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盛岡駅ビルのフェザンを訪れたことがある人なら、誰もが耳にしたことがあると思われる駅デパート案内放送。あれをしゃべっている声の主は沼田智香子さんである。3月14日のきょうも僕はその声を聴きに行ってきた。「学生割引キャンペーン」の放送が流れていました。実は彼女10日前の2015年3月4日、54才で亡くなられてしまったのです。
FM岩手開局と同時に始まった番組「オール・ザット・ジャズ」。それを週変わりで担当したのが、当時岩手最古のジャズ喫茶「クイーン」佐々木賢一・店主(大槌町・店は3・11の津波で流失)と「伴天連茶屋」瀬川正人・店主(盛岡市・平成元年3月24日閉店)と僕の「ジョニー」(当時、陸前高田・2001年4月から盛岡)の3人でした。 その開始から数年後に番組アシスタントとして席につき、それを2010年9月に番組が終了するまでの20年余り担当していたのが沼田さんでした。放送中の僕のダジャレに時々反応したりする事はあっても、番組を聴く立場を考えてか乗り過ぎる事無く、それとなくけん制し、ジャズとも付かず離れず、気さくで優しい人柄の中にも気品を漂わせ、自分の気持ちを曲げない信念を貫き通した人でした。 3月9日、盛岡の龍谷寺で行われた葬儀の時、沼田さんが所属するアナウンス会社・パネットの代表・畑中美那子さんが、「岩手の歴史に残る長寿番組“オール・ザット・ジャズ”を担当した“沼ちゃん”」と弔辞で語っていましたが、その沼田智香子さんのご主人・甘竹明久さん(現・読売岩手広告社・社長)が、番組の広告スポンサーを探すなど、裏で妻の仕事を支え続けても来た二人三脚番組でもありました。 その主人・甘竹さんが火葬場と葬儀場で智香子さんとのお別れに参列した人たちに語った「人の死というものが、こんなにも悲しいものだということを、初めて知りました」は、参列した全ての人々の胸に深くしみ渡ったに違いありません。そして「あの2011年3月11日に亡くなられた人々の一人一人の遺族にもこんな悲しみがあったのだということを知りました」とも。 これから彼女は声として心に残している方や録音で側に置いてる人と共にずうっと、幸せに生きていくことでしょうが、智香子さんご本人は、まだ亡くなられた事を知らずにいるのではないかと、僕は感じます。
「はるばる」という3枚目のアルバムをリリースした、笛と太鼓のユニット「朋郎」が、4月8日(水)開運橋のジョニーへ8年振りにやって来る。武田朋子と内藤哲郎、二人合わせて朋郎(トモロウは明日)。過去の音に未来を学び紡ぎ出す和太鼓と篠笛の世界観「どこまでも心地よく人々の胸に届くこと」をモットーに旅で出合う様々なことにインスパイアされて生れた音楽を更なる旅で披露する二人。
その朋郎の友が、盛岡在住で福岡県福津市出身の高田邦生さん(37才・盛岡中央消防署の消防士長)。この3人、実は新潟県佐渡ヶ島の太鼓集団「鼓童」が取り持つ縁で結ばれていた。鼓童の前身、鬼太鼓座(おんでこざ)は、秋田の舞踏集団わらび座出身の田耕(でんたがやす)氏が佐渡の芸能鬼太鼓にちなんで立ち上げた集団だった。あの林英哲もそこの出。 30年以上も前、僕は鬼太鼓座のレコードをよく聴いた。今にもレコードの針がぶっ飛びそうになる凄音で、オーディオのチェック用としても使った記憶が残る。その陸前高田には1989年から続いてる全国太鼓フェスティバルがあり、鼓童も出演したことがあるけれど、高田さんが盛岡に就職した理由は「さんさ太鼓」だった。 さんさ(参差)は「目出度いこの御庭を見申せば四方の隅からサァ黄金湧く」の御門讃めの唄に始まる盆踊唄。その唄数も飯岡、米内など十指にあまり、踊りは太鼓と笛を先頭に右回りの円陣を作り急テンポで踊られてゆく輪踊り。又の名を「そそぎ踊」とも称され、一隊は門付けをしながら家々を順々に踊り歩いた。(武田忠一郎・1892~1970) さんさの太鼓は今ギネスに挑戦するほどの大規模な祭りとなったが、元の輪をくずす行進性にかたくなに背を向け伝統を守り、ギネスの挑戦に参加しなかった唯一の団体、それが「黒川参差」。そんな見応え、やりがい、気骨のある「さんさ太鼓」に高田さんが出合ったのは、彼が大学3年の時。2年間休学して学んだ、鼓童の芸能大学でだった。「さんさ太鼓は教えるが、鼓童の舞台に乗せてはならん」その郷土芸能のかたくなな守り方に惚れ込み、復学した大学を卒業して黒川さんさの会長・松本敏邦氏の門を叩き今に至った。3人の子の父でもある。
明治45年(1912)に日本から、アメリカに友情桜として贈った三千本の苗木が、百年を経た2012年、その桜の名所・米首都・ワシントン・DCで大きな節目の年を祝うかの如く、観測史上最も早く開花した。
