|
![]()
2015年の、素敵な絵画カレンダーを二人の画家から頂いた。一つは岩手の山を中心にしたブナの巨木を描き続けている兵庫県芦屋市の画家・伊東美砂代さん(幸遊記№96・2012年11月5日付で紹介)の新作「涼音」ブナの森を2014年12月29日、ご主人の真人さんと一緒に持参してくれました。ブナを見上げる美砂代さん独自の構図が生命感に溢れている2ヶ月毎のもの。
もう一つは岩手出身の日本画家・村田林蔵さん(60)の「季(とき)へのいざない」。12月に盛岡川徳ギャラリーで行われた個展の最終日にやっとすべり込んだら、プレゼントされ、いつか僕の書とコラボレーションしたいとも言ってくれました。有難う!。林蔵さんは昨2014年6月~7月、岩手町石神の丘美術館でご夫妻による「村田林蔵・山田宏子・日本画二人展」を開催。数千人もの人が訪れた程の、本当に素晴らしい企画展でした。 開催期間中も終了後も川徳展の時も、盛岡市立高校時代の同級生や友人達と連れ立って、開運橋のジョニーにやって来ては、話に花を咲かせてくれたのも嬉しかった。そして石神の丘で林蔵さんのお母さん・村田マサさんに偶然お会いし、ひとときいろんなお話しを聞かせて頂けたことも幸運でした。マサさんは繭(まゆ)雛や、繭こけし、無事来身(くるみ)などで知られる盛岡三ッ割の「村田民芸工房」の女主人。後日、林蔵さんが描いた陸前高田の一本松の絵ハガキで「初対面ですのに長いお付合いの様に親しくお話が出来ました。美を通じて御縁が出来ました事、本当に有難う。嬉しく感謝いたしております、、、、」と、届いた。 村田林蔵さんは1954年大迫町(花巻市)生まれ。東京芸術大学日本画科卒。在学中、日本画の最高峰故・平山郁夫氏(1930~2009)に学んだ人で、1990年、第45回院展に「地」で初入選、97年奈良橘寺(聖徳太子生誕の寺)の天井画。99年東京芝・増上寺の格天井絵。00年院展入選作を外務省が買い上げ。同年、平泉・中尊寺金色堂の切手画、などなど、今では日本を代表する日本画家の一人に数えられる、岩手が誇る芸術家(神奈川県在住)。 見る人に音楽が聴こえる様にと描く、林の美しさや山雲水面に映る心の情景。牛の目に広がる深い宇宙。そして花鳥風月の円形画に至っては、僕の実家の座敷に描かれている、百枚の格天井画を想い出させてもくれました。ありがとう!
釜石オリジナル歌謡同好会(長柴政義会長)が12月25日に「ホテル・シーガリアマリン」に、同市内4つの仮設住宅に住む、東日本大震災の被災者120名をバスで無料招待して、行った記念講演と年忘れ歌謡コンサートに、僕も来賓として招かれ夫婦で行って来た。
被災者達に、震災復旧復興事業の進行状況について話をした野田武則・釜石市長。三陸鉄道の全線開通とJR山田線の三鉄編入について語った三鉄社長の望月正彦氏。中心市街地の復旧復興について住民側から、みなとかまいし地区会議議長・高橋松一氏の意見的なお話。2部では、釜石オリジナル歌謡同好会からオリジナル曲でデビューした人や、持ち歌にしている歌手達、梅原初夫 / マッシュ / 吉田守 / 瀬戸小太郎 / 佐々木智明 / 小松清一 / 井上るみ子さんらが次々とステージに登場し、自慢のノドで4半世紀にも及ぶ創作歌謡の一端を、会場を埋めた200名に披露。それは地産地翔の夢と希望と安らぎの為に大切な「心の復興支援」の実施なのでした。 特にも吉田守の「橋野川残照」(藤原清明・作詞 / 大橋博・作曲)。