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2014年1月16日、小野田寛郎(元・陸軍少尉)が91才で亡くなった。彼がフィリピンのルバング島で発見されたのは1974年。テレビに映し出された、敬礼の姿が目に浮かぶ。終戦を知らず、戦後30年近く一人で戦い続けた小野田少尉。当時、20年近くアメリカのジャズの世界で孤軍奮闘し続けていた、日本人としての自分を重ね合わせて作曲した穐吉敏子の「孤軍」(1974年彼女のビックバンドデビュー作)は僕にとって、穐吉敏子さんとの出会いとなった曲。以来40年、僕も穐吉敏子を旗印に和ジャズに生き、生かされ、今日に至った。 その世界に冠たる芸術家としてのジャズピアニスト・穐吉敏子さんと皇后・美智子様はお互いに深い尊敬の念をお持ち合いになっている間柄。2012年6月、穐吉さんは皇后様に御呼ばれになって皇居へと出向き、お会いし、50分間お話しをして来たのでした。そして皇后様の誕生日だった同年10月20日、東京国立劇場でのコンサートに、穐吉敏子さんは皇后様に捧げる曲を持参して演奏した。 その曲はそれこそ“こうごうしい”すてきな曲で、聴衆の胸々に静かに深く届けられた。それを昨年、穐吉さんはご主人のルータバキンさんと一緒に献上するためニューヨークでCDレコーディングしたと、今年1月5日に川崎ミューザの楽屋で聞いた。しかも皇居にて演奏して頂けないかとの皇后様の希望により、1月20日の本日、ご主人ルーさんも、そのために来日されて二人で御前演奏をされるのだそうです。 それこそ、国歌「君が代」を学校での入学・卒業式などで、歌う、歌わない。伴奏をする、しない。起立さえ、する、しない。の裁判ざたがあとを断たない。公務員が拒否するのはいかがなものかと僕は思う。そんなことより、曲として素晴らしい「君が代」をジャズやロックで演奏したり、発売したりすることを禁ずる方がよっぽどおかしい。「君が代」が「ジャズ」となってTVに映し出されたのは1979年のこと。九州若松高校の教師だった小弥信一郎氏が即興演奏をした“君が代”の素晴らしさを、僕は未だに忘れることが出来ないでいる。翌年密かに、とある雑誌の付録(ソノシート)になっていた。 今日、2014年1月20日。それこそ“君が代”の皇后様は、ジャズピアニスト・穐吉敏子さんによって奏でられ音楽となり歴史的な“JAZZ・DAY”になったのだと、この日を僕も密かに嬉しく思っている。
ジャズ界一、明るく好くスイングする品格のある音と曲を創り出すピアニスト・今田勝さん(81)。彼のヒット作「アンダルシアの風」は特にも最高。果たせなかったが俳優で歌手でもあった故・勝新太郎氏が唄にしようとさえした曲だった。
そうあれは80年代初頭、僕の店があった陸前高田市の隣町・宮城県気仙沼市のジャズ喫茶「珈琲館ガトー」のマスター・故・吾妻博さんは大の今田勝ファンで、毎年彼を呼んでコンサートを開いていた。勿論僕も店のお客たちと連れ立って毎回聴きに行ったものだ。ベース奏者も毎年古野光昭さんだったと記憶する。 昨秋、横浜に現存する日本最古のジャズ喫茶の「ちぐさ賞」を受賞した、盛岡のジャズ歌手・金本麻里さん(34)が縁で、最近懐かしい今田さんの生音を聴くことが出来た。NHK横浜放送局での50分間の公開生放送ライブ。そして横浜ランドマークタワー・スタジオでのレコーディング・ライブ。そのどちらも歌は金本麻里。その事はもう何度となく、マスコミが大きく取り上げ、今田さんも「表に出れば良い線行くと思います」と太鼓判。 それはともかく今田さんのエンディングテーマ曲?「自由への賛歌」は、故・オスカー・ピーターソンの曲。