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「ジョニーさん!これ今日発売の週刊誌・穐吉敏子さんが載ってますよ」と、息せき切って持って来てくれた及川房子さん(67)。袋の中には何と5冊もの週刊文春。「阿川佐和子のこの人に会いたい」のインタビュー・第1021回。パッと僕の頭が8年前・2006年の同インタビュー・第654回へと飛ぶ。
阿川さんの母と同年代の穐吉さんには特別な想いもあるのだろう。今回はピアノ6連弾のゲストで来日したのを期に聞いた話だった。 そういえば及川房子さんが僕の店に現れたのは2006年。紫波町の「野村胡堂・あらえびす記念館」で行われた、穐吉さんのソロコンサートを聴いて感激したのがきっかけだった。以来彼女は、穐吉さんのコンサートには万難を排し毎年、何ヶ所にでも出かけて聴いてきたし、僕が企画している、アメリカ穐吉敏子への旅にも参加した程、穐吉敏子さんの熱烈なファンの一人。彼女実は穐吉さんが、「トシコ・マリアーノ」だった1960年代からのファンなのだったから、東京で働いていた時には、仕事を最優先しなければならない立場だったために一度も穐吉さんのコンサートを聴きに行けなかった悔しさ。それがなんと会社を辞めて実家の盛岡に戻って間もなく、穐吉さんのコンサートを新聞で見付けて、初めて聴くことが出来たのだったと、涙を流しながら話す彼女。初回は3時間以上も前から並んでいい席をとり、入場時には立って拍手をしたら穐吉さんと目線が合ったのだ。 及川房子さんは、僕と同い年の1947年(昭和22)6月3日、盛岡生まれ。中・高と白百合学園を卒業。上京してから、日本3大結婚式場の一つに就職、10年間に2.000組以上を担当したことで、ありとあらゆるドラマの見聞に疲れ果て、別の職探し中に紹介されたのが、当時の最大大手スーパーが100%出資のグループ企業(外食産業・資本金57億)の会長秘書係。出世を夢見る男達の攻防、5人もの社長交替劇の全貌を見届け続けてきた、正に秘書中の秘書だった彼女。会長は本社トップのブレーンだったことから、トップのかげり、会長の引退を期に、人事部長の引止めを振り切って盛岡へ戻ってきた人なのでした。 今年2014年10月娘・マンディ満ちるさんと初めてのデュオで穐吉さんがツアーで来るのを楽しみに、彼女の予定表には大きな「はなまる」がついている!。
高校時代の同級生・佐々木正男君が岩手医大で目の手術をし退院したと、ひょっこり開運橋のジョニーへ報告に来てくれた。同級生とは不思議なもので、すぐあの頃の昔話に戻れるのだ。
あれは高田高校定時制を卒業して2年が過ぎた昭和44年(1969)の春の事。当時のテレビドラマ「ザ・ガードマン」のモデルとなった会社「日本警備保障」に就職していた彼が、警察官の様ないでたち姿で同僚と二人、突然TVのニュース番組に登場したのにはビックリしたものだった。紹介者は「ピストルの乱射にもひるまず追いかけ、犯人逮捕のきっかけをつくった勇敢な警備員」と言う様な放送だった様に記憶する。その犯人とは、当時、日本中を震撼させていた、連続殺人の凶悪犯。横須賀の米軍基地から盗んだ拳銃を使い、4つの都市で起こした事件。 正男君に聞けば、当時の警備会社は現在の「セコム」の前身。機械警備のモデルケースが始まったばかり。