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昭和38年(1963)僕は望んで県立高田高校の定時制(夜間)に入学した。出身が平泉中学だったから、同級生では一番遠くからの入学。次に遠かったのは住田町下有住中学から入った紺野拓実君だった。僕は叔父(父の弟)が経営する照井クリーニング工場に住み込みで。紺野君は、馬場歯科医院の技工士見習いとして、やはり彼も住み込みで就職。お互いよそから来たので知り合いが居ないということもあって、友達になろう!と互いに契りを交わした高校時代の最初の親友。
その彼、拓実君(65)が奥さんのてつ子さん(61)と連れたって開運橋のジョニーへ現れたのは昨2013年12月のこと。「長男拓郎(37)が結婚することになったので、出席してくれないか!」喜んで!と二つ返事の僕。そして東日本大震災で被災し、高台に移転・再建し昨年オープンした「キャピタルホテル1000」での結婚式に、つい先日の2014年2月16日出席して来た。 拓実君の3人の子供のうち次男の実君(34)は盛岡在住ですでに2女の可愛い子供(孫)。3男光君(26)は独身。拓郎君と亜也枝さんの結婚披露宴のスピーチに立った、キャピタルホテルの代表取締役会長・小山剛令さんによると、何と拓郎君はホテルの和食を担当する総料理長であるらしい。もちろん抜擢したのは小山さん。全員に料理を作って貰ったら味とアイデアに、一番秀れていたという。拓郎さんはキャピタルで働くことが夢でドアマンから上りつめたらしい。 「ソチオリンピックでの羽生結弦選手は雲の上の世界一ですが、僕も今日は天にも昇る世界一の幸せ者です」と拓郎君。父・拓実は橋幸男、舟木一夫、西郷輝彦、そして吉田拓郎が大好きで、いつも彼等に成り切って歌ってた高校時代。そうだ!高1の時「照井!お前は、詩が好きなようだがら、これ読んで見ろ」そう言って三田明のシングル盤レコードの歌詞カードを僕の机の上に置いていった彼。僕はそこに書かれてあった、夜の定時制高校のことを歌にした、「みんな名もなく貧しいけれど」に心を打たれ、そこから、僕の音楽人生がスタートしてしまったのです!。今もって懐(ふところ)は貧しいけれど、音楽のお陰で、気持だけはこの上ない幸せな毎日。旧友、紺野拓実君も、3・11で住まいを流されはしたが、まだ昔からの趣味であるラジコンで夢を飛ばし続けている。
「仙台での講演を頼まれたので、翌日、盛岡まで足を伸ばして照井ちゃんの所に行きます」そう言って彼、井阪紘さん(72)が開運橋のジョニーに現れたのは2013年6月30日の夜だった。その前に会えたのは2007年。偶然にも「第19回ミュージック・ペンクラブ賞」の受賞式会場でだった。彼の著作本「一枚のディスクに=レコード・プロデューサーの仕事」が最優秀著作出版物賞を受賞。その時の僕はといえば、穐吉敏子・ルータバキン・スーパーカルテットの「渡米50周年日本公演」をプロデュースして、制作したCDが最優秀録音賞を受賞し、出席していたのでした。
井阪さんとの出会いは1986年の秋吉敏子ジャズオーケストラ・陸前高田公演の時、招聘元「カメラータ・トウキョウ」だったから嬉しくて仕方がなかった。何しろ彼は、僕と穐吉さんとの出会いとなった、彼女のオーケストラ・デビュー作「孤軍」のプロデューサーであり「ロング・イエローロード」「インサイツ」などなど歴史に残るレコードを手掛けた人だ。しかも制作当時彼は、ビクターの中に、クラシックの他、ジャズのレーベルを立ち上げるに当たって、親会社の松下(現・パナソニック)の幸之助氏に直談判。自分の給料を抵当に入れ、秋吉敏子のカーネギー・リサイタルホールでのコンサートを収める「ザ・パーソナル・ディメンション」を制作実行。