盛岡のCafeJazz 開運橋のジョニー 照井顕(てるい けん)

Cafe Jazz 開運橋のジョニー
〒020-0026
盛岡市開運橋通5-9-4F
(開運橋際・MKビル)
TEL/FAX:019-656-8220
OPEN:(火・水)11:00~23:00

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幸遊記NO.153 「千崎秀樹の記念日花束」2013.12.16.盛岡タイムス
 白いカスミ草、薄紫のスイートピー、白の小百合(アルストロメリア)、そして真赤なバラ2輪の花束を抱え、千崎秀樹さんが開運橋のジョニーへやって来た12月12日は、ジャズピアニスト・穐吉敏子さんの84回目の誕生日。そして僕と小春の結いの記念日。
 さっそくピアノの上に花を飾らせてもらい、先客の女性から届けられた大きな特注ケーキにナイフを入れて、居合わせたお客様たちと一緒に、プチパーティー!。煮豆。ハタハタ。横浜からのノリで包んだおにぎり。ビールにワイン。ハーブティー。何の脈絡もない、不思議な取り合わせ。だが一番のピッタシは千崎さんと僕が、20才違いの同じ4月20日生まれだった事。
 彼がジョニーに現れ出したのは、今年の夏頃。長期出張の派遣で本社から、盛岡支社に春から来ていて、「ある日開運橋のジョニーを見つけて、エレベーターに乗ったら、まるでタイムマシンのような気分になった!」と。彼は店に来ると、必ず何かを手帖にメモり、店で流れるレコードのジャケットや、その日の店内を、あちらこちらとカメラに収めながら、ニコニコと、エビス顔で例のビールを楽しみながら飲む。釣りはいつもさりげなく「希望」のビンに入れて立ち去る心遣い。ありがとう、、、、、、。
 彼がジャズを聴き始めたのは、中学時代のFM放送。エアチェックして「渡辺貞夫」さんのカセットテープをよく聴いたという。高校に入って間もなく「地元島根の浜田市にあった“サテンドール”というジャズ喫茶によく通った。マスターがサイフォンで入れてくれた“モカ”をベースにしたコーヒーが抜群で、ジャズとマッチして最高でした」。
 生れてこのかた46年。外国だと思ってたくらい遠かった岩手だが、盛岡に降り立ち、開運橋から眺めた岩手山が最高だった。冷麺、じゃじゃ麺、そしてジョニーのジャズ麺?にはまった。時折奥さんにも来盛してもらい、一緒に盛岡の街や、中津川べりを散策する。今では、この街・盛岡が最高に気に入って、住みたいとさえ思い始めてると言う。が、しかし彼にも、ジョニーの眼下にある“二度泣きの開運橋”を涙して?渡る日が刻々と近づいている様子だ。


幸遊記NO.152 「ラヂオ体操第三の管弦楽とピアノ」2013.12.10.盛岡タイムス
 僕が昨年の11月と今年の11月に東京で見付けた幻のSP盤「ラヂオ体操第三」の事がこの12月3日付の本紙・盛岡タイムスで報じられた。その翌日、開運橋のジョニーへ「記事になってた、ラヂオ体操第三のレコードを聴かせて下さい」と一人の女性が現れた。その方は大崎和子さん(86)「昭和22年頃、岩手師範学校(現・岩手大学)の技能科の体育研究部員だったことから、第三を習い踊ったものなの」と言う。彼女は県立盛岡高等女学校(現・盛岡二高)から師範へ進んで教員となり、渋民、仁王、そして結婚後は母校だった桜木小学校で17年間も教えた元先生。あの頃、桜木小学校には、全校で1800人もの生徒がいたと当時を振りかえりながら、第三は習い覚えたけど、すすめる場がなかったとも。
 今年発見した盤(震災前陸前高田市立博物館にあった貴重な資料盤と同じ番号のSPレコード)ピアノ・丹生健夫のラヂオ体操第三と、昨年見付けた、少し若い番号の東京放送管弦楽団・指揮・丹生健夫のラヂオ體操・第三。の両方を聴いて貰ったら「当時踊ったのは管弦楽団盤のほうですね。いい曲ですよね。音楽的で,しかも楽しい大人の体操って感じ、これはもう芸術ですね」と彼女。
 ピアノ伴奏盤の方は、現在の、ラジオ体操第一、第二よりテンポの早い舞曲ような体操用レコードである。これが最初に話題となったのは、1995年」10月から11月にかけてのこと。陸前高田市制40周年記念特別企画「陸前高田市の昭和史展」開催中に元教員で書の大家だった故・佐藤氷峰氏が持っていたものを奥様が市に寄贈したものだった。その後の調べでは総務省にも、NHKや製造元のキングレコードにも保管されていない「日本で唯一の資料」との折紙が付されたことから、陸前高田には、ラヂオ体操第三のレコードがあるぞと、市民の自慢となっていた。
 ラヂオ体操そのものは、昭和3年に第一、7年に第二、14年に第三が制定され放送されたが終戦の日に放送中止。その後、21年4月に新しい第一~三が作曲放送されたが、これ又、22年8月放送中止となった。現在の第一、第二は27年6月16日からの放送。今般発見のSPレコードの第三は21年から22年放送の第2世代もの。だが管弦楽団の盤は、もしかして?第1世代のものだったりして!。