彼今田さんは1953年JATP(ジャズ・アット・ザ・フィルハーモニック)の来日時、百万ドルのスターと言われたオスカー・ピーターソンのダイナミックで強力にスイングする彼のプレイに興奮し、胸が躍った。それが彼の原点となったらしい。 以来彼は、ハンクジョーンズ。ビルエバンス。ハービーハンコック。チックコリア。等々の来日の度、コンサート会場に早々と行っては、彼らのリハーサルをまるでアシスタント然として、間近でそのプレイを実況見分。そして研究したのは、鬼才と言われたピアニスト・レニー・トリスターノの奏法だった。 幼稚園で足踏みオルガンを覚え、小学校からピアノ。終戦の頃には「日本軽金属」でゼロ戦の部品作り。明治大学時代には米軍キャンプで演奏。卒後プロの厳しさを知る。1980年発表以来未だに売れ続けているあの名曲「アンダルシアの風」に、今回作家の筒井康隆氏の弟・筒井之隆氏が作詞し、金本麻里の歌になった。2014、3・11、LP&CD発売決定!。
あれはNHKの朝ドラ「どんと晴れ」が放送されていた2007年夏のこと。見知らぬ一人の女性客が現れて、カウンターに座った。ステージでは来るべきコンサートに向けて練習中だったBBカプチーノの二人。肝心の曲がうまくいかないと、繰り返し、繰り返し歌っていた曲は「センチメンタル・ジャーニー」、かつて「ドリス・ディ」が歌って大ヒットした曲で、邦題は“感傷旅行”「さあ気分直しの旅に出かけよう、心に安らぎを与えるために、、、、」という意味の詩。
四国の松山から来たというその彼女は言った。「朝ドラを見ていたら、急に盛岡に行って、開運橋から岩手山を見たくなり、直ぐに来ちゃったの」と。彼女は松山で「十六夜」という会員制クラブを経営している方だった。タバコを切らして、隣に座ってた人から2本いただいたら、四国に帰ってから、松山の様々な名物と一緒にタバコの方に渡して下さいと、2箱のお返しがきた。よほど印象深かったのだろうと想像した。 そして昨2012年「開運橋ジョニー様・この度、移転リニューアルオープン“祝”おめでとうございます」と、彼女が描いた“菜の花”に「春はもうすぐそこ、、、、“ゆらゆらと菜の花続く青い空”」の俳句を添えた手紙が届いた。何でも、あの日以来、彼女は“センチメンタルジャーニー”を口ずさみつつ日々を暮らしているのだと。電話では、ジョニーに来た翌年には、穐吉敏子コンサートを松山で聴き、ジャズの火が灯った。それに、昔、松山のライブハウスにはジョニーというベースマンもいたという。 2013年11月9日に放送されたNHKFM「児山紀芳のジャズ・トゥナイト」での穐吉敏子デビュー作誕生60周年記念特集番組のエアチェック・カセットテープを、センチメンタル・ジョーニー?に贈ってもくれました。「花が好き、音楽が好き、その中で生きられる今がすき」と花々のハッピネスカードが添えられ、「温泉の露天風呂で“センチメンタル・ジャーニー”を口ずさむのが私の至福の時。元気と現金あれば、盛岡に珈琲飲みに行けるので、がんばります」と病と闘っている様子。その後には母恵夢(ぽえむ)のブランデーチョコケーキ「夜明けのブルース」が届けられ、今、タバコの人と僕たち夫婦でその五木ひろしの曲を歌っている。
「俺は出たきり老人」そう言って、元気に出掛けては講義や講演をして歩いてる吉見正信さん(85)が、久し振りに、ひょっこりと現れて「照井顕様」と書いた封書を僕に差し出した。中味は一冊の本「宮澤賢治の心といそしみ」という吉見さんの著作本だ。宮澤賢治の研究を60年以上の長きに亘って続けている彼の、賢治に関する7冊もの著作集が東京の出版社「コールサック社」から出ると言う。 頂いたのは第一回配本の第二巻・評論集。帯には「東北の悲劇に立ち向かうため賢治の“いそしみ”の精神を提言する」とある。