盛岡のCafeJazz 開運橋のジョニー 照井顕(てるい けん)

Cafe Jazz 開運橋のジョニー
〒020-0026
盛岡市開運橋通5-9-4F
(開運橋際・MKビル)
TEL/FAX:019-656-8220
OPEN:(火・水)11:00~23:00

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幸遊記NO.203 「近藤克人のWAZZ総研」2014.12.1.盛岡タイムス
 昨年、今年と、開運橋のジョニーに現れた千葉県柏市在住の近藤克人さん(51才・一橋大学社会学部卒・富士通入社、米国タフツ大学に学びマスターオブアーツを取得して卒業、現・産業翻訳者)から全国47都道府県のジャズ喫茶、その存在の仕方、各地のジャズ祭やコンサート、ストリート、人間性や、音楽資源まで、体感体験した途中経過報告書の様な資料や文章「WAZZ総研」が僕の元に届けられた。
 「日本ジャズの地域差」を探りたいと思ったのは神戸のジャズ屋の集合具合。入った店の雰囲気が東京と違うと感じたことからの始まり。「西と東の分かれ方、ならば東北は?九州は?沖縄は?プレイヤーの南北の違い、米国と日本のアドリブ(即興演奏)の違い、その原因は何か?仮に話す様に吹くことがサックスのアドリブの理想であるならば、地域によって話の速度、抑揚の違い、すなわち言語的な地域差異へとジャズ演奏が収斂(しゅうれん)していくのではないか」との彼の仮説の実証見聞録なのであった。
 広島の「筆の里」博物館で、「日本人が文学を書く上で筆が重要な役割を果たしていることを学び、絵や化粧の道具として世界に輸出されていることから“アメリカのジャズは中国の漢字に相当する”」に至った。「遣唐使が学び日本に伝わった漢字。貴族の漢字による公式文書、漢文を読みやすくするため僧侶が作ったカタカナ。宮廷女流貴族が作ったひらがな。その過程で日本人はある発明をする。それが“訓読み”だった。そこで私には一挙にある考えが降りてきた。縄文・和歌山(カタカナ)、書、文学、ジャズ、インプロ(即興)全てが一つのことを教えてくれていた」。
 彼は「それまでの苦労や人生の躓(つまずき)などは、その時瞬間に全て報われた」と感じたらしい。そして「自分の中で考えていた音楽も頭の中で完成した」とある。彼は僕の店に来る前、岩手県立図書館で“縄文ジャズ物語”を読んで来た(昔僕が書いた本)。「あの小説の中には自分の考え求めていたものがあった」と言い、ピアノで自分がアレンジした「君が代ブルース」を弾いてくれた。手紙には「“君が代”と“さくら”の2曲でジャズが実は邪頭として日本人が生み出せた(出していた)可能性があったことを音楽的に気付かせることは可能」と、あった。さすがWAZZ創(総)研者!

幸遊記NO.202 「安田信治の七戸國夫さん」2014.11.24.盛岡タイムス
 秋になると、毎年僕の店に現れる安田信治さん(55)は、今年もやって来て、ビールを飲みながら色んな話をし、ギターも弾いてくれた。振り返ってみれば彼とはもう20年になる。1994年に交通事故でこの世を去った盛岡一高出身の名ギタリスト・七戸國夫さん(1947~1994)の愛弟子。彼が七戸さんに出会ったのは20才の頃で、上京して横浜に住んでいた時だ。商店街の2階にギター教室の看板を見つけたのが、きっかけ。高校時代、自分で詩を書き、友達とグループを作って、フォークソングを歌い、コンテストに応募までしていた程、ギターの大好きな青年だった。
本格的にギターを習ってみたいと入門し、毎週日曜日一度も欠かさず5年間通い続けた彼。「七戸さんの教え方は、普通の形通りではなく、音楽的なことを、いきなり深いところから教える人で、形のきれいさ、無駄の無い運指、そこから更に削る音の美しさ、そこにいかないと(到達しないと)解からないことは、酒飲みましょうか?って話もしてくれた。厳しいのに優しく弾く師匠でした」と彼。
 仕事の関係から5年間のブランクののち、30才で再度七戸さん頼んで、習いはじめ2年した頃の事故死だった。その後、七戸さんの奥様・百合子さんから、七戸さんのギター研究所を任せられ、以来15年余り、教える側に立ってきた彼。「生徒さん達に、時折、七戸さんから教わったようにしゃべりながら教えている自分に、ビックリすることがある」と言ってテレ笑いした。「音を大事にして弾く、それは相当大事なこと。子供から学生、ご婦人、先輩と、生徒も様々だが“下手でも、演奏家になれ”と言われた師のことばを胸に、優しく教えている」のだという安田さん。
 平日は昼からパートで車のタイヤ屋に。土日は競馬のJRAに勤め丸25年。昔やってた庭師の仕事も時折頼まれる、そんな忙しさのなか「見えない帯力をしていた七戸さん」の、その気骨を受け継ぎアンドレス・セゴビア(1893~1987)、ナルシソ・イエペス(1927~1997)と並ぶ世界三大ギタリストのジョン・ウィリアムス(1932~)が使っていた名器・グレッグスモールマン(七戸さん愛用遺品)を弾き継いでいる。