そして2作目の「孤軍」は見事に大ヒット作となり1984年度のジャズディスク大賞の銀賞に輝いた。 1978年彼は「カメラータ・トウキョウ」を設立。クラシックやジャズのレコード制作や演奏家の招聘、国際的な音楽ソフトビジネスを展開。更にあの1980年から続く「草津夏期国際音楽アカデミー&フェスティバル」の創立者であり事務局長兼・プロデューサー。 1940年和歌山生れの彼は、高校時代に新聞部の編集長をやり、全国大会で入賞し、東京へ行ったとき、何とあの伝説のバンド「秋吉敏子のコージーカルテット」を聴いた事も運命的始まりだったのかもしれない。現・NHK朝ドラ「ごちそうさん」の音楽を担当しているのも彼で、昨年ウイーンでの録音だったらしい。昨年、今年、2度にわたって大きなダンボールにぎっしりと何百枚もの貴重なレコードが、彼から僕に届けられた。僕はステレオを再メンテナンスして最善の音で聴いている。ありがとう・・。
ロイヤルとは“老いて益々盛ん”という老やるということらしい。発表会に向けて時折、昔のお嬢様たちが開運橋のジョニーに参集しては、仙台在住・遠山邦夫さんのピアノをバックに唄のリハーサル。バラのタンゴ、セシボン、アマポーラ、黒いオルフェなどなど、ポピュラーな歌の数々。僕は最初、その彼女たちの歌に取り組む真剣な姿勢に感心していたが、知らぬ間に、唄にも感動している自分がいた。
指導しているのは清川花朴さん(本名・厚子・77才)。NHK文化センターやイオンカルチャーの講師であり、他にも雫石、花巻、自宅などにて、子供から大人まで歌とエレクトーンとピアノを教えている方で、日本オペレッタ協会に所属する声楽家。 「やろうと思えば思いは叶う。吸収しようとすればうまくなる。だから真剣に教え、極力良いものが出せる様、根気良く努力する。」と、果報は寝て待てじゃない花朴さん。昭和11年(1936)5月27日岩手県葛巻町生まれ。民謡が大好きだった父が交通事故にあったため、ピアノが出来なくなり進みたかった音楽大学をあきらめ上京。バイトしながら短大を出て銀行員と結婚。だが音楽への思いはつのるばかり。主人の理解を得て国立音楽大学声楽家に入学。自らも働きながら、声楽とピアノを必死になって勉強。 シャンソン、カンツォーネ、フォルクローレ、タンゴ、フォークなど、歌のデパートとの異名を持ち、かつてフランス、イタリア、ドイツ、オーストリア、などでも公演し成功を収めた。40代から、これらポピュラー音楽への転向は3人の子供を育てながらという、自分への再挑戦でもあった訳だから、とりわけ1968年の「ミュージカル芸術祭賞」の受賞は最高嬉しかったに違いない。 「百合の花ほどの気高さはないが、いつも上に向って、真っ白に咲いている朴の花、そういう印象だから」と大学時代の仲間の詩人が名付けてくれたのが「清川花朴」という芸名だった。人生の半分を東京で暮らし、白百合学園高校時代に住んだ盛岡に戻って来たのは10年前。ピアノを習う子にさえ、音符をうたいながら弾くことを教えると、教えられる方も楽しくなるのだと言う。確かにジャズピアニスト達も凄い人程、音をうたいながらのアドリブ演奏である。
「5才から小学4年生までエレクトーンを習ったが面白くなくてやめ、野球をやり、中学3年生の時最後の試合に、父の見ている前で負けてしまった。そしたら建築士だった父がその日に倒れて亡くなった。それで僕も、使い回されてばかりいた野球に、サヨナラをした。と三ヶ田伸也さん(29).。 中学3年の文化祭で現在彼の奥さんになった麻衣子さん(29)のドラムを叩く姿にあこがれ、盛岡三高では吹奏楽部でパーカッションを担当。高2の時、先輩にジャズのことを吹き込まれ、3年の時にはジャズ喫茶に誘われて、入った店が「開運橋のジョニー」だった。 