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「ジャズ喫茶・ベイシー」に連れてって!と、せがむオジサマ達のリクエストに応えながら、昨年はお嬢様達とで楽しかったなと、盛岡発一関行きの電車に乗り出掛けて来た。途中駅からの参加者もいて、男性6、女性10、計16名のご一行。
店に入ってすぐ左手に予約席。他に数名のお客様達。ピアノの上には例によって一輪の紅いバラ。その花ビンを見れば、1942年のアルマニャックの空ビン。年号は店主・菅原正二(本名・昭二)さんの誕生年!と意味有。その奥には昨日(4/26)が命日だった店名由来の「カウント・ベイシー」に捧げたと見られる数十本の紅いバラ。彼らしい心使い。 流来る大音量のレコード演奏は、フィニアスニューボーン・Jr、ケニードーハム、ベニーカーター、マイルスデイビスと続く。先客が帰ってジョニー一行だけになったら「昨日、一日中かけていた」という、カウント・ベイシーの演奏に合わせ、ドラムでレコードと共演する菅原さん!。皆大コーフン、ヤンヤのカッサイ!。 酔いしれてピアノ脇の貼り紙見れば、故・エルヴィン・ジョーンズ(ジャズドラマー)の名前!。僕の頭が一瞬にして1986年1月17日へとフラッシュバック!。あの日、エルヴィンが日米混合バンドを率いて陸前高田でコンサート。その日、新幹線一関駅に下り立った。エルヴィン氏を僕はベイシーに連れて行った。すると、マスター菅原さんは、ビックリして「ジョニー!驚かすなよな!」と言ったのを今でも鮮明に覚えている。 コンサート会場(陸前高田市民会館)には、珍しく県内殆んどのジャズ喫茶マスターや関係者達も揃ってたので、終演後、彼等全員を舞台に呼んで会場のファンに紹介プレゼンテーションをした記憶。世界最強のジャズドラマー・エルヴィンジョーンズ・ジャパニーズ・ジャズ・マシーン・新春ビッグ・ジャズコンサート。サンディデブリアーノ(b)向井滋春(tb)高橋知己(ts)辛島文雄(p)。前座には、あの河野和義さん率いる陸前高田・気仙町けんか七夕太鼓保存会。主催したのは僕(陸前高田・ジョニー)。 その成果?は、誰もがご存知の、陸前高田での全国太鼓フェスティバルの始まり。かたや一関ベイシーにおいては、年末の恒例行事となったエルヴィン・ジョーンズのライブイベントがスタートするきっかけともなったのでした・・・・。どんと晴れ!。
横浜ちぐさから出た金本麻里のアナログレコードをいち早く予約して帰った高橋渡さんから「自己紹介をかねて拙著(といいましてもこれ一冊ですが)を送らせていただきます。再見。」と書かれたメモの様な手紙と一緒に届いたのは「東京シネマ酒場」(あの名作に出逢える店を酔い歩く)という単行本(祥伝社・平成23年初版)。帯には「映画好きで、こだわりが強く、美酒佳肴に目のない渡さん、その飽くことなき飲み歩きに、乾杯!」と戸田奈津子さん(字幕翻訳者)。
それは寒い2月の事。春の温もりが恋しい季節にピッタシの内容で興味津々。とても楽しくそしてためになった本でした。ありがとう。 まるで、渡りに舟のごとく、開運橋という高橋を自ら渡って来た舟こそは“彼の本”。酒はふつふつと湧き立ちながら発酵するものと思ったら、彼は何と立教大学仏文科の出だったから、まるでシャレ!。ところがその奥様・紀子さんも同大学の仏文科卒なのだから、当然のフツフツはまさに駄足のダジャレの様だと1人笑い。 高橋渡さんは僕と同じ団魂の世代で1948年9月4日、盛岡生まれ。厨川小学校、城西中学校、盛岡一高の卒。奥様は小中高大と生粋の立教でフランスに2年留学した方。2人は20年前に、子供を1人づつ持ち寄って暮らし始めた再婚同志。渡さんは大学卒後32年間、日本ヘラルド映画社グループに在籍、最初の仕事は「ジョニーは戦場へ行った」の雑用係。