盛岡のCafeJazz 開運橋のジョニー 照井顕(てるい けん)

Cafe Jazz 開運橋のジョニー
〒020-0026
盛岡市開運橋通5-9-4F
(開運橋際・MKビル)
TEL/FAX:019-656-8220
OPEN:(火・水)11:00~23:00

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幸遊記NO.213 「柿崎倫史のスムースバンプス」2015.2.10.盛岡タイムス
 2002年12月、当時ダイエー(現・モスビル)で食材を買って店に戻ると、若い男がピアノを弾いていた。それが柿崎くんとの最初の出会い。彼は岩手大学の一年生だった。翌2003年フルアコと呼ばれるジャズギターを持って現れたのは、当時岩手高校に通う中村慎くん。
 一緒にやってみたらと言って出来たのが、一番年下の慎くんをリーダーとする中村慎カルテット。中村慎(ギター)柿崎倫史(ともふみ・ピアノ)遠藤大作(エレキ・ベース)川口幸宏(ドラム)という十代後半のバンドが出来て、僕の店で毎月演奏して注目され、IBCラジオで特集され評判になったが、一身上の都合?で中村がバンドを退いてしまった為、ピアノの柿崎がベースの遠藤と岩大後輩の三ヶ田伸也(ドラム)でニューグループ「スムースバンプス」を結成。2004年9月26日の再スタートとなった。
 このバンドのテーマは「ジャズ・スタンダード・ブック」にある全曲を、今月はA、来月はBで始まる曲を順繰りに演奏するという様に、毎月違う曲に挑戦するもので、トリオに時折サックスなどゲストプレイヤーを入れたりし、大学を卒業するまで続けた。2007年11月のライブには、密かに練習していたという、穐吉敏子さんの「ロング・イエロー・ロード」を演奏して、僕を泣かせもした。
 卒業後数年間、僕が薦めた東京の小さなレコード会社に務め、会社を軌道に乗せてから離職し、岩手で音楽教師になりたいと戻った。岩泉中学で臨時教員としてスタート。本採用で宮古一中の予定だったがあの大津波。結局実家に近い、盛岡市の黒石野中学で音楽を教えることになって丸4年。「今年2015年3月、初めて丸3年教えた150名の卒業生を出すのです」と、くりくりした目を輝かせて僕を見た。
 大学時代のジャズの生演奏。その後のレコード会社での様々な経験が「教える時に自分の背中を見せれる音楽人として、生徒をいざなうことが出来る。先生が憧れていることに、生徒をあこがれさせれば、引っ張らずとも、自分で歩き出し、伸びてゆく。だから音楽をよく聴きなさい。好きな音楽を持ちなさい」と、生徒たちに言い聞かせているのだという。僕の店の立派な卒業生なのでした。おめでとう!.

幸遊記NO.212 「大場冨生のジャズ版画」2015.2.2.盛岡タイムス
 「メモリーズ・オブ・ユー」というタイトルをつけた木版画のカレンダー・2015年度版を持参してくれた、版画家の大場富生さん(66)。1月の絵は11コマからなるマンガの様な酒とバラの音楽シーンを盛り込んだ作品、これは1981年の岩手芸術祭版画部門で奨励賞を貰った初出品作(以後連続出品)。10年後の91年に同祭大賞を受賞。
 初で思い出すのは、僕の唯一つの小説「瑠璃色の夜明け」の表紙に彼の作品を使わせて貰った事。あれからすでに20年。年月の過ぎ去ることの早さに驚かされる。あの一冊で、僕は2013年に出版された「東北近代文学事典」に当選?して、名前が載った。ありがとうお蔭様。2003年穐吉敏子ジャズオーケストラの日本ツアーポスターもでした。
 大場富生さんの版画は一見して彼の作品と分かる印象深さがあることから、幾人もの方達が彼に名刺を作って貰っている人気ぶり。1996年「賢治のトランク」(河出書房新社)、2002年「夕焼けこやけでジャズが鳴る」(函館工藤)、2013年「果てもない旅」(晶文社)と三冊の出版。そういえば、僕の店に飾ってある盛岡の観光ポスター(3部作)は、2004年「日本都道府県観光ポスターコンクール」(国土交通省)で「金賞」を受賞したものでした。
 大場冨生(本名・富生)1949年、盛岡仁王新町生まれ。盛岡四高卒後上京。マンガ「空手バカ一代」のモデル大山倍達にあこがれ、当時流行ってたキックボクサーになったが、網膜剥離により引退した。そこでボクサー一辺倒だったことに気がつき、師が言っていた「文武両道。絵を描いたりすることも大事だよ」の言葉を想い起こし「もう一つの格闘技」絵や版画を始めたのでした。「展示会場は四角いリング。ボクシングをやる気持ちで、これしかない!と、自分で自分を律して挑む。時には人格さえ変えて人前に出るのだ」とも。
 そんな彼の心の置き処は音楽。47才からトランペットを吹き、ギターを弾き語ってみて、その表現の深みにはまり猛練習。最近は個展会場でライブも行う「唄う作家」の異名を持つ。時折僕も彼にギターを持たせて店で唄ってもらうことがある。居合わせた人は、彼独特の、ちょっと黄昏た男の哀愁感が漂う版画の様な音楽と歌に、皆魅せられてしまうのだ。