その渋谷・一ツ橋のビジネススクールからの通報により、担当者が駆けつけ、賊ともみ合いになっていたところへ、近くにいた正男君が応援にかけつけ門前に着いた時、警備員が警官が着いたと思って手をゆるめた隙に塀を飛び越え逃げ出した。とっさに彼が追いかけたら、銃を撃って来たので、電柱に隠れながら跡を追ったのだったらしい。その犯人が捕まったのは、翌朝の靖国神社境内。警官の職務質問によるものだった。 正男君たちは国際警備連盟から表彰され、警視総監賞を貰い、会社はこの事件後、一気に機械化が進み彼等は一階級特進だったと言う。しかし彼は間もなく社を退き結婚し、子供が生れたのを期に郷里・陸前高田へ帰って来たのだった。 彼の奥さんは、僕等と同年の生まれだが、準看護学校を経て定時制2年生として編入してきた一学年後輩の生徒だった。そういえば彼女は僕が高校4年生で車の転落事故で一ヶ月入院した時の、県立高田病院の看護婦さん。入院中にこれ読んで!と貸してくれた本は「女の一生」だったなと、タイトルだけが思い出される。 正男君は今、ダンプカーに乗って陸前高田の復興に一役かいながら、心を癒す歌を唄い、カラオケ大会にまで参加している。
時は過ぎてゆく-----------ジョルジュ・ムスタキの曲をタイトルに2004年にCDデビュー。今年の新作CDでは、日本の抒情歌を唄った歌手・ささき絢子さん。名は知ってたが実物見たのは2001年。僕が盛岡にジャズ喫茶を開いた時で、よく店に現れた。何せ隣りが自宅のマンション。聞けば彼女は、盛岡グランドホテル・アネックス脇のビルにあった「楽しいや」という歌えるスナックの経営者。「美人に飽きたら来て」と言うので店が終ってから、僕も何度か飲みに行った。現在の店は大通2丁目のサイセリアビル1F。
彼女は良く食べ、よくしゃべり、よく笑う。だが酒は一滴も飲まないせいか、一敵もいない?程、とにかく面倒見がいい性格なのだ。そんな彼女だけに、ファンがワンサカいて、コンサートやショウはいつ、どこでやっても満席になる。そのことに思いめぐらせば、彼女は、旧満州の生まれだから満席!しかも、昭和(笑話)19年はジューク(音楽)で9月9日は九九算の如くファン増!。血液型はOだから、大型歌手体型(トランジスタ・グラマー).。と連鎖的なことが頭に浮かぶ。すみません。余計な事を書き過ぎました?。でもこれが、彼女の2作目「限りない愛のかたち」そのものなのかも知れないなと、又、連鎖。 静岡生まれだった俳句の好きな彼女の母が「道はみんなのもの、横に並んで歩くのもではありません」。そう言われたことを覚えてる絢子さんは、いつからか、ひとより一歩二歩「パダン・パダン」と歌いながら、歌手になる勉強をした成果が出たのは1992年から。日本アマチュアシャンソンコンクールで5年連続東北代表。第4回・太陽カンツォーネ・コンコルソで特別賞。岸洋子メモリアル「第1回・夜明けの歌コンクール」で最優秀賞。などなど。 僕の店でもピアノの鈴木牧子さんとのデュオ。ジャズピアニスト・岸ミツアキさんや盛岡在住のトランペッター兼編曲家の箱石啓人さん。ベースの中村新太郎さんのレギュラートリオをバックにライブをやったりもした。 彼女は昔、大嫌いだったそうだが、9年前に女房が娘からプレゼントされた子犬・チワワの「ゴウくん」と出会ってから、犬が大好きになり、いろんな差し入れをしてくれたっけ。そういえば、僕の名もケン。絢子さんは今でも時折、僕においしい物を差し入れてくれる。アリガトウ!
