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僕が良く行く「本のくずおか」のご主人・葛岡恒久さんと、初めて会話出来たのは2011年11月。巽聖歌の童謡曲集の楽譜(CD付)の出版会議の時が最初で、会議終了後に彼をそのまま店まで追いかけて話をした。以来僕は彼の魅力にとりつかれ今日に至る!。その間店に集う文筆家たちにも出会った。 彼は彼で「店にジョニーのCD置くから」と「ジョニーズ・ディスク・コーナー」を設けて、開店から閉店まで、一年間も店内に流し続け、相当の枚数を売ってくれたのです。本当にありがとうございました。 そんな彼が「本のくずおか」として紫波町役場付近の国道4号線沿いに店を開いたのが昭和59(1984)年。それ以前は、東北自動車道紫波インターの西側、上平沢で薬と化粧品と本の「くずおか商店」を営んでいた。本を導入したのは結婚した昭和50年から出版社の企画物の番付で岩手の1、2を陸前高田の菅勝書店と伊東書店が競っていて、盛岡よりも高い本を買う教養人が多いといわれ昭和53年に視察に行き、僕の店「ジャズ喫茶ジョニー」にも寄ってくれたらしい。55年全13巻の園芸大百科事典を頑張って売ったが「くずおか」さんの上にはやはり高田の2軒。販売は家と人を知ることが大事だと外交した結果が表れたのは昭和60年。全24巻の少年少女文学全集。秋田「川井書店」490。仙台「高山書店」が480。山形「歳新堂」が310。岩手は陸前高田「伊東」210。「菅勝」100。盛岡「東山堂」170。このとき「くずおか」は250部を達成し、念願の県内トップとなった。 彼、葛岡恒久さんは1948(昭和23)年紫波町生まれ。花巻北高校。東北学院大学・経済学部卒。薬品会社に就職後、家業の薬屋を継ぐために戻ったのでした。現在は末の弟・青山学院大卒の武男さん(48)が、かつて盛岡・上の橋通でやっていた「みみずく書房」を閉じ「本のくずおか」を継いだ。恒久さんは「捨てるのにはもったいない本を預かって安く売る古本屋(書棚を貸す)を店の片隅で始めたら、ある人の本は600冊。ある人の本は300冊も売れた程、好評ではあっても、「折半の売り上げは酒代に及ばず!」と笑い飛ばす彼。
1952(昭和27)年から続いている「LYON」というピアノ・バーが横浜にある。現在の店主・4代目の津田龍一さん(72)が、突然「開運橋のジョニー」に現れ、ビックリしたが、実は前日、僕も女房と休み中の「リヨン」に行って来たばかりで、メチャうれし!と抱き合った。ピアノも弾いてくれた。 2011年「横浜(ハマ)のブルース」がカラオケに。かつては「渡辺プロダクション」や、その親が経営した「マナセプロ」専属だった龍さん。1973年、麻薬問題で入国出来ず急遽中止になった、あの超有名バンド「ローリング・ストーンズ」の初来日公演の日、前座を演るはずの、日本のバンドは、何を隠そう当時人気上昇中の「津田龍一とブルー・エース」だった。そのバンドは、1968年、小畑ミキ「恋のシーサイド」をヒットさせ、テレビのエレキトーナメントや日テレ音楽院の初代講師を務めたり、シャボン玉ホリディ。ヒットパレード。スター誕生。等々に深く関わってきた彼。しかし、テレビ歌伴のオーケストラ・アレンジを、一日10曲などと殺人的に仕事をこなしてた時、突然土砂降りの雨の如く目に異状。医師から中心性網膜炎と診断され絶望、楽譜読み書きを断念せざるをえなく、芸能界から蒸発。42才の時だった。 ウエスタンカーニバル、芸術座、ACB、ドレミ、新世界、モンテカルロ、クラウン、梅田コマ劇場や、地方公会堂、等々様々、エレキから、ムードコーラス、ラテンロック、ジャズ、など自分のバンドでの演奏ツアーが、走馬灯の様に浮かんでは消える20年間の音楽ブランクは、彼にとってはどん底だった。 