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ほったらかし堆肥(たいひ)の如き状態なっていた部屋を片付けていたら昔のVHSビデオテープが出て来た。想い起せば、僕が単身盛岡に出て来る時、持って来たものでその再生の為のデッキがこわれて、見ないまましまい忘れていたものだった。タイトルを見たら「‘81年ラブリー岩手」「’82年NHK我が心のジャズ」「‘85・IBC日本ジャズ祭in陸前高田」「’93・照井顯のどんなもんだい!岩手のジャズ喫茶」「‘98・IATトーク岩手人」などなど。
そういえば、いつだったか「さすらいのジョニー」をVHSテープからDVDに焼き直しをしてもらった事思い出しKさんに電話をしたら、店に取りに来て、ダビングなったDVDを届けに来てくれ、それを見ながらウイスキー数杯を飲み、逆にお金を払って帰って行った。ごめんね、ありがとう。愛してるよ!「いらね!ヒゲジイのキスなど!」と彼は背を向け得意の腰振りをした。 それはそうと、40年前(30代だった僕)の若い姿を見ながら、TV画面の中で語っている間の落ち着きのなさに呆れてしまったが、当時の事を想えば、日本のジャズに対する熱き想い、ジャズを取り巻く世界のありかたに対し孤軍(一人)奮闘、自ら燃えに燃え、訴えては友、知人、お客様と一緒に、五木寛之氏が言ってくれた「幻の共和国」つくりに一生懸命だった頃を想い出し、涙が溢れた。 その五木さんから昨年(2021)11月の「私の親鸞」に次いで、12月には「一期一会の人びと」(中央公論社)が謹呈著者のしおりと共に届いたので、時折その一人分ずつを読んでいた時、ふと僕にとっての一期一会の人を想い出し彼のSPレコードを聴いていたら、なんとフェイスブックに彼の訃報!その彼とは、映画俳優の宝田明さん(1934/4/29~2022/3/14)亡くなる数日前にインタビューを受けていた程元気でしたが肺炎だったらしい。それこそあの一期一会は89年、IBCTVが製作してくれた僕のドキュメンタリースペシャル「さすらいのジョニー」(プロデューサー・一戸彦夫氏)の中で、東京のツムラ順天堂のスペシャルルームで行われた、ヨーコ・サイクス(vo)パーティで出会い、戻ってから彼の昔のSPレコードをカセットに入れ送ったら、「とても懐かしい」と丁寧な手紙が届き嬉しかった。以来、僕も一期一会を大切にしてきたのでした。
この原稿を書いている日は、あの東日本大震災から11年の3月11日。気仙川を物凄いスピードで逆流する津波と、陸前高田の街並みの一番奥にあった酔仙酒造の工場屋根上看板が大津波に押し倒されるTV映像を見て、僕が38年間住み、お世話になった陸前高田の中心市街地の全てが失われたと知った時のショック。それは消えるどころか、年毎により鮮烈になる気がするのです。
「油断大敵」ということわざがあるけれど、確かに油が断ち切れれば全ての物は動かなくなり、そしてサビついてしまう。それは人にも言える事。陸前高田で人様の油と言えば「椿油」。気仙地方では寒椿と呼び真冬にいたるところで花が咲く。その花で忘れられぬ一編の詩「ぽとん と落ちる その一瞬を 椿は どんなに待ち焦がれて来たか ぽとん と 落ちる そんな比類のない希望が 椿をさらに紅くする」(田中博子)。 陸前高田市気仙町にあった東北唯一の椿油の製油所(石川秀一代表・73才)の長男で3代目を継ぐ予定だった政英さん(消防団員)を津波で亡くし、一時は廃業をも余儀なくされた様子だが、気仙の特産品・椿油。その製造技術の継承こそが地域復興の要である。と、社会福祉法人が石川さんの協力で復活させるなどして絶やさず後押ししたことから、2017年、妻の春枝さんと共に、長女・さゆりさん(46)夫婦も手伝うということでそれこそ希望の再開成った。 石川製油は秀一さんの父・正雄さんが1955年に開業。10月頃に落ちる小さな黒い実を圧搾し、加熱殺菌ろ過で、7キロの実から約1.8ℓ(1升)の油が出来上がる。