幸遊記NO.151 「阿部美佳子の百万本のバラ」2013.12.2.盛岡タイムス

 紫波町彦部にあるコスモス畑にちなんで名付けられたコーラスグループ「コールコスモス」の指導、指揮者であり、同町古舘地区のコーラスグループ「パープルウエーブ」のピアノ伴奏者でもある安部美佳子さん(59)が、先日ひょっこりと開運橋のジョニーに現れた。
 20年以上も自宅で近所の子供達にピアノを教えて来ている彼女だが「同級生たちから、頼まれたのが始まり。通う子供が音楽を好きになってくれればいい。一人一人の自信になり、人生に役立つピアノであればいい」。と一度も教室の発表会を開いたことはなく「子供より親たちがやらせたいのだから」と、やりたくない気持も自分に重ねあわせる。彼女自身ピアノは小学1年から盛岡二高時代まで。
 卒後上京し東京電子専門学校でコンピューターを学び、全農計算センターのプログラマーとして勤務し東京で結婚。実家の父が亡くなり再婚相手だった義母が子供たちを連れ家を出た為、実家に戻り、祖父母が94才、96才で天寿をまっとうするまで介護し看取った。
 紫波町にある「野村胡堂・あらえびす記念館」でレコーディングしたCD「ALAEBISU」
の発表記念「ケイコ・ボルジェソン・ピアノソロコンサート」が行われた2007年6月10日、ケイコさんと共演した急こしらえの「あらえびす合唱団」で「百万本のバラ」(あの加藤登紀子の歌で有名)を原語のラトビア語で歌う合唱団の指揮をしてくれたのも美佳子さん。
 歌は日本語詩とは違い、強国に支配され続けたラトビア共和国の苦難の歴史から生れた詩人・レオンス・ブリエディスの作詞。作曲は同国の元・文化大臣・ライモンズ・パウルス。「神は娘に命を与えたけれど、幸せをあげ忘れた、、、、、」と母娘の悲しい人生を綴ったもの「作者はジャズマン、私は本人から直接許可も貰って歌っているの」とあの時ケイコさんから聞いた。
 2007年あの時「宿命の闇を明かすものジャズ!」と詩に綴った川村明香さんの笑顔と、あの2ヶ月前にご主人を亡くし、激流をくぐり抜けてきて、今の笑顔がある美佳子さんの2人の顔が重なった。これも又、コーラス!か。