楽に死ねる方法を考えながら、酒に溺れ、街をふらついていたある日、ライブハウスから聴こえてきたピアノで、ハタ!と心の目を覚まし、音楽の道へ復帰。すると彼の音を聴いた人が彼に「リヨン」をプレゼントした。そんなことから彼は「団塊の世代を癒したい」と、2009年「ひき潮」というCDを制作発売した。 彼の祖父・三右衛門は台湾移民治安維持のボス。両親ともに台湾生まれ。そのことから彼・津田龍一(本名・竹津忠則)さんも台湾で1940年に生まれた。7才の時に九州に引き揚げ、高校を中退して上京し、プロデビュー。
横浜市中区野毛町の桜木町駅近くに、現存する日本最古のジャズ喫茶「ちぐさ」。店主だった故・吉田衛さんが20才の時(1933年)に開店。戦時中の大空襲で店舗と6.000枚のレコードを焼失。しかし兵役を終えて帰った33才の彼氏に、多数の人達がレコードを提供して、店を再開させたハマ人達の心意気。 1950年代、若き日の穐吉敏子、渡辺貞夫、日野皓正らが、吉田氏を「おやじさん」と親って勉強しに通ったその店は、2007年土地開発で移転を余儀なくされ閉店。だが「ちぐさ」を愛してきた人々が、その後「ちぐさ会」を立ち上げ、昨2012年、1階をジャズ喫茶、2階を吉田衛記念館とする昔風の「ちぐさ」を野毛町に開店させたのです。 更には、多くの日本人ミュージシャンを育て支援し続けてきた吉田さんの遺志を継ぎ、今年「ちぐさ開業80周年」「吉田衛生誕100周年」を記念し、ジャズの専門レーベル「ちぐさレコード」を創設。更には優秀な新人を発掘、表彰する「ちぐさ賞」を制定した。かつて「横浜文化賞」を受賞していた吉田氏が亡くなった翌年(1995)、あの穐吉敏子さんに「ちぐさ賞」を贈った経緯。 そしてあらたに、この2013年・第一回「ちぐさ賞」の発表!なんと!!盛岡を中心に活躍中のジャズヴォーカリスト・金本麻里さん(34)が受賞者に!。2006年に活動開始以来、僕の店「開運橋のジョニー」を拠点に唄い続け、そのジャズの基本に忠実に、透明な歌声で、スタンダードを素直に歌い上げる歌唱力が評価された。(ちぐさ賞委員会・瀬川昌久委員長“ジャズ評論家”)。副賞でレコード化される。 このニュースが共同通信社より全国のマスコミに配信された翌日(10月12日)には、日本ジャズピアノ界の巨匠、今田勝のトリオ(古野光昭ベース・田鹿雅裕ドラム)をバックに、横浜ジャズプロムナードのNHK横浜放送局オープンステージに出演。50分間の生放送。関係者達大興奮。終演後ご年配のかたが「若い人なのに、私はまるで母の胸に抱かれて子守唄を聴いて居る様な心地だった」とインタビューに応えていた。そして今日(10月18日)金本麻里さんは、障害者施設で働くヴォーカリストとして産経新聞第二面で「きょうの人」となったのです。
あれは丁度1年前の2012年10月20日、美智子皇后様の誕生日に行われたジャズマスター・穐吉敏子さんの東京・オペラシティ・コンサートを盛岡から聴きに行くツアーを企画し、僕のジャズ講座生たちと新宿のホテルに泊った日の翌朝、僕は中古レコードを探しに出かけた。だが店はまだ開いておらず、とっさに頭に浮かんだのは、そうだ!あの「ゴールデン街」。朝はどんな姿をしているのだろう?と行って見ることにした。(新宿ゴールデン街は、盛岡で言えば桜山神社前の飲食店街みたいな所)。 アーチになっている“ゴールデン街”の看板をくぐろうとした時、ふと瞼に浮かんだのは、平川真作さんという流しのアコーディオン弾きの姿だった。あれはもう25年前、昭和が終る直前の真冬。