盛岡のCafeJazz 開運橋のジョニー 照井顕(てるい けん)

Cafe Jazz 開運橋のジョニー
〒020-0026
盛岡市開運橋通5-9-4F
(開運橋際・MKビル)
TEL/FAX:019-656-8220
OPEN:(火・水)11:00~23:00

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幸遊記NO.168 「工藤正輝の都山流・盛山尺八」2014.3.31.盛岡タイムス
 彼と出会ったのは2001年。ア・ウンの呼吸の如く、すぐさま友達になった。帽子を取るとツルツルと輝く立派な頭で、年上かと思いきや、6才も下で当時はまだ48才。その頃彼は、盛岡の稲荷町で1993年からコンビニを経営しながら、ローソン本部の東北代表理事までやっていた。
 常に尺八を持参し、いつでもどこでも誰の前でも後でも、どんなジャンルの曲であっても、すぐにさわりを吹いて皆を注目させるのがうまく、話せば大好きな僕のダジャレまで、アッという間に自分のものにして笑わせては、皆には「ケチの工藤」と名乗っていたが、そうではなく、店が終るとよく僕を誘って他の店に飲みに連れ歩いてくれた。
 そしてよく吹いていた。邦楽(方角)の違いか、ポピュラー曲でのリズム感には相当無理があるのだが、出て来る音だけは本当に素晴らしいので、僕はよく、即興演奏や、都山流本曲をリクエストした。特にも「鶴の巣篭もり」などは皆をシーンとさせる好演なのだ。平成14(2002)年、19年かかったけれど実力だけでやっと都山流師範の免許を取ったと喜んで知らせに来てくれた時、僕は“盛山”と名付け、彼はその名を都山流本部に登録したのだった。
 彼の家は27代続く本家(旧厨川村長宅・屋号・稲荷の駿河盛繁)から、分家した5代目の旧家で、家には琵琶と尺八があったことから興味を持ち、城西中学校から一関高専へ進んだ時、一関で民謡尺八を習った。就職先の電気工事会社で福井の原子力発電所「もんじゅ」の電気設計を担当、岩手に戻る直前の夜に尺八の音楽が聴こえて来たので、その家のドアを叩いて聴かせて貰ったのが、都山流の山本倖山氏だった。その氏に紹介されたのが伊藤鷲山先生で、岩手県の三曲協会会長だった。「民謡のくせがついていて、初心者より手に負えない」と言われながら習ったものだったらしいが、先生が亡くなる直前には菊池遠山師を紹介され、そこで28才の時、準師範を取った。
 「開運橋のジョニー(当時は陸前高田ジョニー盛岡店)」に来たのは、ジャズにもチョット興味があり、尺八で“テイク5(ファイブ)”という5拍子の曲に挑戦していたこともあって、ルパンというカクテルバーからの紹介で来たのだった」と、自ら「うん」とうなずき、“テイク5(ファイブ)”を吹き出したのだった。

幸遊記NO.167 「ケニー・菅沼のジャズソング流し」2014.3.24.盛岡タイムス
 “あれは3年前”という出だしの歌があったけれど、ケニー菅沼が開運橋のジョニーへ現れたのは4年前だった。毎月開いていたジャムセッションや、ヴォーカルナイトに来ては、独特の軽妙酒脱な歌い方で皆を驚かせたのち、今度はある日ギターを持って現れ、「実は流しを始めたんです」と言った。
 流しと言えば昔は演歌と決まっていたが、彼が流しで歌うのは、スタンダード曲なのだから、僕は両手を上げて喜んだ!。イタリア・フランス・タイ料理などのレストランからスナックやワイン・ショットバーなど。まずは店主に聴いて貰えれば、たいがいはOK!いつ来て歌ってもいいと言われ、毎月や毎週から、パーティー、結婚披露宴など様々に受け入れられてきた。でもjazzの店だけはどうしてなのか?どこも聴いてさえもくれず門前払いでしたと淋しそうな彼。本当に歌いたいのはジャズの店だったはず。何せレパートリー曲の殆んどがジャズの曲だったから、「いわばケニーさんはジャズの宣伝マン!なのになぁ」と僕は彼に言って慰めた。「門前払いだけはしないで欲しい」と彼は言う。
 ケニー菅沼(菅沼賢)さんは5才の時、近所のギター弾きのお兄ちゃんからヘッドホンで「レット・イット・ビー」(ザ・ビートルズ)を聞かせて貰い「これは何だろう?」と思ったらしい。中学時代にバンドを組んでロックをやり歌とギターを担当。高校入学7ヶ月後には中退しバンド活動に専念。17才の3月には意を決してアメリカ・ロスアンゼルスに渡り、現地のバンドやライブハウスを見聞。帰国後R&Bのバンドで歌ってみたが満足出来ず、もう一度高校生活を送ろうとNHKの通信講座を受け38才で卒業。
 33才の時大手建築資材製造会社に入社。転勤で4年前盛岡に来た。ある日路上で唄っていたら警察官に「ジョニーへ行って見たら」と言われ、来て見たらパッと景観?が開けたらしい。
 ジャズは40才から本格的にレッスンを受け、2年後には大阪で歌い始め現在48才。今また新たなリズム楽器ボンゴ叩きに没頭して唄っていると言うが、子供の頃外国人と遊んでいたせいか、日本語の歌にハマッタことは無く、本当にハマッテしまったのはフランク・シナトラの「フライ・ミー・トウ・ザ・ムーン」で踊ったアイススケートの華麗な美しさに感動してからだった。転勤で大阪に戻ると、その報告に来て盛岡を語り唄ってくれた。