幸遊記NO.201 「喜多野尚のルークレコーズ」2014.11.17.盛岡タイムス
 僕が盛岡にジャズ・スポット・陸前高田ジョニーの名で店を始めた頃から、盛岡城跡(岩手)公園前のサンビルで年に1、2度、全国各地の業者が集まって開かれている、中古レコード市。そこに出店の度に僕の店に顔を出してくれるのは、三重県四日市市で「ROOK・RECORS」を経営する喜多野尚さん(57)。
 今年2014年9月彼が現れた時、丁度、歌手で作家の新井満さんから、本やCD、絵葉書などが「いずれ又、そのうちに」のコメントと一緒に届いた時だったので、新井さんが店に来てくれたと話したら、翌日には新井さんが1976年に録音したアルバム「アルファベット・アベニー」を持参して僕にプレゼントしてくれたのです。あぁ、ありがとう。
 話を聞けば、喜多野さんは、愛知学院大学時代、四日市の「サボイ」というジャズ喫茶でバイトをしながら、中古のオリジナル盤を探し買いした程のレコード好き。大学を卒業しても3年間そこで働き、独立して念願のレコード屋を始めたのは昭和63年(1988)。その頃、ジャズ日本列島(61年度版)本で読んだ「ジョニー」の欄「レコードは売る程あります」(制作して、売っていた)事や70~80年代にかけて、ジャズはアメリカが本場で、日本人のは下に見られてた。そんな中で日本人だけでやり続けていたその敷居の高さを、僕は認識していました。その店へ実際に来て話するなんて思ってなかったですから、商売は有難い。」「そういえば、いつかジョニーが穐吉さんのレコードは俺が持ってなきゃだめなんだよと言ってたことあったけど、そういう人の所にあるべきものが、レコードなんだと思う。そういう次の人に渡す仲介屋が僕等。業界も今は配信の時代で昔程は売れないが、レコードを買う人にとっては、いい時代だと思います」と喜多野さん。今どき、アイフォンどころかケイタイすら持たぬ、その強い信念に僕も心惹かれる。
 新井満さんが贈ってくれた本、「希望の木」(陸前高田の一本松の写真詩集)を見ながら、かたわらの元ユースホステルで僕が唄った昔のことなどを思い浮かべ、喜多野さんからのレコードを聴く「立ち止まってみても知る人は亡い、振り返ってみても影も見えない、、、、」(何処へ・新井満・作詞・作曲)。レプリカとなった希望の木を今人々は見上げている。


