盛岡のCafeJazz 開運橋のジョニー 照井顕(てるい けん)

Cafe Jazz 開運橋のジョニー
〒020-0026
盛岡市開運橋通5-9-4F
(開運橋際・MKビル)
TEL/FAX:019-656-8220
OPEN:(火・水)11:00~23:00

地図をクリックすると拡大します


Prev [P.88/125] Next
幸遊記NO.188 「牛崎隆のドラマーな教え方」2014.8.18.盛岡タイムス
 クラシックの殿堂として1891年にオープンした、NYのカーネギーホール。その舞台に、初めてジャズが登場したのは、オープンからほぼ半世紀が経た1938年。しかも白人、黒人が一緒の舞台に立ったのも初めてという快挙。それを成し遂げたのは、クラリネット奏者としてジャズ史に残る金字塔を立てた、ベニー・グットマン(1909~86)。そのカーネギーホールコンサートの完全版CDを持参して 聴かせてくれたのは牛崎隆さん(67)だった。
 彼は開運橋のジョニーに現れる度に、バックの中から、実に様々なCDを、まるでマジックの様に取り出しながら、次はこれを、とニッコリするのだが、そのほとんどのDは僕の知らないワールドミュージックの世界。時折、僕がひっかかるCDは、借りて聴き直すこともある。たとえば、2011年12月に70才で亡くなった、セザリア・エヴォラが唄った「ソダデ」などのファドは、実に素晴らしかったりする。
何せ彼、牛崎さんは僕と同い歳とあって互いに音楽の話に花が咲く。先日などは、高校の卒業式の日ジャズ喫茶に連れて行ってもらったという彼の教え子が1人で僕の店に現れたりもした。とにかく彼は音楽好き。弘前大学時代は当時弘前にあった「美寿々」や「オーヨー」といったジャズ喫茶通い。クラシックはドイツ語の先生の家に押しかけ、奥さんの手料理をご馳走になりながら聴かせて貰ったという。
 久慈、一関一、花巻北、遠野、伊保内、盛岡二と高校で英語を教えてきた彼。定年後も講師として一関一、現盛岡北高で教鞭をとっているが、モットーは“絶対イエス、ノーで答えるな”。“書けない言葉を使うな!”“即興(変奏、アドリブ)が大事なんだ”と教え方も少しジャズっぽい。教師としての出だしは中学校そして小学校。更に、採用試験を受け直して高校で教える様になった彼の道も面白い。
 カバンの中から、時折ワイヤーブラシを出して、ドラムに向かい、音楽に合わせてリズムを取りながら「教えられたことは忘れる、自分で覚えたことは忘れない」と言いながらニッコリと笑う彼は、ドラマーチックな音と共に生きてきた感じがする。

幸遊記NO.187 「大橋美加のナット・キング・コール」2014.8.12.盛岡タイムス
 「大橋美加です。サンフランシスコ録音新譜お送りしたく思います。開運橋通5-9-4階で宜しいですか」というメールが僕の携帯電話に届いたので、すぐさま「ありがとう、嬉しい懐かしい、今も愛変わらず、気にしています」と返信したら、3日後の7月29日(2014)CDが届いた。
 彼女の12枚目となるリーダー作「ウィズ・ラブ・トゥ・ナット」はそのタイトル通り、ナット・キング・コール(1917~65)がその昔ピアノで弾き語りをやっていた頃の愛唱曲を集めたトリビュート・アルバム。大歌手のエラ・フィッツジェラルド、サラ・ボーンの晩年の共演者マイク・ウォフォード(ピアニスト・76才)を中心としたカルテットの演奏も素敵だ。「聴く人の心を癒し、うごかす作品に仕上がったと信じています」との手紙も。フライヤーのキャッチコピー「毎日聴きたい歌声」に僕も心うごかされ、毎日聴いてます。
 大橋巨泉、マーサ三宅を両親に持つ彼女が故・松本英彦(テナーサックス)をゲストに迎えて、レコードデビューを果たしたのは1986年2月の「ロマンシング」。翌87年2月第3回日本ジャズヴォーカル賞・新人賞を受賞!の好スタート。2作目はニューヨーク録音の「スターリング」。僕も何度か彼女を呼んだ。
 「母・光子(マーサの本名)の「み」と父・克己(巨泉の本名)の「か」で「美加」というあんちょくな名前なんです」と彼女が笑いながら僕に語ってくれたのは昭和の終り頃だった。当時すでにNHKやFM横浜に番組を持っていて、映画にも詳しかった。歌手としては「知られざるスタンダードナンバー、それを掘り下げて、バース(韻文・詩)から唄いたいので、採譜もしています」とのことだった。今もそのレトロ指向は変わっていない様子で、何となく嬉しい。
 この上なく端正で完成されたナット・キング・コールの唄の印象。だが「トリオ演奏というスタイルを創った時代の唄には、新鮮な遊び心があった。ナットの本質はそちらにあると思います」と語る。「大御所の母とは反対に貫禄はつけたくない。いつまでも可愛い女でいたい」という大橋美加さんは33画(天下を取れる統領画数)のAB型である。

