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今年(2022)令和4年4月8日の入学式から、ピッカピッカの一年生になった孫が通う桜城小学校。その正門から道を挟んだ向かい側には、孫が3才から卆園まで4年間お世話になった仁王幼稚園。卒園したとはいえ、実は幼稚園をやめたくない!と言って入学の前日まで通い遊んだ園庭には、太い銀杏(いちょう)の木。樹齢は園の始まり日本聖公会盛岡子羊学園仁王幼稚園と同じく90年程らしい。
園長先生の曽根美砂さん(58・福島県小名浜生まれ)がちょうど小学校に入る年に彼女の父(司祭)が盛岡の同教会に転属となり来盛。小中高と盛岡で過ごし、名古屋の大学を卒業して、仙台の教会幼稚園で先生になったが、つまづき、パッチワーク店で働いて結婚。同時にご主人が盛岡へ転勤となって舞い戻り、専業主婦をやり、弘前の幼稚園で3カ月手伝った「おんがくであそぼう」が縁で、声を掛けられ、2001年、30年振りに、この仁王教会の幼稚園にめぐりめぐって来た不思議さは、まさに神様のおぼしめしなのでありましょうか?イエース! その美砂さんは言う「とにかく、キリストの幼稚園なので、ものさしがそこにある。目に見えないものを育んでいて、神様と幼稚園という縦横を、年長さん達がスポンジのように吸収するから下の子たちも、それをする。園からの桜城小1年生たちが放課後ピンポン!と遊びに来たりもするのよ」という。 そういえば昨年のクリスマス、孫のお友達二人(双子の園児)とそのお母さんが開運橋のジョニーに遊びに来たので、幼稚園(教会)で習ったクリスマスのうたをうたってきかせて!」と、マイクを用意したら、3人で囲んで「もろびとこぞりて」をはじめ、3曲ほどクリスマスソングを一緒にうたってくれて、居あわせたお客さんたちが、大喜びする程上手だったのには、僕も感心し心洗われたような、すがすがしい気分になったのでした。ありがとう!仁王幼稚園の皆様!そして美砂(クリスティーナ・ミサ)様、あのうたこそは、まさにキリストのミサ・クリスマスに他なりませんでした。 またハロウィンで仮装して街をねりあるく子供たちの行列に代表される、紙でのおもちゃづくりの発想などは目を丸くするものばかりでした。孫もお陰様で小学生。その桜城小学校で忘れられないのは20年前、店のポストに女子生徒から届いた手書き絵の「うんどうかいへのしょうたいじょう」の事。嬉しかったなぁ~。
あれは3年前の4月1日。丁度令和の元号の初日から2週間、本町通りの喫茶店「ママ」で、開催させて頂いた「小泉とし夫・詩(口語短歌)・照井けん・書(右利き左手書き)・展」4回目の今年も(4月1日~15日・2022)。9日には小泉とし夫さんによる朗読会が、医師・八木淳一郎さんが奏でるギター伴奏にのせて行われ満席でした。
その光景を見ながら僕の頭の中に浮かんできたのは、現存・岩手最古の文学会・同人誌「北宴」の編集人を務めた小泉とし夫さん(本名・岡澤敏男)彼も最古参95才の歌人。その最長老が現存・盛岡最古の喫茶店(創業90周年)で、それこそ古式にとらわれない現代口語で歌を作り、それを自らが朗読する会を開く。それは「新・にっぽんむかしばなし」の世界に居る様な気分でした。 しかも、コロナ禍以前の2017年には「なにもかも なくしたように みえるのか ぢっとみまもる むらさき コロナ」「ぐいぐいと すわれてしまい めをとじる コロナの宙に 胎児のまんま」など、まるで予言的ともいえる歌などまであり、ビックリ。そのビックリで更に想い出したのは11年前の3・11大震災年の1月、小泉さんの歌「今年こそ 兎の穴にジャンプして 行って見みましょう 不思議の国へ」だった、、、、。 今年はロシアによるウクライナへの突然の武力侵攻無差別攻撃はまさに津波の如き破壊力。こんな時、駄ジャレを言ってる場合ではないが「唯一人・ストリチナヤ!で プッチンギレテ 恐ロシア」酒飲んでる場合でもなし。 