佐々木智明の「さらば高炉よ」(ながしば・まさよし・作詞 / 坂野のぼる・作曲)。井上るみ子の「おんな北海流れ節」(飛鳥井芳朗・作詞 / 坂野のぼる・作曲)は、心に沁みました。三陸釜石・自然と歴史と文化の伝承を掲げ、それこそ我国初の鉄づくりを行った釜石の「橋野高炉跡」を世界遺産に!と「夢高炉」曲で登録への応援を市民レベルでする熱さ。 釜石!で、すぐ思い浮かぶのは、1972年にあんべ光俊らが結成した「飛行船」の「しょうよう歌」や「遠野物語」。それに民謡から歌謡歌手になった佳川ヨコ(本名・佐々木ヨコ)が故・水原弘と競った「君こそわが命」や「銀座のマリア」だ。まもなく大晦日、第65回NHK紅白歌合戦である。今年雫石町民栄誉賞を受賞した福田こうへいは2回目の出場。岩手出身者としては、及川三千代「愛と死のかたみ」(1962)、千昌夫「星影のワルツ」(1968)、藤圭子「圭子の夢は夜ひらく」(1970)、新沼謙治「嫁に来ないか」(1976)の初出場に次ぐ5人目の福田こうへい「南部蝉しぐれ」(2013)。余談だが福田も及川も民謡の出身者であり「雫石音頭」は及川三千代の吹込(1970)だった。
岩手奥州胆沢のシンガー兼ピアニストのタマ・チャールズこと玉山秀之さんが、公演先の神奈川県で亡くなったのは、2010年11月23日58才だった。年月は早く過ぎ去り、すでに丸4年がたった。
僕がタマさんに初めて会ったのは、何十年前だったかな?東京で流行ってた“イカ天”をもじった“イワ天”というアマチュアバンドのTV勝抜き合戦。それをIBCが企画・放送したもので、TVに出て演奏する二つのバンドにコメントや甲乙をつけて、演奏終了後すぐに県内各地の審査員が局にFAXし、それを放送中に集計し勝負を決め、何週か後の決勝戦はスタジオでの生演奏を審査する番組。その審査員の一人が僕であり、タマさんだった。 彼は中学からギターにのめり込み高卒後の70年代から80年代にかけては、コンテスト荒し男と称された程、様々な賞を勝ち取り、世界歌謡祭に彼の「LIVING・ON」がノミネートされるなど、高い評価を得たりした。でもタマさん本人にとって真の転機となったのは、1980年代の末に来日した、盲目のピアニスト兼歌手のレイ・チャールズ(1930~2004)の公演を聴き、すっかり魅了され「愛さずにはいられない」状態になってしまったことからだった。僕もそのステージを見聴きした一人。今、鮮烈に思い出せるのは高校生時代に見たレイの主演映画「星空」のいくつかのシーンだ。 それはともかく彼はそれ以来ギターからピアノに転向した。レイ・チャールズの歌唱、身のこなし、髪型、服装、メガネ、歩き方まで全てを研究、そして遂に「タマ・チャールズ」を名乗るに至ったのでした。2001年から開運橋のジョニーにも幾度となく出演したが、忘れられないのは、不況で沈滞している東北に活!ふるさとに活!ついでに自分にも勝!と自作曲「東北6県ロール」と「縄文」曲CDの発表だった!。 東北を中心に北海道から九州までステージの声がかかる程のエンターテイメント「音楽は永遠のチャレンジである」は彼の名言。「歌は僕の命なのだ。音楽はすべて真面目に心から演奏されたものでなければならない。クラシックだってジャズだって、ポピュラーだってその点に変わりはないさ」とは先立ったレイ・チャールズの言葉である。二人は今、あの星空でサングラスをしながら夢のデュエットをしていることだろう!