それはそうと、先月(2013.11.28)埼玉県久喜市に講演を頼まれて行って来たのだという。宮澤賢治全集第五巻の文語詩「著者」に見た「造園学」の一語と、賢治の手帖にあった賢治筆跡のメモ「本多静六博士・造林学前論」からの抜き書き。そのなかの「石灰ハ濶葉樹ノ生育ニ特ニ必要ノモノ」とあり、賢治の中には本多静六がいて影響を与えていたという思いを彼は抱き直した。それが縁となって本多の故郷での講演と相成った様子。しかも彼・吉見さんのお母さんと同じ小学校に通った本多静六博士(1866~1952)のことは幼い頃からよく母から聞かされ知っていたのだという。 「講演の帰り駅まで乗ったタクシーの運転手がまた陸前高田の出身で「たかはし・さんぞう」さんという方で、ジョニーのことよく知ってたよ!これも縁」と彼。そういえば吉見さんが陸前高田時代の僕の店に現れたのは、1980年代だから30年にはなる。 吉見正信さんは1928(昭和3)年杉並生まれ。東京で雑誌記者を経て、昭和26年1月10日岩手に国語の教員として来た。以来、啄木、賢治にはまってしまい、あっという間に60年以上も過ってしまった訳だが、いまなお“デクノボーの賢治体験をしながら「変人。過激。まともじゃない。」を一番大事にし腰痛にもめげずに頑張っている姿は、オーラにさえ包まれている。 開運橋のジョニーから北上川を眺め「北上川は日本の五大河川だが北から南へ、一直線に流れている日本に唯一つきりしかない凄い川なんだよ!だからもっとアピールすべきだ!」と熱がこもる。
「FUSIE/Midi・World」という私家版CDを僕に差し出し「私が作った音楽です。聴いて見てくれませんか」と言ったのは、藤原章雄さん。昔お世話になった新聞記者の藤原正教さん(現・戯曲・演出家)の弟だった。あれは2001年6月9日の事。聴いて見たら中々に良かったので、後日、当時僕が担当していたFM岩手のジャズ番組で使わせて貰うことにした。 ところが、僕は盛岡に店を出したばかりで、忙し振り?をし、そのCDをしまったまま、すっかり忘れてしまっていた。彼もFMにいつ流れるか心待ちしていたハズだったが、2年ちかくたったある日、今度は「Mix・Nuts」というアルバムや、兄の芝居の音楽作曲集など彼の作品集を持参してくれた。 そのCDから、「キウイ」「レディ」「ゴンパパ」のオリジナル3曲をFMで放送したのは2004年7月20日の夜のこと。ピーナッツ藤原(章雄)のドラムスを中心にマカデミア千葉(sax)ピスタチオ岩井(1st・g)、ジャイアントコーン佐藤(2nd・g)、カシューナッツ工藤(key)、アーモンド近藤(b)という全員ビールのつまみ的ナッツ名冠したバンドで、バラエティに富みハードなのに楽しいオリジナルサウンドは、無二の存在だった。 その後発展的にバンドを解散。新たに「ジャフロサンボ」を結成し、盛岡大通「ビックストリート・ジャズ・フェスティバル」に出演、大喝采を受けた。演奏は、ジャズ、アフロ、サルサ、ボサノバをミックスした藤原さんの理想のサウンドで、聴衆の体も動いた。 藤原章雄さん(55)は昭和33年10月22日盛岡に生まれ、下の橋中学校から盛岡四高、亜細亜大学経済学部へと進んだのだが、四高時代に「鬼瓦」というオリジナルロックバンドを組んでたことから上京し、プロになろうと全員で同大学へ入学、学園祭などで演奏。デモテープを作ってはコンテストに何度も応募したが、ザンネンデシタが続きプロをあきらめ、ヤクルトに入社、現在に至る!。なのだが、自分の子に「実音(みおん)」と名付けた程の音楽好き。店に来て飲めば、時折、「俺ジョニーが好きなんだ!」と男泣きもする。 |
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