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九州の大分県別府市には、かつて「ファンク」「ザドー」「タイムストリーム」というジャズ喫茶があった。そのオーナーであった得丸泰蔵さん(82)から額入りのアップライトピアノ写真が届いた。ありがとう。その写真、実は僕が彼に頼んで撮影して貰ったもの。何故かといえば、今秋(2022)開業する盛岡バスセンター内にオープン予定の「穐吉敏子ジャズミュージアム」のテーマとなる事が書かれている(サインが入っている)から。
そのピアノを実際に僕が彼の家で見て以来、僕は穐吉さんの話をする時、必ずそのことを話して来た。今中国では冬季オリンピックが開催中ですが、それにもピッタシと、はまっているそのことば。○○ちゃんへ「好きなピアノを良くお勉強すると何時かは世界一になります。ガンバレ!穐吉敏子。8/9/‘82」。 誰かにこのサインの事を口にする度、僕自身、いつも涙をにじませてしまう程、この言葉が持つ意味深さに声まで震えてくるしまつ。そしてサインの日付を調べてみたれば、それこそ日本のジャズフェスティバル史に燦然と輝き続けているあの伝説の「‘82・別府国際ジャズフェスティバル城島ジャズイン」(8月6、7、8)延べ、2万人を集めたジャズ祭が終わった翌日のサインでした。しかもその祭の仕掛人が得丸さんであり、音楽監督は穐吉さん自身であった。 穐吉敏子ルータバキンのビッグバンドを始め、日本勢は、宮沢昭、峰厚介、中村誠一、(ts)田村翼、本田竹広、辛島文雄、(p)等々、外国勢は、アートブレイキー(ds),ジミーヒース、パーシーフィース(b)等にカーメンマクレー(vo)などジャズのバップ魂を極め貫き通している面々による県や市をあげての奇跡的なジャズ祭だったのです。 中学3年の時、深夜にラジオから流れて来たジャズに訳も分からないショックを受けたことから、ジャズファンとなった得丸さん。当時別府には米軍基地があり、街にはアメリカ文化に溢れていたことからの、のめり込み、本田竹広(故・岩手県出身ジャズピアニスト)からは「セカンドカントリー」(第二の故郷)そして穐吉さんからは「タイムストリーム」(時の流れ)という曲を贈られた程の大ジャズファン。その得丸さんは、城島ジャズインからBe Beppu Jazz in、庄内ジャズイン、いとう珈琲店ジャズin、最近の得丸邸ピアノライブとプロデュースも原点の個帰り中で、その都度のライブ録音も僕に届いている。
昨2021年のクリスマス。盛岡駅西口ビル、マリオスの窓灯りがハートマークになる頃、その日に届いた一冊の本をパラパラめくり面白そう!と読み出していた。贈り主は著者の山崎文子さん(72・商業デザイナー)ビル・ハートマークも彼女の考案。本のタイトルは「龍を魅た人々」(早野隆三と龍泉洞誕生秘話)「龍雲たなびく宇霊羅山(写真)この胎内に龍泉洞がある」のプロローグ。
昭和12年(1937)文部省から岩泉の天然記念物である「涌口」の視察に来た団長・脇水鐵五郎博士が、洞窟を見るなり「竜泉窟」と名付けたに始まるストーリー。18の頃から鍾乳洞に魅せられた早野隆三さん(1911~1995)はその「わき水博士」が名付けた「竜泉窟」を町の財(たから)とし「猿しか、いや猿も棲めないすり鉢の底のような谷底の集落、体力のない年より、女、子供は生涯出てゆくことはない」と昔語りされたところであっても、それを逆手に、日本一酸素を供給する「広大な自然の町」そして何よりの宝物であるとする「龍泉洞」と「龍泉洞の水」。この三種の神器を全国に向けて売り出した男の物語。 その主人公・早野隆三は同志・高橋梁助と共に、当時うわさに聞いた山口の秋芳洞と高知の龍河洞を見学に行き、秋芳洞の施設の立派さ、観光客の多さ、お土産買いの様子などに興奮し、四国行きの船上で、二人は「おらほもあんなになっぞ!