、陸前高田出身の内科医、熊谷裕司君が、先日は自分の娘さんを連れて店に来てくれた。
 汽車(ディーゼルカー)通学で大船渡から高田高校へ通って来る生徒の中には、時折学校に行かず、授業が終る時間まで「ジョニー」に入り浸っていたり、学校帰りに寄る生徒たちが少なからず居た。その中の一人だった前田哲也君も先日ひょっこりやって来て名刺を見せられたら東北銀行・大通支店長の肩書き。
 店は最初、陸前高田の荒町というところにあった小さな店だったが、どうしても表通りで店を開きたいと2年余りの後、駅前通り突き当りT字路の大町商店街の入口に、ジャズ喫茶(日本ジャズ専門店)の大きな看板を掲げた。すると今度は、学校帰りの小学生たちが、店のドアから覗き見する様になり、ドアを開けると、ワーッと逃げてた子たちが、いつの間にか堂々と、表のドアから入って店内を眺め、裏口から出て行く通学路と化した。のどの渇いた子に水をあげたり、時折ジュースを振舞ったりもした。ところが最近、「その小学生の一人が僕でした」と、開運橋のジョニーに宇都宮から現れた畠山綾希くん。
 「僕が小学生の時?もしかすると千厩中学の頃だったか、ジョニーさんが学校で講演した時、ヒゲをはやしたら皆にヒゲされる様になったと言ったのを、今ようやく理解出来る様になりました」と言って来た、青森朝日テレビのカメラマン・伊藤耐治郎君。
 「昔、私の母が陸前高田に来た穐吉敏子さんのコンサートを聴きに行っていたので、今度、10月30日盛岡に来る穐吉さんのコンサートを聴きたい」と予約してくれた陸前高田出身、遠山病院の管理栄養士・志田さん。時の流れのありがたさを感じる今日この頃です。


幸遊記NO.140 「佐藤靖の国際ニュース」2013.9.10.盛岡タイムス
 47才の誕生日前日(1994年4月19日)僕は、それまでの20年間、陸前高田での500回余りのコンサート主催にピリオドを打った。その最終回となった無料コンサートに出演してくれたのは、1980年に僕のレコードレーベル、ジョニーズ・ディスクからデビューし大活躍中のドラマー「バイソン片山」さんだった。
 そのことを、全国ニュース、更に国際ニュースとしたのは、朝日新聞大船渡支局に同年4月に赴任したばかりの東京出身の佐藤靖さん(当時30)だった。次に彼が報じたのは同年10月21日付「ジャズの友情演奏」。ニューヨーク在住のピアニスト・穐吉敏子さん(当時64)が、ライブ活動で赤字を抱えた僕を応援する為に陸前高田ジョニーにやって来て、「ご奉仕です」と言って演奏し、出演料の40万円を僕にプレゼントした記事。これまた国際ニュースとなって、記事を読んだというカリフォルニアのFM局から夜中に(向こうは昼)、放送したいと電話が来てビックリしたものだった。
 先日、ひょっこり「陸前高田に行って来た帰りです」と開運橋のジョニーに寄ってくれた佐藤靖さん(49)。「そういえばあの時、僕はそのことで深夜に照井さんから電話で起こされたっけ」と昔を懐かしんだ。その時彼は入社10年目。浦和、大船渡、佐渡、会津若松、函館、熊谷、現在は塩釜、支局長として歩んで来て、移動の度に葉書をくれ、時折、店にも来てくれた。
「変わり者が居た大船渡時代が一番好き。食べ物もおいしかった。親しくしてた陸前高田の写真屋「和光堂」菅野有恒店主(2011・3・11の津波で亡くなった)から、毎年届いていた家族写真の年賀状を息子さんに渡そうと思って来た」とのことだった。
 彼、佐藤靖さんの大船渡への転勤が発表されたのは、今NHKTVの朝ドラ“あまちゃん”に登場する三陸鉄道の車両が風で吹き飛ばされた日。彼が当時ジョニーに飲みに来るのは、「大船渡線上り最終列車、陸前高田駅19時30分着。店に向う駅前通りの道の上に寝転んでみたことがあったほど、車さえ通らない陸前高田だったな」と彼。


幸遊記NO.139 「大給桜子の女子ジャズ」2013.9.2.盛岡タイムス
 ジャズピアニスト故・大給桜子さんの生演奏を初めて聴いたのは1985年1月、所は六本木“ボディ&ソウル”。所用で丁度上京した日の夜に出演するのを情報誌で見て演奏を聴きに行った。演奏はレコードの何倍も素晴らしく、感動したことを、今でも彼女のレコードを聴く度に思い出す。以来僕は幾度となく彼女のコンサートやらライブを企画し、陸前高田や盛岡に来て貰ったものでした。その最大のステージは、穐吉敏子ジャズオーケストラがトリを務めた時の日本ジャズ祭(1989年・陸前高田)。
 1949(昭和24年)12月25日それこそ新潟の高田(上越市)生まれ。父が大学の音楽教授だったことから小さい時からピアノを習っていたが、ピアノが嫌いな子だった。それがどうしてジャズピアニストになったのかといえば、高校を中退し20才過ぎてもまだ目標定まらずにいた時、上京して聴いたジャズの生演奏がきっかけだった。
 「以来、様々なことを解決してゆくその積み重ね。ジャズを演奏するってことは最低でも同時に四つのこと、譜面やテーマを確実にやれて、その中で個性を出し、凄く大切なリズムや、アドリブという即興をやっていかなければならないから大変なの」と話してくれたのは1987年の夏。
 当時「東京でも純粋に演奏がやれて聴かせられる店は、“ピットイン”“アケタの店”位しかなく、殆んどの店はそうじゃないから、地方の方が仕事に行くって感じ。行く方も迎える方も力がこもっているから朝から違う感じ。ステージって演奏する側と聴く側で創って行くものだから」と、地方の聴きたい僕らの気持も汲んでいた。
 「自分を空しくして誠実に」をモットーとした大給桜子さん(1949~97)に当時女性演奏家の少なさを尋ねたら「余裕のなさ。ヒステリック。小さくまとまる。乱れる。共演者の気持が解かんなかったりとかがモロに出る演奏をしちゃうから」と自戒を込めて言ったことが思い出される。あれから4半世紀。大先輩、穐吉敏子さん(今年84)は67年も前の最初からその欠点を克服していたパイオニア。今、世界のジャズシーンは女子ジャズブームである。


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