そこでまた、浮かんできたのは小泉さんの同級生だった詩人の故・村上昭夫さんの「動物哀歌」の一編「ねずみ」だった。「ねずみを苦しめてごらん、そのために世界の半分は苦しむ、ねずみに血を吐かしてごらん、そのために世界の半分は血を吐く、そのようにして一切のいきものをいじめてごらん、そのために世界全体はふたつにさける、、、、、、一匹のねずみが愛されない限り、世界の半分は愛されないのだと」そうそこで、又浮かんできたのは穐吉敏子さんのことば「いつか、みんな仲良くならなくてもいいからお隣同士、我慢しあう位のところまで行って戦争が無くなればと、いつも思う」でした。
4月3日(2022)「気仙沼にジャズオーケストラがやって来るよ!来ない?来るなら誰かにも声かけて!」と電話をくれたのは、昔々陸前高田にあった僕の店「ジャズ喫茶ジョニー」に毎週出演していた松本和子トリオに何度かパーカッションで参加していた片山秀昭さんだった。しかもそのオーケストラのドラマーとしてやって来るのは彼の弟、バイソン片山さんだと言うので、行かなくちゃ!と女房と孫と三人で聴きに行って来た。会場では昔の知った顔々に出会い、ヤーヤーヤー!昔はああで、いまはこう!あの人は?みたいな会話に花咲くと「孫が、みやぎけんでもジジをしってるひといるんだね、と言ってたよ!」と女房が笑う。
「昔は、宮手圏、って言ってたよなぁ」そう言ったのは、かつて気仙沼一のホテル「望洋」の経営者だった加藤英一さん。あの3・11でホテルの下にあった街が津波と火災で消えたため、即日から被災避難者の人たちにホテルを開放。復興支援宿舎後には、自ら廃業を決断!今はその語り部として気仙沼の旅ガイドコンパスリーダーとして活動。彼は、かつてホテルでジャズのライブやディナーショウなども開催したりしていた、根っからのジャズファン。昔アメリカに渡って、ジャズメンと交流した彼の写真と共に思い出話までしてくれたことも、僕は嬉しかった。 新築なった気仙沼中央公民館、被災した旧館はよくジャズのコンサート会場としても度々使われ、それこそ穐吉敏子さんも演奏したものでしたが、立派になったホールのステージには東京からの「馬籠フォレスト・ビッグ・バンド」(17人編成)リーダーの稲葉幹也さん(as.vo)とバイソン片山(ds)は共に気仙沼の出身、ピアノは竜野みち子さん。この三人は陸前高田時代の僕の店「ジョニー」でそれぞれ演奏経験がありますが、バイソンは1980年に「ファースト・フライト」で僕のレーベル「ジョニーズ・ディスク」でレコードデビューし、世界まで翔たいたジャズメン。リーダーの稲葉さんは、彼が学生時代「亜細亜大学ジャズ研究会」を率いリーダーとして夏季休暇を利用して僕の店で演奏したのでしたから、なおさらに感慨深いコンサートであった。終演後はそれぞれのニューCDにサインをしてもらい、記念撮影!まるでミーハーの僕でしたが、コンサートのさよなら曲が、何故に、昔僕が大好きだった曲「ロシアより愛をこめて」だったのだろうか。ああ、007よ、ウクライナに愛を、、、、、。
3月30日(2022)、新盛岡バスセンター・上棟式。4月4日、テナントの現場見学会と顔合わせを行い(株)盛岡地域交流センター/盛岡ローカルハブ(株)とテナント側とがスムーズな協力関係を築くイメージ作りをして、秋のオープンに向け事業者が一体となって動き出す。
1階はバスターミナルと券売所の他、パン・菓子・そば・テイクアウトカレー・魚屋。2階は、子育て支援施設・ラーメン餃子・ヤキトリ・クラフトビール・ワイン・創作料理店。3階は、ナノ炭酸泉温浴施設・リラクゼーション・コインランドリー・中庭付ホテル・そのロビーには、穐吉敏子ジャズミュージアムとジャズラウンジが入居する一大複合型施設。使用される主な木材は盛岡産という念の入れようである。 その中で僕等が運営する「特定非営利活動法人・穐吉敏子ジャズミュージアム」は昨2021年7月に発足。