そしてギター少年だった中村慎を中心とするカルテットを、先輩のピアノ・柿崎倫史、遠藤大作(b)と組んでドラムを担当、定期的にジョニーに出演。すると若者達が演奏するスタンダードなジャズがなかなか素晴らしいと評判になり、IBCラジオで特集を組んで放送され、テレビにも映った。バンドが解散し、セッションに加わる頃から、ベースに転向、これがドラムよりうまいんじゃない!と皆が言うようになった。 岩手大学工学部を卒業した日だった。彼は店を親ってたことからか、大学の卒業証書をその日に持参して僕に見せてくれたこと、就職して貰った初月給で、一升瓶の芋焼酎を買って来てくれた時の笑顔、想い出す度、僕は涙がにじんでしまう。 就職先だったソフトウエア開発会社から、東日本大震災後に、文部科学省予算で設立された、エネルギー関連のプロジェクトに抜擢され、東北大学環境科学研究科の助手として勤務する日々も3年目を迎えた。波力や潮力でタービンを回して発電する研究。微細藻草類を使ってのバイオマス発電研究。EMS(エネルギーマネージメントシステム)の3部門中、彼はEMSのソフトウエア部門で自給自足のソーラーや、熱の有効利用、例えばガス給湯器の逃げる熱で電気を作り出す方法など、現場での声を聞きながら消費と蓄電の全てを管理するソフトウエア研究開発管理の毎日。 その疲れを癒すのはウッドベースでのジャズ演奏。「今、仙台市内のジャズライブハウス“カーボ”に月1回カルテットで出演中です!」と笑った。
五球スーパーなどと言われた昔の真空管ラジオ全盛時代、並四と呼ばれたラジオの組立にはまったラジオ少年は、そのまま大人になり、おやじいになった現在も、真空管アンプにこだわり、自分の好きな音楽を、いい音で聴く、あくなき音楽再生を追求し続け、自宅は勿論!仕事場さえも、ステレオだらけ。しかも、そのほとんどを自分で組立た細川煌正(正彦)さん(60)。 若き日、シカゴ、チェイス、スリードックナイト、サンタナなどの来日公演を聴き、かぐや姫など日本のフォークロックを経て、今はズーッとジャズのソフト・LPやCDをインターネットで買い聴く毎日。そして時折、生演奏会へも足を運ぶ。 6B95・6GW9・6GB8・6V6・PCL84・KT88・2A3・300B・350B・はたまた送信管の845など、玉子焼きがあっという間に出来そうな位の熱量を発する真空管アンプ群。大形スピーカー群、そのどれもが細川さんの手が入ったものばかりなのだ。 細川正彦さんは昭和29(1954)年1月24日矢巾生まれ、盛岡農業高校園芸科を卒業して埼玉の植木屋で修業。高校時代にあこがれた「ザ・ベンチャーズ」のエレキがきっかけで音楽が好きになり、ステレオ組立の方は、現在の仕事である火災報知器などの弱電機器工事の本業が高じたことからの様なのだが、自分の家の1町7反、他から預かる1町2反。その全ての作業を1人でこなし、コンバイン組合で彼が刈り取る広さも10町歩。2年前からは、不耕起直蒔栽培実験を始めて作った米だから食べて見て!と2足の草鞋(わらじ)をはいて、ずっしりと重い米をかついで来たりする。 ウィスキーを飲みながら、ジョニーの再生音を楽しみ、ステレオ談議。声はデカイが、心は優し。数年前ネットで見つけた同姓同名のジャズピアニスト「細川正彦」のジャズアルバムを手に入れて以来、彼のCDを全部揃え、僕にまで、笑いながらプレゼントをしてくれたりした。 「必要は発明の母なり!鳥肌立つ、真に迫る再生音は真空管でしか味わえない!リアルかどうかということが一番なんだから!とCDを聴くのでも違う。倍音が聴こえてくるからね」と、嬉しそうに話す彼の瞳は、いつも煌々と輝いている。 |
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