まもなく午(うま)年だった2014年(平成26)が終る。僕は今年正月、ずっとずーっと御無沙汰していた年賀状(念願状)をやっと出しました。ハガキの裏面には馬の字の4つの点(足)を心に変えた絵文字の様な「まごころ」。久々に年賀状を書こうかと思ったのは、僕の店に飾ってあるレコードの様に丸い板に描かれている馬、そのお尻の上に止まった鳥が、仲良く馬と話をしてる様な、気持のいい絵馬を見ている時でした。これはきっと「馬の心得」(作者の心絵)なのだと感じた僕。
絵馬の作者は、「ささべん」さんこと、南部絵馬師・鐙庵(あぶみあん)つと無(佐々木勉)さん(1937~2009)、昔、家は馬鍛冶だったという紫波町の「権三ほーる」で開かれた絵馬展2006年5月に買い求めたものだった。“紫波町日詰郡山駅”そのホールの住所から「パカポコ、パカポコ、トンテンカン、トンテンカン、紫波・暮れなずむ頃、蹄(ひづめ)の町は人と行李(こうり)の山になる」ダジャレの様な詩が僕の頭の中に浮かんだ。 後にも先にも佐々木さんと出会ってお話しをしたのはあの時一度っきりしかなかったけれど、おだやかに、少し茶目っ気のありそうな感じで、家庭の話をしてくれたっけ。そういえば昔、彼の友だった詩人の故・宮静枝さん(1910~2006)が何かに書いていた彼とのエピソードが面白かった。 ささべん「宮センセ!何だい、見ぬ振りして!。」宮センセ「すれちがい、先に声かけた方が負けよ!。」ささべん「20才ぐらいの美しい娘っこ3人来たと思ったら宮センセだったもんな!。」宮センセ「やっぱり私の負けだった(私の歳を3等分した)」と。 「お金というものは受け取るとすぐお足になって飛んで行ってしまう、ありゃ、おはねというべきだ!」そう言った勉さん。確かに彼の絵馬はハネて行くが、年の始めの正月、盛岡市神子田の嶋岡商店ギャラリーでみた「鐙庵つと無」さんの作品展でおハネにダク点つければバネになると思い、来年1月同店で僕は昨年出版した本「かつし」(横澤かつし詩・照井顕・書、写真)にちなんだ「“かつし”と“けん”のひつじ(筆事)展」を開かせてもらうことになりました!つとむさん、ありがとう。
ジャズボーカリスト・飯田久美子さんの歌声を初めて聴いたのは、飯田ファンで熱烈な後援者でもある江戸ペン屋・中村寛昭さんからプレゼントされた彼女のデビュー作「マンハッタン・スイング」でだった。それはニューヨーク・マンハッタンの名門・アバタースタジオで2010年5月に、ジャズピアニスト・ジュニアマンス(1928年生まれ)と共演したCD。すでに魅力的な個性に溢れていた。
「ファンタスティック・スインギン、全ての面でグレートな歌手」と飯田さんを評したそのジュニアマンスの伴奏を聴きながら、僕は1983年10月に気仙沼市民会館で聴いた、彼のトリオによるコンサートの光景や音が、ふと頭に浮かんだ。 昨今満開状態のボーカル界だが飯田さんは子供の頃からピアノやバレエを習い、聖歌隊、合唱団、ミュージカルを経て、かつては幻のジャズボーカリストと呼ばれ、40才でレコードデビューしブルージーと絶賛された、日本最高のジャズ歌手・沢田靖司氏(1939・昭和14年生まれ)に師事し、習練と研鑚を積んでのデビューだった。「敬虔な心で音楽と向き合い、自分の可能性を信じて、努力を惜しまず前進して行きたい。愛と感謝を込めて」そうデビューアルバムにサインをしていた彼女。 昨2013年東京で本人と出合い、その気さくな人柄に心惹かれ、僕の店「開運橋のジョニー」にも出演して貰った。その時のステージマナー、初顔のピアニスト・藤原建夫さんとのコミュニケーションのとり方、そして何よりの歌、すっかり気に入ってしまった僕は9月の第1日曜に開催している「第8回岩手あづまね山麓・オータムジャズ祭」で武藤晶子ピアノトリオで唄って頂いた。そのステージ衣装は盛岡・開運橋のジョニー前ブティックで買ったのだが、その時自分のCDもそこの店に買って貰った程のプロ根性の持ち主。しかし本人はいたって自然で上品で、しかも美しいのだ。 往復3時間、週1欠かさず10年間レッスンを受けてのデビュー。ドイツやスペインのステージに立ち、今年は師・沢田靖司さんをゲストに迎えて、市川秀男トリオと録音。そして、第7回澤村美司子音楽賞「特別奨励賞」。第30回日本ジャズボーカル賞「新人賞」をW受賞したのです。おめでとう!おめでとう! |
Copyright (c) 2005 Jazz & Live Johnny. ALL rights reserved. |