幸遊記NO.211 「岩間正男のカワトク・レリーフ」2015.1.26.盛岡タイムス
 盛岡城跡公園(岩手公園)下の岩手教育会館が今年の夏、解体されるという記事を見て頭に浮かんだのは、1992年に陸前高田でジャズ喫茶をやっていた僕が、ニューヨークの穐吉敏子ジャズオーケストラを教育会館に呼んだ日のことと、昔日の同会館ホールロビーのまるでオーロラの下で、七夕の日に天の川を見る様な短冊群に心奪われたことの二つだった。
 そしてもう一つ美しかったものが消えていることを想い出しました。それは、パルクアベニュー・カワトクの正面入口から空に向かって飛んでいた、あの色とりどりのとりたち。その群れなす姿の美しかったことは今もしっかりと頭の中にある。あのレリーフを制作したのは、画家でもある造形作家・岩間正男さん(1926~2013)だった。
 彼は大槌町出身で、武蔵野美術学校(現・同美大)卒で新象作家協会創立に参画した人。アメリカやメキシコでの活動を経て帰国後、学校、図書館、市民会館、デパートなど、公共建築物を中心に石や金属、陶板などによる外壁を含めた空間装飾を多数手掛けた。「絵から造形へと発展していった自分の表現が、仏教の自然四大原則“地・水・火・風”に、自分が自然とそれに向かっていたということに気がついた。それで今は意識的にやっている」。そう言っていた彼。
 絵を描き仕事とすることになった原因は「1945年(昭和20)10月5日海岸の上から見た松林が灰色の螺旋の様に見えてビックリしたこと。自然が持っている不思議な力、その偉大さに感動したことからだった」。アメリカからの帰国後仕事もなく収入がなかった時、奥様が仕事に出て、そのお金で彼の絵を買い上げ、彼にお金を渡す。そのお金を今度はこれで生活せい!と言って返す。(まるでゴッホのようだと思った僕)そんな時代もあったのだと話してくれたのは1988年。まだ新幹線が上野発だった頃、上野駅で偶然お会いして、お酒と食事を御馳走になったこともあった。
 「鉄の作品の場合腐食するだろうから、残すかどうかは大事だと思うかどうかだからね」は彼の言葉。川徳は2004年1月末、その飛ぶ鳥たちを落としたけれど、一階軒下に羽を広げる黒鳥たち240羽は、今も生息し黒字?に導き続けている。