ゴールデン街にある「シムラレン」というジャズの店に行こうとして、平川さんの立ち姿に、僕が立ち往生。「外で演ってもらえますか?」と言うと「お兄さんにお似合いのタンゴでも演りましょうか」と弾いてくれた。 話を聞けば、彼は昭和9年愛知の生まれ、上京して30年ということだった。「家が貧乏で、小学2年までしか学校に行けなかった。でも家の近所に凄いアオーディオン弾きが居たので、流れてくる音楽を聞いて、ハーモニカを吹き、字ぐらいは書ける様にと一生懸命勉強し、楽譜の読み方から弾き方まで教えてもらった」のだと。 「大人になっても童謡かくせず」は僕のダジャレだが、平川さんは、童謡みたいな曲が好きで、自分でも作詞作曲した「しの竹子守唄」「いなご子守唄」「モグラの唄」なんてのもあるよと、言って笑った顔が素敵だった。 当時ですら、新宿のアコーディオン流しは彼1人になってしまった様子を語りながら、少し淋しそうでもあったが、「野球の長嶋茂雄さんは、僕の演奏だと、いつもよく歌い、しかも上手なのだ!」と、誇らしげに話した彼は、今も元気だろうか? 新宿ゴールデン街は、店1軒1軒の佇まいが、実にアートで、その朝日があたるハーモニカの様な長屋の店の殆んどを、僕は写真に収めてみた。それはまさに、絵画や彫刻、インスタレーションを見てるような芸術性に満ち溢れていた。
天才的な日本人ジャズピアニスト現る!みたいに、テレビで映され、ニューヨークのカーネギーホールでピアノを弾く小曽根真さんがクローズアップされたのは1983年9月、米音大卒直後の事。日本人で初めて米CBSと専属契約を結び、ゲイリー・バートン(ヴァイブ奏者)のプロデュースにより、デビュー作「OZONE」を発表(日本では翌84年6月発売)されて好スタートを切った彼。
ジャズピアニストの父、宝塚出身の母との間に神戸で1961年(昭和38)3月25日に生まれ、子供の頃にハモンドオルガンを習った。11才(小6)の時来日した、オルガニスト・ジミー・スミスのコンサートを父と聴きに行き、ジミーと知り合いだった父と楽屋を訪ね、そこにあったピアノでジミーの曲「ザ・キャット」を弾いたら、ジミーが連弾で伴奏。「Fのブルース」では、ケニー・バレルがギターで加わり、イリノイ・ジャケーがテナーサックス、アート・ファーマーがトランペットで加わりジャムセッションになっちゃった!の。と僕に語ってくれたのは、それから20年後の1991年のことだった。(超凄初体験談) その後イリノイは、父にこの子をアメリカに行かせろと言ったという。その、翌年、オスカー・ピーターソンのピアノに魅了され、高校を卒業するとバーグリー音大に留学。フェア。グッド。ベリーグッド。エクセレント。の4段階に振り分けられる聴音テストで唯一人完答して、トップクラスで作編曲を学んだ。卒業後、ジャズピアニストとなった彼だが、本当は穐吉敏子のビックバンドを聴いて憧れ、ビックバンドの作編曲家になりたかったのだとも。 入学して直ぐの頃、イリノイがボストンのジャズクラブに出演した時、聴きに行き「あの時あなたがアメリカで勉強せい!と言ったから、今来て勉強している」と言ったら、次のステージに1曲登場させてくれて、来週はニューヨークの名門ジャズクラブ「ヴィレッジ・ヴァンガード」に来いと言われ、そこでも演奏させてもらい、感激!。「だが、学校では誰も信じてくれなかった」と言う。ジャズは即興でどれだけいい音楽を作ってゆくかってことが「メイケッツ・ハプン」だから、何かを起こしてゆく、何かをハプニングさせるってのが僕はジャズだと思う」と言った彼は今もそう生きている。 |
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