昔は全国各地から実が舞い込む忙しさ。僕が十代だった頃、夫妻の仕事ぶりを何度か見させて頂いたものでした。その正雄さんは戦前・岩手殖産銀行(岩手銀行)、戦争中は海軍少年航空兵、戦後は町の消防団員、市会議員をやり、囲碁、書道、銃剣道の有段者という凄い人でした。それこそ息子の秀一さんは大船渡農業高校を卒業後、当時大流行したエレキバンド「ザ・ロークス」のカッコイイドラマー、女の子たちが憧れた。大人になってからは町伝統の「けんか七夕」の太鼓手となって大活躍。89年秋の「陸前高田全国太鼓フェスティバル」の立ち上げに関わった(僕もその一人)。あの年、僕は夏に第2回日本ジャズ祭を主催しており、お互い最高に頑張っていた年でした。寄る年波を無事に渡り切るには、やはり黄金の國ケセンの如く輝く椿油こそが必要かもなぁ。と風呂に入り、嗚呼「湯暖体適」。
3月3日(2022)ようやく今年の年賀状を書いた。「少女敏子 母聴音盤 虎美阿多 遥昔映画 無職百人 奏者物語 寅年虎月 参日鑑賞」弐阡弐拾弐年旧暦弐月、開運橋のジョニー。
賀状は毎年旧正月に出すようにしているのですが、今年は最も遅い語呂合わせでの3月。 寅(虎)は十二支三番、方角東から30度北寄り。地図で言う北東北・岩手。今年は東風(こち)とらの年。広辞苑には「虎は子を非常に愛護することから大切にして手放さないもの、秘蔵の金品」とある。その中の一つ、穐吉さんの音楽の根元について、彼女の著書「ジャズと生きる」(岩波新書・1996)の「母と父」の項にある「母は音楽が好きで、当時としてはモダン好みだったのだろう。アメリカの映画女優・ディアナダービンが歌った椿姫の”乾杯の歌“(トラヴィアータ)や、メキシコの歌”ラ・クカラチャ“などのレコードを買って聞いていた」とある。 実はそのディアナのトラヴィアータを、遂に発見して、手に入れたのです。その歌こそ、あの忘れもしない「100Men and a Girl」(オーケストラの少女・1937)の映画主題歌。僕は盛岡で現女房と出合った時「あなたはまるでオーケストラの少女のようだ」とビデオを視せたことまで浮かぶ。その78回転SPレコードの音楽は素晴らしく、盤質もよく、大変良い音で鳴ってくれるのです。興味ある方は聴きに来てみて下さい!それこそ今若者の間でLPレコードが人気と聞きますが、ジジィの僕はもっと古いSPレコードがマイブームなのです。 ということで、オマケにもう一枚のSP話。穐吉さんが生まれた1929年の「東京行進曲」(西條八十・作詞/中山晋平・作曲/佐藤千代子・歌)である。佐藤千代子は日本初のレコード歌手で、山形天童出身、しかも歌詞にも日本初と思われる「昔恋しい銀座の柳、粋な年増を誰が知る、ジャズで踊ってリキュールで更けて、明けりゃダンサーの涙雨」とジャズという文字が入った日本初の無声映画主題歌(小唄)で、日本の大衆がジャズという言葉を初めて聞いたのがこの歌で!あったのです。「恋の丸ビルあの窓あたり、泣いて文書く人もある、、、、シネマ見ましょか、お茶のみましょか、、、、」と。菊池寛の小説を溝口健二監督が映画化した作品。歌は東北なまりの東京の歌として驚異的な25万枚の売り上げを記録した。これもなかなかによし!ああ、千代に八千代に。
年齢を重ねてきて思い当たることがある。そのひとつは、昔から言い伝えられてきた「名は体(たい)を表す」のことわざ。この人は、本当に名を地で行っている人なんだなあと思わされるその中の一人。子供の頃の顔は知らぬが、大人になって出会った時から、まるで子供がそのまま大人になって笑っている様な童顔青年の笑顔。いつ、どこで出会ってもニコニコ、ニコニコ。その人の名は澤口健児さん(49才盛岡市生まれ八幡平市在住)。