1994年には恵比寿ガーデンシネマ開館と同時にシアター支配人となり、アメリカン・ニューシネマ以降の最後の光芒を放ってた時代を見届けた、いわばシネマの上映・鑑賞の達人!。 本は友人の記者が勤めていた「内外タイムス」に、1年半連載したものを、土台に1年かけて加筆したもので「酒を飲みながら見聞した楽しいことを書いた」と高橋さん。「時代と友達に恵まれたから」なのだとも。 現在は盛岡駅前北通りにある実家と、東京世田谷区を往き来しながら“3丁目の夕日”ならぬ4丁目の夕陽を背に「盛岡のバーや居酒屋。割烹などを見聞して歩いてみると、そのレベルの高さに驚かされ、楽しい、素晴らしい街」と故郷・盛岡を大絶賛。歩いて見つけた本「てくり」にはまって全号そろえ、今は、実家の周囲環境がいいので東京からオーディオを運ぶ計画を立てている様子。
2006年5月に出版されたジャズ批評社の「和ジャズ1970~90」。それに紹介されている名盤200枚中、カラーページに掲載された96枚の中に、僕がプロデュースして、発表した自主レーベル「ジョニーズ・ディスク」の作品が3枚も入っていた。その後2009年に出版された「和ジャズ・ディスクガイド・1950s~80s」(株・リットーミュージック)では、巻頭ギャラリーでの10枚中、1ページ目で紹介されたのも、ジョニーズ・ディスクの「海を見ていたジョニー」。これにも僕はギョウテンしたが、この作品は本の裏表紙にも載っていた。ここでは、426作品が取り上げられ、その中にも僕の3作品が当選していたのです。
それらの作品中2作の録音担当者が、当時20代だった住田町の千葉隆弘さん(57)。坂元輝ピアノトリオによる「海を見ていたジョニー」は、作家・五木寛之氏の同名小説にちなんだ作品で、ライナーノートも五木氏が書いてくれたものだった。もう1作は「みどりいろの渓流」小栗均ピアノトリオの作。彼は新潟在住で、日本有数のジャズピアニスト「山本剛」を育てた人物。前作は僕の店でのライブ録音。後作はオープンしたばかりの「住田町農林会館」での録音で、1980、81年のこと。 千葉隆弘さんは1956年住田町生まれ。高田高校時代からアルトサックスを吹き、卒業して住田町役場の職員となった。中学時代からのめり込んだ音楽関係の明るさから農林会館オープン以来ずっと何課になっても兼務を続けさせられて来た彼は「人生就職を間違えましたが、僕の唯一の実績は岩手朝日テレビの“ふるさとCM大賞”(32市町村対抗)の30秒コマーシャルを作り3年連続の特別賞、4年目で大賞をゲットし、1年間毎日放送されたことくらいさ」と笑いとばし、19才から57才まで38年いた職場を最近リタイヤした。 そして、ここに来て、1980年に陸前高田市民会館で行われた秋吉敏子ピアノトリオのコンサートで、PA担当の彼にプライベート録音して貰ったカセットテープが見つかり、僕が秋吉さんの許可をもらいそれをCD化。34年振りに日の目を見て輝き出し、今月(2014・4月13日)読売新聞で全国に報じられ、連日注文電話が鳴り止まない。聴いた人は皆、これ名盤と絶賛する日々。
今年3月26日の夕刻6時~7時、横浜にある寄席のホール「にぎわい座」(定員290名)を満席にして、NHK横浜の番組サウンドクルーズに出演、今田勝ピアノトリオをバックにスタンダードジャズを歌い、生放送された盛岡のジャズ歌手・金本麻里。