一年に20万人呼んでみせっぞ」との話を聴いていた、カメラを持った青年との出会い。その青年こそが、のち龍泉洞で初の潜水調査を実行することになった越智研一郎氏。なんと彼は全国洞窟研究調査の若きエキスパートであり、愛媛新聞の記者であったと。 見聞から帰り、家を抵当に入れたお金で、鍾乳洞の中を歩いて観光出来る橋桁を2ケ月で完成させるという電光石火の早業で観光洞に仕立て、昭和34年(1959)4月10日、皇太子と美智子様のご成婚の日の完成祝賀。本日ここを「龍泉洞と命名す」と、日本人があるべき姿を皇室に見ていた早野氏が、のち町議会議長と成ったように、龍泉洞も秋芳、龍河と並ぶ日本三大洞窟の雄!となった話のデザインは、まるで小説! 秋芳洞は国定公園・秋吉台の天然記念物。百枚皿という棚田のような石並びが有名。有名といえば同名の秋吉(敏子)さんのジャズコンサート「つぴたーれ」を岩泉で開いたのは2000年の3月。会場の公民館は龍泉洞の水の如く人、人人であふれかえった。
フェイスブックで友達になっている歌手・早瀬ひとみさん。毎週金曜日が華麗な気分の日であるらしく、毎回素晴らしいカレーの写真をアップし続けていて、その美しさに、いつも感嘆し見惚れてしまいます。金色に輝く金曜のカレーな都会食!そうだ!彼女が生まれ育ったのは「銀河の町(住田)」であるから、金・銀の次に続くは金に同じ銅!だって事か!と、僕の頭が謎を解く。そういえば彼女は確か「幼少期、カレーは御馳走と思っていました」と言っていたよな。それにしても毎回、毎週楽しみにしている程美しいカレーな料理と、写真のセンスに感心しきりの僕(ウチワではない!)
僕もカレーは、大好き。カレー屋をやったこともあるくらいだから、余計そう思うのかもしれないが、昨年(2021)僕が作ったカレーを少し彼女に送ったら、それがフェイスブックにアップされていて、ビックリ!確か、栗!とキノコの2種だったかな?それからしばらくしたある日に、彼女のCDが色紙やグッズと共に送られて来たのです。手紙には「ジョニーお兄さま、過日は美味なカレー、ありがとうございました。そして私の事を覚えていて下すった事、とてもとても有難かったです。色々拝読し涙が止まりませんでした。ささやかな、ささやかな歌い手の一人、、、、ではありますが、声の続く限り、歌っていたい、、、、が本音です」。 早瀬ひとみ(本名・千葉仁美)さんが「北の岬」(喜多條忠・作詞/三木隆・作曲/宇崎孝路・編曲)でCBSソニーからデビューしたのは1980年11月。前年の79年TVの人気番組「家族そろって歌合戦」に母と従兄と3人で出場して準優勝。80年やはりTVのスターは君だ!にテープを送り一千人の応募の中から決戦大会に出場して見事グランドチャンピオンになったのは高卒の春だった。そこからスカウトされ同年のデビュー「想えばわずか一年前、やさしいふたつの手がありました」と粉雪の降る町の農林会館大ホールに通路までギッシリ、町民の一割を集めてのデビューコンサート光景が頭に浮かぶ。あれから40年、彼女は今「和シャン歌手」と呼ばれ巾広いジャンルを歌える歌手として様々な方面にて「誘惑の蒼い瞳」に「別離」して「京都一人」ゆく歌手生活の様子。ああ岩手はまた雪。住田はおらほの街のスターとして彼女の大看板が今も立っている。
真っ白な雪の中、真っ赤な車を運転して、僕を迎えに来てくれた花巻出身盛岡在住のUさん。行く先は花巻市東和町。目的は、萬鉄五郎記念美術館で開催中の「CAFÉ・モンタン・展」(12月11日~2月23日)。会場外には、盛岡が華やいだ1960年代、最先端のアートと詩、音楽、そして味覚を発信したモンマスこと、小瀬川了平(花巻出身)がそそいだ最上級の芸術エッセンス「CAFEモンタン展」“どん底酒場”と“モンタン”の大看板!