彼が生まれた1973年といえば、現在も様々な電器製品に使用され、発展し続けているダイオード(エサキ・ダイオード)は、江崎玲於奈氏がソニーの半導体研究所にてトンネル効果理論の応用から発明に至りノーベル賞(物理学)!に輝いたのがこの年。それは高速度スイッチ、発振、増幅に用いられる素子として今日の電子機器にとっての利便?の基本みたいで、いいこといっぱいの、彼の様な人間の笑顔と一緒なのだと気付かされる。 20年たっても20年前とちっとも変わらない若さ溢れるニコニコ健児!の名前そのもの!彼は昔も今もダスキン・セールスマン(集配人)である。僕が彼と出会ったのは彼がセールスに来て、ダスキンを使ってくれませんか?の一言からでしたが、ほだされた最初の笑顔は20年過ぎた今も変わらずで、トイレの手拭ペーパーや便座シートなど、うっかり切らしてしまっても、いつでもいかなる時間でも電話に応えて嫌な顔一つせず、ニコニコニコニコ。それこそ二個でも届け続けられております。僕も昔、昔、クリーニング店の集配セールスを10年やった経験からか、ことわり下手ですが、やはりニコニコは要(かなめ)なのかも。 しかも澤口健児さんは血液迄O型である。盛岡松園中学校から岩手高校、亜細亜大学経済学部を卒業して、ダスキンの草創期から父が始めた黒石野支店で兄と働き、昨2021年から中野支店と統合なった今も相変わらずニコニコやって来る。出会った20年前、子供が生まれたと言っていたよね。の子・那奈ちゃんはすでに20才。2人目の絢ちゃんも高校生「そういえば僕等が紫波のビューガーデンで開いていた、いわてあづまね山麓オータムジャズ祭にも子連れでニコニコ来てくれましたなあ。ところで結婚相手はどこで?」と聞いたら、昔お見合いパーティでニコニコしてたらこうなったんです!とニコニコ顔!
昨2021年仙台の古友・タアちゃんこと守口忠成さんから、小さな(サムホール)額入り絵15枚が届いた。「もしほしい方がいて少しでもお金になるなら、穐吉敏子ジャズミュージアム開設のために!使って」と。その絵が届いた時、紫波のテコ(畠山貞子)さんが、開運橋のジョニーに来たので、全部見せたら、一枚欲しいと持ち帰り、まもなく、その絵で200字程の物語が創作され、手作り絵はがきとなって舞い戻って来た。
「いかつい肩と、ロボットのような手を持つお父さんと子どもが丘の上にたっていました」で始まるこどもの夢物語。さすがテコさんと思って、タアちゃんに物語コピーを送ったら、とても喜んでくれました。すると又、テコさんは全部の絵でそれぞれの物語を書きたいというので、送られてきた箱ごと全部テコさんに届けたら、絵はがきが沢山届きました。その一枚には「いかつい肩と、ロボットのような手の父は誰か?子どもは誰か?「宏樹さん(テコさんの息子)とお父さん」「ジョニーさんとジョニーさんの息子」「たくさんのお父さんと息子達」の物語が浮かんで来て、今までどうしても解けなかった20才で死んだ兄と父の間にあった謎がとけました、と、書いてありました。 それを読みながら僕は僕で、もう一つの物語(絵本)を思い浮かべていました。「時計つくりのジョニー」(エドワード・アーディゾーニ・作、あべきみこ・訳、こぐま社1998)です。「あるところに小さな男の子がおりました。名前をジョニーといいました」で始まる、いじめられっ子の物語。その子ジョニーは、おばさんからいただいた「大時計のつくりかた」という本を百回読んで時計を入れるりっぱな木箱を作り、白いボール紙を切り抜き、数字を書き、錫(すず)はくから長短針を切抜、あとは、三つの歯車の大中小と、おもりと、くさりと、ふりこ。これは自分で作れないので金物屋や自動車修理工のビル・エヴァンスも尋ねましたがありませんでした。でもジョニーをすきな女の子のスザンナがオー!かじやのジョーさんに聞いてみたら?でたずねるとジョーは馬の蹄鉄をつくっていましたが「ふいごを動かして火をカンカンにおこしてくれたらつくってやるよ!」で、歯車つくり!ジョニーの時計完成!。のちジョー・ジョニー・スザンナ商会という三人の名の鉄工所と時計製造業を始めたのでした!どんとはれ! |
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