その後盛岡に戻って、同トリオと共に4月5日、6日の二日間、盛岡のホテルで行われた、横浜ちぐさ賞受賞記念・Mari Sings Jazz StandardのCD&レコード発表記念祝賀会が盛大に行われ、ジャズ歌手としてスタートを切ったその晴れ舞台は大絶賛だった。 ジャズを歌い始めて8年目を迎えたその「ホープガールこと金本麻里」の成長を陰で支え続けてきた盛岡のミュージシャン達。中でもとりわけ、ライブや、コンサートなどの日程が決まる度、常に練習台に徹し、彼女の唄の成長を無償の愛で支え続けてきたのが、玉澤裕子さん(53)なのだ。本来なら自宅で大好きなビールが飲める時間を、それこそ“ビーバップ”なジャズの時間に置き替えさせて貰った!とは僕のシャレだが、嫌な顔ひとつせず真剣に練習のためのピアノ。ライブでのバック演奏を引き受け続けてきた人。 聞けば彼女はとにかくピアノが好きなのだ。小学生の時、彼女のおばあちゃんの友達とその娘さんに習い始めたのがきっかけだった。途中ブランクはあったけれど、15~6年前からは、こういう音楽(ジャズ)に目覚めたが、始めはクラシックのドミソから抜けられず、コード名でなく音符の和音を書いてもらわないと解からなかったらしいが、今や米澤秀司(as.fl)カルテットと澤口良司(ds)トリオのレギュラーピアニストである。 その玉澤裕子(旧姓・桑島)さんは昭和35(1960)年7月4日盛岡生まれ。上田小学校、岩大附属中学校、盛岡3高、そして盛岡短大を卒業してOLになった。社会人になってからは、クラシックとジャズを鈴木牧子氏に師事し、今もって習っている程、ピアノが好き。それでも本当のこと言えば、聴く方がもっと好きなのだと笑う。バッハやモーツアルト。ビルエヴァンスや本田竹曠、自動車ワイパーの如くクラシックとジャズを自在に行き来しながらも、「思っている半分位しか出来ないの」と言う彼女。でもすでにユーコリンスタイルが出来ている様に、僕には聴こえる。
「夏の終わりに」「希望の光」。東日本大震災のあった2011年に陸前高田で書いた曲。そう言って、開運橋のジョニーでピアノを弾いてくれた永野貴子さん(43)は、電気技士だった父の転勤で小学生の時1年間、大船渡市末崎小学校に通ったという。当時住んでいた家は津波で流された同町太田団地の入口付近だったらしい。実家は盛岡市。
ピアノが大好きでたまらなかった子供の私を見ていた両親からは「ちゃんとした仕事に就きなさいよ」と言われ、その狭間で悩んだ彼女は、盛岡三高をドロップアウトし、ピアノを猛練習。親には理系の学校に行って将来は研究者になりたいからと、単身アメリカに渡って「ウイスコンシン大学」に数学で登録したのだったが、大好きなピアノならAをとれるかなと思い、試験の時「目の前に楽譜を置いてくれたら何でも弾きます」と言ってたら、ラッキーなことに「メンデルスゾーンの無言歌集」と「モーツアルトのソナタ」だった。楽勝!と演じながら弾いたら合格。弾ける日本人が入って来たと噂になったらしい。 ところが、先生はとても大きな手をした方で、彼女の手を見て、そのあまりの小ささに、教室の先生にはなれても、ピアニストにはなれないと言われ、あきらめざるを得なかったらしい。だが、持ち前の負けん気で親に誓った数学と自分のためのピアノで単位を取ってから、親には期待に添えなくてごめんなさい。でもやりたいことをやりたいと言ったら許してくれたのだったらしい。 そこで想い付いた楽器がマリンバ、又一からやり直しなのだが、ピアノの鍵盤を大きくしたようなものと挑戦したらこれ又合格。そしてその奏法をマスターし、きわめたと思ったら、「マリンバの先進国は日本よ、凄い演奏家も日本人よ」と言われ帰国して更に習った。何という遠回り! 現在彼女は大阪に住み、作曲をしながら6つのマリンバ教室を開いて教え、時折、ジャズ演奏もするし、歌伴もするという。「そう言えばウイスコンシン大学にはジャズ科があったのに、当時は興味なくスルーしてしまった。今思えばもったいなかった!私って本当に遠回りばっかりなの」と笑いながら、17才の時に作ったという「無題」を弾いた。なんと、それは、ジャズっぽい曲なのでした。 |
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