幸遊記NO.200 「石川恵美子の福井参郎賛!」2014.11.11.盛岡タイムス
 東京で穐吉敏子さんのCDを買って下さったファンに、彼女がサインをする間、僕が横に立ち、その手伝いをしていた時だった。穐吉さんと同年代の御婦人が、様々な資料を広げながら、息せき切って穐吉さんに話かけ始めた。その中、一枚の古い新聞記事に僕の目が止まった。「わが家この味・中国がゆ」の見出しの横に九販石油社長・福井参郎(さぶろう)」の名。
 僕はあわてて、主催の係長(管野)さんを大声で呼び、すぐ事務所でコピーを取ってくれる様お願いした。記事を持参した方の電話番号を聞き走り書きし、後日福井さんのお話を聞かせて頂き、彼女に昔の職業を聞いたら、昭和37年から57年(1962~82)まで、20年間、別府の中心街・本町で「エトワール」という喫茶店を開いていたと言うのだった。
 御婦人の名は石川恵美子さん、昭和7年(1932)名古屋生まれ。戦時中の疎開で大分県別府へ。そこで知り合った近所の方が福井参郎さん(1923~2010)で、彼女が昭和58年に板橋に上京してからも、電話をくれた親友だった。
 穐(秋)吉敏子さんが16才で別府の鶴見ダンスホールでピアノを弾き始めて間もなくの1946年、「君はジャズピアニストになる才能がありますよ。勉強してみてはどうですか?」と穐吉さんに声を掛け、自宅に招き78回転のSPで、テディ・ウィルソンの「スイート・ロレイン」を聴かせた方が福井参郎さん。「そのレコード演奏が私とジャズの出会い」と穐吉さんが今もステージで話すほど、彼女がジャズに開眼した原点。のちにそのSP盤を福井さんが穐吉さんにプレゼント。それは今もNYの自宅にあると穐吉さん。
 そこから60年後の2006年3月、別府の公会堂で穐吉敏子(カルテット)が彼に捧げた初演の「スイート・ロレイン」を感無量で聴いた福井さん。その打ち上げの席で僕も感激しながら福井さんと記念撮影。なにしろ彼は穐吉さんが別府から福岡に仕事場を移した時、ジャズの教則本・ヴィンセントロペス著を贈ったら、一週間もしないうちに全て書き写したことを知らされ「これは頼もしい!将来が楽しみ!」とビックリしたし嬉しくも思ったと言う。穐吉さん自身も「それに時間を忘れる程熱中し、その時初めて“スイング感”を体中で感じとれる様になった気がしたもの」という。そうだ!石コロの川は水の流れもスイングする。

幸遊記NO.199 「坂本健の板橋センス!」2014.11.4.盛岡タイムス
 東京都板橋区・成増アクトホール。10月14日(2014)この日がジャズピアニスト・穐吉敏子さん(85)と娘さん、歌手・フルート奏者のマンデイ満ちるさん(51)が、親子二人だけでの初めての日本公演初日。何と穐吉さんの代表曲「黄色い長い道(ロング・イエロー・ロード)」に半世紀余りを経て、マンデイさんが詞を書き歌ったので、僕はとても驚いた。
 話を遡(さかのぼ)ると、むかし、まだ学生だった、坂本健(現55才)さんという一人の学生が、陸前高田にあった「ジャズ日本列島唯一・日本ジャズ専門店のジョニー」を訪れていた。そのせいかは別として、彼は東日本大震災後、岩手、気仙地区(大船渡・陸前高田)を応援しようと決めたらしい。2012年9月、彼等御一行が、開運橋のジョニーに穐吉さんの夫、ルー・タバキンさんの国際トリオのライブを聴きに来て、「東京では考えられない、素晴らしい演奏光景でした」そう言って僕に差し出した名刺は「東京都板橋区長・坂本健」。
 更に今年5月31日、僕の店で育ったジャズ歌手・金本麻里を都内の「アデロンダック・カフェ」に立たせて貰った時、区長夫妻御一行も現れて、笑み浮かべ席に着くと胸内ポケットから取り出したのは、僕が送っていた案内状だった。飲みながら秋に来る穐吉・マンデイ満ちるの話をしたら、嬉しそうに、翌日にはホールを探してくれたのでした。
 主催は板橋文化国際交流財団。丁度TV東京が「ソロモン流」という番組で穐吉敏子さんを特集したことも重なり、チケットはあっという間に完売した。当日開演前や休息時間には、穐吉さんのワイン好きにあやかり、岩手のワインと葡萄ジュースを、来場者全員に飲んで貰うことになり、岩手県の出先機関・東京の銀河プラザ所長・坂本正樹(36)さん(元・野村胡堂あらえびす記念館の事務局長・坂本安法(66)さんの次男)に電話し、大迫のワインと紫波の葡萄ジュースを500人分用意してもらったのでした。そのおいしさには皆さんが感激していました。
 打ち上げは、池袋サンシャイン60の59階特別室。穐吉さん、マンデイさん、区長御夫妻と区の魅力発信課長、文化財団理事長、係長等14人での会食。そこで区長が穐吉さん、マンデイさん、そして僕にまで区制施行80周年記念の区の鳥花木のロゴ入り扇子を贈呈するセンスの良さに感服!カンパイ!。後日、額入りのステージ写真が3人分届いた。

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