幸遊記NO.150 「芦野真弓の盛岡少年少女合唱隊」2013.11.25.盛岡タイムス

 鮭が溯上する季節が近づいてくると、盛岡紺屋町にある「白沢せんべい店」が発行していた30年程前の栞本「旅の詩集」に書かれていた「それぞれの川を下り、大海を知り、天の深さをも知りながら、また帰ってくる魚、命を終えるその瞬時まで、一生懸命に生きることを鮭に学びたい」との文章を、僕は今も思い出す。
 著者は芦野真弓。盛岡少年少女合唱隊の指揮者。ブルガリアの歌を当時100曲あまりもレパートリーに持っていた、世界無二の存在だった彼女は、ブルガリアの国賓として迎えられ、訪ブ歓迎のパーティには毎回大統領が出席した。駐日大使の日本での公式パーティにも大使夫人公認での日本ワイフ役を務めたりもした。
 だが僕が盛岡に店を出してこの方13年、ついぞ、盛岡少年少女合唱隊の名を聞くこともなく、淋しく思い起こしたら、合唱団のレコードが無性に聴きたくなった。彼女が選んだ宮澤賢治の詩に、ブルガリアの作曲家・ペーター・ストーゥベル(国家功労芸術家)が曲をつけた合唱の為の組曲「日本への歌」。そう!あの「海だべがど おら おもたれば やっぱり光る山だたじゃい」のフレーズが浮かぶ。だがレコードは陸前高田に置いてきてたから、それこそ海がさらって行ってもくずとなった。
 それで最近彼女に幾日か、朝昼夜何度か電話してみたが留守。ところがその直後、盛岡駅でバッタリと必然的に出会った。彼女は後日ご主人と一緒に僕の店に来てくれた。母の介護にあけくれた十年余りだったらしい。一週間後僕はあのレコードに会いに彼女の自宅に伺ってそれを頂き、十数年振りに聴いた。1982年10月9日、岩手県民会館で開いた「盛岡少年少女合唱隊の特別演奏会(創立20周年。父から引き継いだ高2の時からの新発足15周年)の記念盤。
 彼女とブルガリアの出会いは県民会館落成時のこけら落しのコンサート。ソフィア少年少女合唱団の歓迎相談を持ちかけられたのが始まり。僕と彼女の出会いは、79年TVI番組「街角に文化を築く青春群像」だった。その後、彼女は僕とのいきさつを、1988年・合唱隊冬に歌うのパンフレットに書いてくれた。1950(昭和25)年7月17日、秋田出身のバイオリニストの父、故・文雄と東京日本橋生れの母、故・斐子の間に盛岡で生れたのが真弓さん(63)なのでした。


幸遊記NO.149 「畔上佳成のヒア・カムズ・ジョニー」2013.11.18.盛岡タイムス

 かつて岩手県三陸町(現・大船渡市)にあった北里大学水産学部のジャズ研究会「浦崎スタンダーズ」のベーシストだった畔上佳成君が、久し振りに僕の前に現れたのは2011年8月9日。穐吉敏子・ルー・タバキン夫婦による、東日本大震災復興支援チャリティー・ジャズライブ「ホープコンサート」を、僕等が紫波町にある「野村胡堂・あらえびす記念館」で開いた時だった。
 ほぼ20年振りの再会。その時、「ケンちゃんこれ!」と言って僕に持参してくれたのは、何と!1992年11月に、僕が大船渡市農協会館と盛岡・岩手教育会館で開いたコンサート「穐吉敏子ジャズオーケストラ」の全メンバーから彼がサインを貰った貴重な一枚の色紙だった。一瞬の内に頭の中がフラッシュバックした!そうだった。あの時の二大イベント。北里大学のジャズ研のメンバーに、コンサートを聴かせるからと、先のオーケストラ。翌93年の6月のカルテット。「陸前高田市ふれあいセンター」と「盛岡劇場」での公演時に当日のスタッフとして手伝って貰ったのだった。
 しかも、彼等が卒演を僕の店・陸前高田ジョニーで行ったとき、なんと4回聴いて覚えた穐吉敏子さんの新曲「ヒア・カムズ・ジョニー」を演奏し僕を驚かせたことも、まるで昨日の様に鮮烈に思い出したのだった。
 畔上佳成、彼は昭和46(1971)年・東京渋谷に生まれ、小学生の時に父と釣りに行ったことがきっかけで、魚の勉強がしたいと、都立千歳ヶ丘高校を卒業して北里大学水産学部へ入学し三陸町へ。大学でロックをやっていたら、児玉教授から3年生の時にジャズ研に引っ張られ転向。卒後は東京で本格的にジャズベースを習ったと言う。横浜に障害者の通所施設建設のための、チャリティーコンサートを開いた時、藤原清登(ベース)トリオを、開港記念会館に呼び、大きな話題と成果を上げたのは2011年6月25日のことだった。
 そして彼は今年(2013)、僕が主催した10月31日の穐吉敏子さんのコンサートを東京・原宿に聴きに来てくれ、すぐ又、盛岡の開運橋のジョニーへと現れたので、僕は嬉しくて仕方がなかった。


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