幸遊記NO.186 「高橋学の生誕10年前」2014.8.4.盛岡タイムス
 「ジョニーさん!僕、結婚しました」そう言って久し振りに店に来てくれた高橋学さん(24)は嬉しそう。ニコニコとエビスでカンパイ!。奥さんは琴子さん(24・旧姓大西)横浜の出身。学ぶさんは仙台出身。仙台二高から北大経済学科に進み、3年生の時、米・マサチューセッツ大・アマースト校に留学。国際経済やマクロ経済を学んでいた時、同大に留学して心理学を学んでた彼女に出会った。その後、彼は彼女に恋し、心理を読まれて?ご結婚。
 入籍は7月4日だったが、お互い仕事の都合で別居!8月2日から彼女が転勤で盛岡に来ると喜んでいたら、彼は3日から9日まで静岡出張で、おあずけ状態。ご主人・学ぶさんは読売新聞盛岡支局の記者であるため、盛岡見前中のサッカー部が全国大会へ出場する取材。琴子さんは英会話塾の講師ゆえ、帰ったら、待ちに待った良い(えい)会話を急(せ)き込んでするのだろうなと、光景が浮かぶ。
 それはそうと、彼が僕の店・開運橋のジョニーに現れたのは今年(2014)の1月。僕が丁度、1980年に陸前高田で行われたジャズピアニスト・秋(穐)吉敏子さんのコンサート音源を、CD化しようとしていた時だったので、それを彼に話すと、彼はその発売までの3ヶ月間、そのことについての取材を根掘り葉掘り、根気良く続け、同紙の県版トップ扱いのはずが、夕刊への話になり、直前になって朝刊第2社会面へと記事が急成長!。4月13日付に「1980陸前高田ジャズの夜・ライブCDを復活・秋吉敏子さんトリオ演奏」と、大きな見出し記事。
 書いた本人は13年4月入社。研修後の7月盛岡へ配属され赴任。「これまで取材した記事の中で、一番の難産だったけど、発表ものじゃない、自分で見つけた記事が全国版に載ったのでとても嬉しかった。記者の名前は出ませんでしたが、親達が一番喜んでくれたし、祖母が岩手の西和賀なので、誇らしい」と微笑む。
 余談だが、新聞に出た日の早朝から一週間、固定電話が鳴りっぱなし。皆新聞を切り抜いているらしく、今でもまだベルが鳴る。インターネット時代とはいえ、さすが大新聞。その底力をまざまざと見せられ、体験させられた事件!でした。