幸遊記NO.166 「菅原敬三のカフェ&バル・ルポゼ」2014.3.17.盛岡タイムス
 大船渡市立根町岩脇のカジュアルショップ「アメリカヤ」が、震災後に店名を「LOVOA」(愛とオアシス)に変えた。人が身につける全ての物からセレクトしたショップへ、より広がりのある品揃えで、理想ともいえる女性7男性3のバランスになったと店主の菅原実(まこと・60)典子(よりこ・59)夫妻。かつてのアメリカヤは実さんの父・故・富也さんが、東京台東区坂本で始めた、衣類や皮革、ゴム製品、ミシンなどの古物商が前身。
 大船渡は昭和32(1957)年にアメリカ軍の払い下げ品を日本人サイズに加工し直して売るアメリカヤとして富也さんが始めた店だった。実さんの代になって、現在地にオープンしたのは1995年の秋。その頃実さんの長男は5才の幼稚園児。彼が小学1年の時僕に見せてくれたお習字の素晴らしさは、今だに忘れることが出来ない位、伸び伸びとした、とても気持のいい字だった。その中の1枚「“ひげ”は、ひげのおじちゃんにあげます!」と言うので、貰ってきた。その作品を額に入れ大切にして来た僕。
 さてその敬三くんは小学時代に劇団四季に憧れ、遂には昭和音大ミュージカル科に入学したのだったが、2年の時、思うことがあって中退し、東京のセレクトショップに就職。そして今年1月、家に戻った。震災後、被災した喫茶店に店の一角を無償で貸していたが、新築して出て行ったので、そこを敬三君が使って「カフェ&バルREPOSER」(くつろぎ)という店をやることになった。開店は4月14日・11時。僕はそのルポゼで使用する「オーディオ」の相談を受け、以前「開運橋のジョニー」で使用していたスピーカーなどを中心にメンテナンスしてコーディネイト。それが又、くつろげる音で鳴ってくれたので、ホッと一息。
 「音大に行きたかった。丸の内でOLをしたかった。(娘・英恵は今、丸の内OL)40年前学生アルバイトに行った店が南青山のパイ菓子店・ルポゼだった。(今も都立大前にある!)自分達の店も35年かかって理想に近づいた。夢はいつか現実になる。それに向っていれば応援する人が現れる。だから、あと10年の間に敬三も地元に愛されるようになって欲しい!」と「ローバの休日」を夢見る彼の母・典子さん。「ガンバレ・敬三!」これは“ひげ”のおじいさんからのエールです!