2022年11月3日のオープンに向け、資料収集・整理・寄付金の募集などを行っていますが、その募金の受け入れ先を郵便振替口座の他、銀行をどこにしようかと思っていたところに現れたのが、北日本銀行に勤務するT女史!彼女は、僕が盛岡に開運橋のジョニーをオープンした当初から常連のジャズファンSさんの妻で、いつも2人仲良く通い続け、これは!これは?と様々な穐吉敏子の昔の記事が載っている雑誌や書籍を探し、届けに来てくれるので口座開設を頼んだところ「開運橋に近い材木町支店に適任者が居る!」と連れて来て紹介されたその人は、何と陸前高田出身の大友一広さん(50)。 彼の顔見てビックリ、何と僕の息子(長男・兼高)の同級生で親友。「年に300日、店の2階自宅に遊び?通いしていた」彼の昔話によれば、僕が息子たちに手伝わせていたカセットテープのジャケット折りなんかもやりましたよ」と笑う。(そういえばレコードとCDの端境期に、カセットリリースもしていたジョニーズ・デイスク)でした。 この再会に僕は息子にすぐさま電話して彼と繋ぎ、そのやりとりを聞きながら想い出していたのは彼一広さんの父・安雄さん(市職員だった)と祖父・留治さんのことでした。僕が1973年に始めた音楽酒場「北国」と、その古いマーケットを壊して新築なった荒町マーケットで75年にスタートしたジョニー。実はその大家さんが一広君のおじいちゃんだったのですから、縁とは実に不思議なもの、縁起が良いですね!
今年(2022)1月、岩崎哲也さん(元・日本クラウンレコード洋楽部のプロデューサーで、現・スタジオ・ソングスの社長)から、穐吉敏子さんの資料が詰まった段ボール箱3個の寄贈を受けた。ありがとう!感謝の照井・礼!
以来、昼夜朝無く一ヶ月半余り、その紙資料を年月日順に整理整頓。それはなんと30年分も有りました。その中、穐吉さんからのFAXは感熱紙の為、その大半は消えかかっており、判読不可能なものには紫外線を当て、字を浮かび上がらせる方法などを使い読んだ。僕は40年余り穐吉さんからのFAXや、手紙を読んで来たので文体字体は、ほとんど判別でき、彼女の筆跡をボールペンでなぞり復元しました。 その他の資料は彼女が載った本や雑誌、専門誌など20冊余り、他ビデオやカセット、新聞記事、コンサートパンフやフライヤ、CD制作ジャケット、案、写真、ライナー生原稿、録音、製作経費、サイドメン迄の支払額(契約書)などなど。さらには2004年全音楽譜出版本、「孤軍・秋吉敏子」。‘17年祥伝社本、「秋吉敏子・エンドレスジャーニー・終わりのない旅」(聞き手・岩崎哲也)の契約、印税などの書類迄」含まれた、いわば岩崎哲也の秋吉敏子との全貌ともいえる資料。 岩崎哲也(音楽プロデューサー)1956年6月東京生まれ。慶応義塾大学文学部社会学科卒、全音楽譜出版を経て、クラウンレコードに入社。秋吉敏子のアルバム制作を担当。2009年クラウンを退社し「スタジオ・ソングス」レーベルを設立。秋吉のアルバムや本を制作、出版するなどして来た大の秋吉敏子ファン! その始まりは、穐吉敏子のコンボによる「プレイズ・バド・パウエル」「四季(フォーシーズンズ)」(1990年)の製作だった。その企画案に彼は「日本が生んだ文字通りの世界的ジャズミュージシャン・秋吉敏子のピアノアルバムを2枚製作。録音はニューヨークで音の良さで定評ある“ルディ・バンゲルダー・スタジオ”を使用。ディストリビュージョンは米、ヨーロッパの大手が既に名乗り上げており、全世界での発売可能。いずれにしても、クラウンジャズ始まって以来の超大物であり、‘90年下期最大の目玉商品となること必須である」と。彼、岩崎さんは以来毎年のように秋吉CDをプロデュースして来たモノホンのファンなのでもあるが、そのきっかけを作ったのは、53年の初レコーディングを担当したテレビ東京の故・石原康行さん。彼から秋吉さんを紹介されたのがクラウンのディレクター岩崎さんだったのです。 |
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