幸遊記NO.185 「相澤榮のオクテットジャズ」2014.7.28.盛岡タイムス
 「聴く鏡」という一関のジャズ喫茶ベイシーの店主・菅原正二さんの本が2冊出ている。鏡で思い出すのは、聴かせる鏡の様な山形のジャズ喫茶オクテットのマスター・相澤榮さん(75)。この二人の先輩から僕が教わって来た事は「友を以って鏡とす」のことわざ。僕流のシャレで言えば「聴く屈み(かがみ)・聴かせる屈み」。音楽と真剣に対峙する普段(不断)の努力と行動の大切さだった。
 相澤さんは僕と同じく、ジャズピアニスト・穐吉敏子さんの熱烈ファンなので、彼女のコンサートも主催するし、どこまでも聴きにも歩くので、よく顔を合わせてはニコニコする間柄。僕が穐吉さんのコンサートを初主催したのは1980年6月(今年2014年その実況録音が初CD化)。彼、相澤さんが、彼女のコンサートを初主催したのは1977年12月。その時の彼女の心遣いと演奏に、メロメロになったのが始まりだった。と最近彼から聞いた。
 その77年コンサート、実は当時、待望されていたアルトサックス奏者・ソニー・クリス率いるカルテット初来日の代演だった。11月28日・新宿厚生年金会館を皮切りに、12月8日・山形市民会館までの10日間8公演。来日の為にコートを新調し楽しみにしていたらしい、ソニー・クリス(当時50才)は公演直前の11月19日、謎のピストル自殺。困り果てた招聘元の「もんプロ」に、私達でよければと代演を申し出たのが穐吉敏子カルテット。コンサートは、全公演大成功。山形も例外ではなく、逆に大きな話題となった。以来相澤さんは、穐吉敏子・ルー・タバキンのファンになって今日に至るのだが、山形の蔵王や坊平国際ジャズ祭のプロデュースも手掛けて来た凄い人。
 1939年生れの彼が、店を開いたのは1971年の文化の日。上京してアルバイトをしながら、夜間短大に通い、地元山形に戻ってからは、車の会社勤めをし、レコードを買い求めての開業。退職金の一部で76年の米・モンタレージャズ祭ツアーに参加。クラブ・ダンテのアフターアワーで聴いたズート・シムス(ts・故人)が吹いた「ラバー・カム・バック・トウ・ミー」が忘れられず、彼を山形に呼んだのが翌77年。その実況音源をズート夫人の許可を貰い2011年にCD化した執念と、そして僕と同じ思いの穐吉ファンに榮あり!乾杯!乾杯!

幸遊記NO.184 「菊池忠東の斗六・すし六」2014.7.21.盛岡タイムス
 時折、用事があって上京する時、僕が楽しみの一つにしているものに駅弁がある。買うのは決まって「八戸小唄寿司」鯖と鮭をスライスして酢でしめただけの押し寿司なのだが、これが実に味わい深いものなのだ。何十回食べても、食べても飽きないおいしさ。そして食べ始めれば頭の中に浮かんでくるのが、もちろん八戸小唄「唄に夜明けた鴎の港、船は出て行く南へ北へ」(法師浜桜白作詞・後藤桃水作曲)。昭和6年市制施行ほやほやだった八戸市が発展を祈願し、作った新民謡。
 ごちそうさま!と箸おく頃に、これまた決まって浮かぶのは、気のいい仲間と寿司食べに八戸に新幹線行った日の事。6人以上では来るなよ!という店主・菊池忠東さんの言葉を無視して、7人プラス現地人1人の8人で押しかけた、店の名は「すし六」。カウンター6席だけの小さな店だったから、店主の座る椅子をカウンターの中から引っ張り出してギューッと座った。余った1人は、カウンターの中に入っての立食。店主1人で8人分を握る忙しさ!握って出ればあっという間に胃の中に消える美味しさに、「お前ら、少し味わって喰えよ!」と店主。
 小1時間やっと握り終わって、盛岡時代の話をしようかという矢先、「さあ!新幹線の時間だから帰ろうか!」一斉に立ち上がると、「お前ら一体何しに来たんだよ」と店主のあきれ顔。それを横目に「さあ帰ろう」でチョン。駅までバスに乗り、駅から列車の本当の寿司喰い旅行。帰りの話は当然、主のネタモノで盛り上がった楽しい旅だった。
 菊池さんは、昭和17年(1942)生まれ。盛岡仙北中学を卒業と同時に上京。新宿歌舞伎町の寿司店に就職し修業10年。景気が良かった時だから兄を頼って Jターンし、八戸グランドホテル前に「斗六」という寿司店を開いたのは昭和43年26才の時だった。地元はもちろんのことだが、ホテルに泊る有名人達が随分と来てくれて店は32年も続いた。
 僕が盛岡に来た頃、前後する様に彼も盛岡に来てホテルの寿司屋で働き、よく僕の
店に来てくれた。とにかく誰もがハッとする程、カッコイイ!オシャレをする人。その後又八戸に戻って店をやった。目を患ってからは、毎日散歩と川柳の年金暮らしさと笑う。

Prev [P.88/125] Next
Copyright (c) 2005 Jazz & Live Johnny. ALL rights reserved.