幸遊記NO.165 「米倉洋子のルーツ音楽への旅」2014.3.10.盛岡タイムス
 「何年も前から来たくて計画を立て、今回やっと初めて岩手に来れました。年に一回好きな旅行を主人としてるの」そう言ってこの3月1日開運橋のジョニーに現れたのは、福岡県直方(のうがた)市の米倉洋子さん(53)。
 僕が彼女と初めてお会いし?言葉を交わしたのは、確か2008年11月3日。長崎で行われた穐吉敏子ウイズ・アートクロウジャズアンサンブルの「長崎から平和を願って」と題されたコンサート。本当はそれ以前に北九州市、その後は東京での、オペラシティ、昨年のブルーノート東京など、色んな所のコンサートで顔を合わせる、熱烈な穐吉ファン。
 問えば、90年代半ばにNHKのTVで見た穐吉敏子さんの「世界 我が心の旅」で故郷中国(旧満州)の遼陽や女学校時代の大連を訪れ、当時ピアノを教えてくれた揚(ヤン)先生の前で弾いたロング・イエロー・ロード(黄色い長い道・穐吉敏子作曲)を聴き感動してしまったと洋子さん。彼女は、それまでは子育てに夢中で、音楽を聴く余裕がなかったそうだが、以来、今日までずっと穐吉ファンで、公演日程を見つけると、出来るだけ足を運んで聴いてきたのだと言う。
 4年前、母・石丸千鶴子(旧姓藤井)さんが78才で亡くなったそうだが、その母も実は満州で生れ育った人で、終戦後満州を引き揚げる時には丸坊主にして、博多に引き揚げたと聞かされていた。
 その母の2つ先輩にあたる穐吉さんの体験と母と重なることが多く、穐吉さんの文庫本「ジャズに生きる」も読み、母がよくうたって自分を育ててくれて中国(満州)時代のうたの印象が自分に残っていたことも、穐吉さんの曲を聴く様になった理由の1つだった。
 好きな旅行とはいえ、主人が行く所にくっついて行くだけですが、今回は宮澤賢治を訪ね花巻まで飛行機で来て、花巻、盛岡、小岩井、平泉を2日間で回るのだという。来る直前には陸前高田で撮影された映画池谷薫監督作品「先祖になる」を見て感動。ジョニーでは、賢治研究家で盛岡タイムスに「賢治の置土産」を連載中の岡澤敏男さんと偶然に出会い、大正6年の新聞記事から、ある通説をくつがえす良い証拠を見付けたという、第40世報恩寺住職・尾崎文英の話を聞いて感激してました。

幸遊記NO.164 「秋吉敏子の1980年イン陸前高田」2014.3.3.盛岡タイムス
 「幻のピアノトリオ・30年以上の時を経て蘇る。ジョニー・ライブ」そう表書きされた手焼のCDを、気仙郡住田町から、昨2013年開運橋のジョニーへ奥さん同伴で持参してくれた、千葉隆弘さん(57)。その音源たるや1980年に初めて陸前高田を訪れ、市民会館大ホールでコンサートを行った、世界の「秋(穐)吉敏子ピアノ・トリオ」の実況録音だった。
 僕の頭がパッとあの日の光景に経ち帰った。そう、あの日PA(拡声装置)を担当したのが彼で、記念に録音しようとテープデッキをセットしたら、穐吉さんから録音は駄目ですと断られ、録音機材を撤去した。それでも、彼は機転ををきかせて、会館の調整室に信号を送りカセットテープでプライベートに録音したものだった。(穐吉さんゴメンナサイ)
 33年振りにあの、歴史的で運命的だったコンサートの一部始終を聴いた僕は、体が震えた。何とすばらしい演奏だろう。聴衆はもちろん、穐吉さんも初体験の小さな街でのコンサートとあって大変な熱演!聴衆これまた大興奮、大歓声がホールに響き渡った“ただならぬ2時間”の生録。僕はそのテープが唯一津波から逃れたものであることなど、昨年10月NYから来日来盛してくれた穐吉さんに正直に話し、CD化の許可を頂いた。
 ベース・ボブ・ボウマン。ドラムス・ジョーイ・バロン。このメンバーによるトリオ演奏のレコードはリリースされておらず、しかも当時渡米20年にして、トリオでの帰国公演は初だった。今となっては穐吉さん自身においても、ファンにとっては尚更に貴重な録音であった事が、調べてみて分かった。2014年4月16日、僕のレーベル・ジョニーズ・ディスクから、東京のレコード会社、ウルトラヴァイヴを通じて全国発売されることになった。CDの解説文は最高評論家の瀬川昌久氏。そして後藤誠一氏。ともに渡米50年日本公演の穐吉敏子スーパーカルテットのCD(SJ・日本ジャズ賞特別賞を受賞)制作をした時の、解説を書いてくれたお二人。
 その原稿をNYの穐吉さんにFAXしたら折り返し、「レコード・ノート結構ですと傳えて下さい」と返信があり、そのFAXには、7月スペインの「ライフタイム・アチーブメントアワード」を受賞。25日が授賞式。26日、サンセバスチャンでコンサートとある。僕も行って聴いてみたいナア!。

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