会場は、それこそ60年代のジャズレコードジャケット群の壁飾りが圧巻!その中には店名になったシャンソン歌手の”イヴ・モンタン“を始め、ジャズの歌手や演奏家たちのレコードがズラリ!そして当時の店に集った人々の写真。店に関わった美術家や詩人たちの作品など、大小かなりの数に及ぶ。”モンタン“の開店は1959年8月、純喫茶として始め、当時数百万円かけたオーディオやテレビ、ピアノでの音楽はシャンソン。ロシア民謡を歌う会、そしてジャズ評論家を迎えての、モダンジャズ・コンサートと題したレコードコンサート。及び美術展など、次々と企画。モンタン賞という美術賞の創設。前身の店「どん底」から這い上がり、60年代の岩手、盛岡を牽引した凄い店だった様です。 僕が小瀬川了平さん(1930~2010)と実際にお会いできたのは盛岡に来てからなので、2004年頃から。穐吉敏子さんのジャズライブやディナーコンサートなどに大宮政郎さんと現れたり、時折り開運橋のジョニーにも来て豪快にそして繊細な笑顔で語り飲んだ日の想い出は心の宝。 宝といえば彼が亡くなって、数年後、開運橋のジョニーにもたらされた数十枚ものLPレコード。盛岡市立図書館にて「盛岡労音機関紙(1962~1972)」を開けば、‘66年7月号から掲載のモンタン広告ページ(モンタン・ミニマガジン)に、モンタン入荷レコードという毎月数枚の新着輸入盤のお知らせコーナーがあり、読んでみたら、マルウォルドロンのレフト・アローン、エリックドルフィーのラストデイト、ソニーロリンズのアルフィー、リーモーガンのコーンブレッドなどなどが、’66年‘67年の何月に買ったものであったことまで判明。又毎月第2日曜日の昼2時からのモダンジャズレコードコンサートのお知らせ、イラストによるモンタン店内風景、他、ショートや詩なども載っていて、60年代へのタイムスリップを2度楽しませて頂きました。これも紅白!?
今年(2022)10月オープンする「穐吉敏子ジャズミュージアム」へのご寄付や関係資料の提供を呼び掛けているところですが、先日、横浜の佐々木健さんから電話あり「自分が聴いて来た穐吉さんのコンサートのフライヤーやチケットの半券、パンフレットなど、寄付したい」だった。ありがとう!
佐々木さんは僕と同じケン。出会った時から親近感を持った。以来交流が続き、2019年8月彼がお父さんと一緒に来た時には懐かしさに包まれた程、彼の父は昔の僕の父の面影を想い出させてくれた。盛岡に生まれ、仙台で育った健さんは今年還暦を迎えるが、彼は小学生の頃から父の影響で、洋楽にはまり、高校生になるとジャズに熱中。東京での大学生時代は休日ともなると都内や横浜のジャズ喫茶めぐり。アルバイトで得たお金は、ほとんどレコード代に消えた程、ジャズにのめり込んだ。 その決定打となったのは‘83年11月6日、東京の郵便貯金ホールで行われた秋吉敏子トリオの演奏会を聴きに行ったことだった。その時、16才でダンスホールのピアノ弾きとしてスタートして以来39年目の秋吉。そして健さんはその83年から数えて39年の今年まで、大切に保存してきた「’83・秋吉敏子トリオ日本公演パンフレット」をご提供頂きました。39!39!サンキュー!まさに銀河鉄道スリーナイン!と僕の語呂合わせ!それはそうと、彼は83年から今日まで、幾度も幾度も穐吉敏子コンサートを聴き続けて来た根っからの穐吉ファン。 彼の、もう一つの趣味?は写真。そう彼の目はクロートの目である。何年か前、送って来た開運橋の写真ハガキに僕は目を奪われ、感動のあまり彼にお礼の電話をした記憶。2019年には彼から届いた「柏原悌一写真集」(柏原悌一写真集製作委員会発行)。表紙の写真、砂浜のコンブ干し風景を見て想い出したのは昭和54年(1979)発刊の写真集団“いわて”作品集の中で特に印象に残っていた、あれ「磯に生きる」。もしかしてと探して見たら、やはり柏原作品だった。柏原悌一(1932~2013)氏は元岩手県写真連盟会長、生まれは僕と同じ平泉で健さんの母の妹のご主人(盛岡中央通りにあったお茶屋さん柏喜園の店主)だった。健さんはその叔父さんから暗室の技術を伝授して貰って以来40年、今なお白黒のフィルムにこだわり続けているのでした。あぁこれもジャズ。 |
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