ジャズ史上に燦然と輝く巨人・ジョンコルトレーン(1926~67。Ts・ss)カルテットの黄金期のドラマーだった巨匠・エルヴィン・ジョーンズ(1927~2004)が、一関のジャズ喫茶・ベイシーで、マスターの菅原さんと僕を含むほんの数人の前で(10年に一度くらい聞いてもらいたい話をする)と訳したエルヴィン夫人。あれは昭和が終ろうとした1988年の夏のことだった。
「“ジャムセッション”という言葉の生れは、人を絶対に差別しない。区別しない。1つの物でも別けて食べる。そういった意味から出来た言葉。」(黒人は、明治、大正、昭和の初めまでの日本人の生き方、考え方にすごく似ているところがあった。と言う夫人)。 「観客(聴衆)に対して絶対に冷たくしない。一人でも聴いてくれる人さえいれば、俺達は、何時間でも、何十時間でも、叩ける、吹ける、演れる、っていう決意があるんです。それは、お金の為でも何でもなく、聴いてくださる方が神様だからです。」この言葉はジャズマスターの穐吉敏子さんもいう「私達はブルーカラー(労働者)です。一人でも私達の音楽を聴きたいという人がいらっしゃれば、私達は何処にでも行って演奏します。」と言っていたことと同じ意味合いだと思ってジーンと、熱くなった。 「ジョンコルトレーンと出会って、初めて、自分の勉強してきたことが、本当に評価される様になった。ということは、どういう階級に生れたとしても、音楽に対しても生活に対しても勉強は欠かせないんだってことを知った」そうなのだ。 そして「日本はもっと国旗を掲げるべきです。国旗と国歌があるから日本な訳で、これが無かったら日本じゃない。何処へ行ったって日本を証明するものは国歌と国旗しかないんです」とも。この言葉には、日本ジャズ専門店の旗印を掲げてた僕でも、“ドキッ”とした。 “エルヴィンジョーンズ”アメリカ・ミシガン州・ボンティアックに教会の子として生れた。長兄はグレイト・ジャズトリオのピアニストでリーダーのハンクジョーンズ(1918~2010)。次男サドジョーンズ(1923~1986)は、昔カウントベイシー楽団に居て作編曲もしたトランペッター。ベイシー亡き後、その楽団を率いた人物。3兄弟は一関ベイシーにも深く関わった。僕もかつて、ハンク、そしてエルヴィンを陸前高田に呼んだものでした。
ジャズワールド紙5月号を開いたら、「ピアニスト・板倉克行氏が(2014年1月10日に)死去」との記事。それを読むまで、彼が亡くなったことを知らずにいた。2月16日、台東区松ヶ谷のライブハウス「なってるハウス」で板倉氏を偲ぶ会も開かれた様子。
板倉さんは唯一無二のジャズピアニストであり、特にもフリー系の音を好む人達にとっては、伝説のサックス奏者・故・阿部薫(本名・坂本薫・1949~78)と並ぶ、いや先輩格のフリーフォームピアノ奏者であった。 両者共に天才型。音は、ほとばしる感覚そのものの様に研ぎ澄まされていた。阿部は薬物による急性胃穿孔の為。板倉は1年余前に転倒して大怪我をし、療養中だったが回復しなかった様子。勝手な推測によれば酒の飲み過ぎによる転倒なのだろうと、思ってしまう程よく飲んだ。だからこれは、僕への警鐘であるのかも。 彼が最初“ジョニー”で演奏したのは、1981年5月。翌年、6月には僕がプロデュースするジョニーズディスクの7作目の作品として、ピアノソロをジョニーでライブ録音。“洗練された美しいメロディラインと、不快な音の群が織り成す、モザイク・ジャズ・ピアノの不思議な魅力”と帯書きしたLP「海猫の島」でレコードデビュー。彼38才の時だった。アップライトピアノ、しかも2本の折れたピアノハンマー音まで巧に生かして演奏した「日本ジャズ街のピアノハンマー。又は、貝の火の化石」の即興演奏は流石なものだった。 更に2年後の84年。僕の12枚目となる作品「密林ダンス(ハニーサンバ)」という彼のトリオによる、オリジナル曲集アルバムを制作・発表。以降彼は水を得た魚のごとく、世界を股に活躍した。盛岡には、2012年5月のビックストリートジャズライブ出演が最後。 板倉克行、1943年8月1日旧満州国大連に生まれ、幼少から教会でピアノを習い、20才でプロ入り。当時は、グレングールド、オスカーピーターソン、ビルエヴァンス、セシルテイラー等に魅かれた様だが、ある時から自分で出したスリリングな音に、自ら影響受ける様になり、次から次へと瞬時にメロディが頭に浮かんでくる、凄腕のまさに天才的な即興ピアニストであった。 |
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