幸遊記.NO210 「佐々木貴の幸せジャズソング」2015.1.19.盛岡タイムス
 時折、開運橋のジョニーに顔を見せては、ニコニコとビールを飲んでくれる久慈市の佐々木貴さん(54)が、先日、たまたま居合わせた玉澤裕子さんのピアノで、夜が美しい調べのように語りかける「マイ・フィーリッシュ・ハート」を唄い、僕は彼に呼びかけられた様な気になり話を聞いた。
 彼は北上の黒沢尻高校時代に吹奏楽でアルトサックスを吹き、店で見つけたアルトサックスを持った外人(アートペッパー・1925~1982)のレコードを買って聴いたのがジャズとの出合いだった。東洋大学国文科に進学してからも、フュージョンのサークルにまぜてもらい、当時全盛だった渡辺貞夫さんのコピーをしたりしていたという。それこそ、アートペッパーに関しては、最後の日本公演(1981)も東京で聴いたと誇らしげだった。
 野田、山形、大野、普代、夏井、宇部中で教え夏井一中時代、出向で日教組執行員として上京。臨時教員の待遇の改善、非常勤の常勤化などを訴えに文科省に言いに行く役を荷負っていた時に震災が起きたのだったという。秋田経由で久慈に物資を運んでいた時、開運橋のジョニーで飲んだ酔仙の酒(最後の一本)の記憶は消えずに今もあるという。
 久慈のアマチュアビックバンド「ブルー・ノーツ」には、彼氏も奥さんも娘さんも参加していた程の音楽一家。今彼は連合岩手の県北地域協議会で岩手教職員組合九戸支部に所属しながら協議会議長を務め、最低賃金の底上げ、非正規労働の賃金上げ、労働条件の改善、正社員化への要望、条件などの取り組みに頑張っている様子。
 学校の子供達には「正しいこと、間違っていること、それをちゃんと見抜く人になってほしい。そのために、いろんな勉強があるのだから!」という想い。2001年10月24日、久慈市民会館で穐吉敏子さんのジャズピアノを聴いた小学生の娘・道子さんは今、大学で哲学を学び「中古レコード店で、ジャズを掘り出しはじめたので話が弾む!」と、父親の貴さん。娘さんのリクエストに応じて、自分のLPレコードをせっせとCD化して送っていることなど、嬉しそうに顔をほこらばせながら、幸せな話を僕にしてくれました。

幸遊記NO.209 「青木明のスポーツオーディオ」2015.1.12.盛岡タイムス
 忘れられない音というものがある。昭和40年代、とある一流オーディオメーカーの仙台支店に勤めていた方(名前失念)の住居に招かれ、聴かせてもらったレコードの音。あの時の音が瞬時にして甦った音に出会って驚いたのは昨、2014年10月、東京は板橋のスポーツ店でだった。
 「穐吉敏子・1980・IN・陸前高田」のCDを、都内全ジャズ喫茶を巡りながら、販売も頼んでいた成田隆さんが「照井さんに是非会わせたいオーディオ好きの人が居る」と言って上京の折りに、成田さん夫妻が僕を連れて行った先がそこだった。店の奥脇から通された所はオーディオルーム、一部屋ぎっしりオーディオだらけ。EMT、ガラード、マッキントッシュ、マークレビンソン、などなど一流ブランドのヴィンテージものの名機と、数多くのカートリッジ群。使われていたスピーカーは何と40数年前に聴いて、いまだ忘れずにいた音の、ゴトウ・ユニット。それにアルテックウーハーをプラスしたもので演奏家達がそこに実在するかの如き響を伝えてくれる、実に心地のいい音なのだった。ホーンの鳴きをアスファルトで消した4ウェイマルチシステム。アナログレコード、プレイヤーやカードリッジを次々取り替えては、様々なジャズを聴かせてくれる、極上のひとときを過しながら、心に残っている音というものの確かさをあらためて実感させられた。話を聞けばもう40年以上も使っているという。
 店の名は有限会社アオキスポーツ。店主は彼青木明さん(70)。皇室御用達の馬具店として明治期に創業した「青木馬具店」が前身。満州から引き揚げて来た父が「これからは馬具だけではダメ」と銀座でスポーツ店を営んでいた叔父のアドバイスで始めたスポーツ店。明さん30才の時、その父に「これからはお前がやれ」言われて以来「自我をを出さず、お客様の言葉に耳を傾け、客観的立場で接して来たことから今日がある」のだとも。父の仕事の仕方(球友会、山岳連盟、ハイキングクラブ、テニス協会などを立ち上げて事業を軌道に乗せた)を尊敬しつつ、母のやっていたタバコ屋も引き継いでタバコとスポーツを融合させたユニークな店として知られている様子。ご自身は休日の自転車、毎日犬との散歩が体のスポーツ。その愛犬と一緒に聴くオーディオと音楽は彼の心のスポーツなのでした。

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