その4月「ジャズって何?ときかれると、サッチモの言葉を思い出すの」と1991年の朝日ジャーナルに語っていた、我らがジャズピアニスト・穐吉敏子さんのコンサートを聴く為「ジョニーと行く穐吉敏子への旅・ワシントンDC&ニューヨーク」に皆と出掛けたツアー中、僕らは「ジャズとは何ですかときくようでは、その人はジャズがわかっていない」と答えたサッチモことルイ・アームストロング(1900~71)の自宅だった現・ハウス・ミュージアム(NYの103ストリート)にも行ってみた。 ジャズは個人的な音楽。その「ジャズを語る時、ルイははずせない。何故ならルイは友を呼ぶから!」は、僕のダジャレだが、ミュージアムの受付案内人は、穐吉オーケストラのトランペッターから習っているという若者。生前、自分が決定的な影響を受けたコルネット奏者・キング・オリバー(1885~1938)を最も尊敬、彼の偉大さや敬愛の心情を人々に伝えたルイもまた、今なお世界中の人々に愛され続けている。 自伝で「母・メイ・アン(マヤン)を教会員からヤクザに至るまで誰もが尊敬し大切に扱っていた。いつも胸を張って生き、他の人をねたむことは決してしなかった。私もこの性質をを受け継いだのは、きっと母からに違いない」と語るルイ。「祖母は奴隷だったの」と、ルイの妹・ベアトリスは別の本で明るく語る。 桜が米国に渡った12年末12才のルイは、ピストルを放ち少年院へ。そこで習ったのが様々な楽器と、コルネット。日本へは1953年、63年、64年と彼のオールスターズで来演。自宅庭の片隅には池もあり、赤い錦鯉が泳いでいた。そこにはジャパンテイスト・ガーデンとあり、居間には現在も僕が使っているデュアルのプレイヤー、マランツのアンプがセットされていてビックリ!レコード棚には、自分の唄や演奏の他、マリアン・アンダーソン、ベッシースミス、W・C・ハンデイ、ビックス・バイダーベック、チャーリー・クリスチャン、ガーシュイン、ラフマニノフ、等の名が読め、それだけでも彼の心根がよくわかり、胸が熱くなったのでした。
「富士通コンコード・ジャズフェスティバル・イン・ジャパン」や、「100ゴールド・フィンガース」などの日本ツアーに、1994年から2000年までスタッフとしてかかわり、穐吉敏子ジャズオーケストラとも旅をした“アキヨシ”こと鈴木明義さんは、根っからのジャズファンであり、サックスプレイヤーである。
彼は愛知県豊川市生まれ。高校時代にフュージョンにはまり、愛知大学(法学部)に入ってからはジャズ研究会に入り浸って人生を踏みはずし?て、女性と秋田へ。そこでジャズライブハウス「キャット・ウォーク」にマネージャーとして16年勤め、ある時、ジャズも会話も同じ人間同士でのコミュニケーションの取り方の違い。そこに気付き、NTTに入社。2011年秋、盛岡勤務となった。ジョニーに現れては、僕に最大限の敬意を払い、ライブやセッションにテナーサックスを持って来て加わった。サックスが膨らむ程いい音を出せる人は中々居るものじゃないが、彼はそれを軽々とやってのける「怪物」だった。本物の音を間近で聴き体得の努力を惜しまなかったであろうことは一聴して判断出来た。プロにならなかったのは?彼が笑いながらいう「ノンポリシーだから」。 だから?か、自分のポリシーを貫き通してジャズに生きる穐吉敏子さんに、僕と同じ思いを抱く。「ステージが上の人。僕のなかには、日本人では居ない人。独特のアイディンティを確立した人。だれに対しても平等。私はこれであると表現し、自分の音楽で生きている人。考えている領域の広さが違う人。1950年代、アメリカにあこがれた日本人コンプレックスを克服した人。それであの“ロング・イエロー・ロード”(黄色い長い道)を聴くとジーンとする訳ですよ」とトシコ賛論。 その穐吉ツアーでの印象に残ったこぼれ話をひとつと、聞かせてくれたのが「穐吉さんの故郷・大分県に凱旋コンサートで行った時、日本三大八幡宮の宇佐神社に寄って、オーケストラ全員でお参りした。その時、玉砂利の上を歩く音がJAZZミュージックの様だと誰かが言ったら、すかさずベースマンが、「ここはUSA・GOD!!ジャズの神様がいるところ!」と(宇佐とアメリカ)を引っかけたシャレで皆を笑わせたという。ドンドハレ!さすがNTTコミュニケーションズ青森センター長のアキヨシさん!!聞かせますね!
今年から、ブルーバード・シルフィーのハンドルを握っている。コロナ・エクシブという中古車に10年乗って僕が16万キロ走ったら太陽燃え尽きコロナが出ず泣き別れした。どちらも初売りで買ったのだが、店も10年前と同じ。担当者の遠藤忠臣さんは「一時会社を辞めて、戻ってきたら、又、照井さんが僕から買ってくれて嬉しい」と泪目。盛岡ナンバー・1424。かつて四十四田ダム近くにあった僕のカレー店「1244」と重なった。
ブルーバードで浮かぶ曲は「青いカナリヤ」カナリヤで思い出す歌詞は「うたを忘れたカナリヤはー」で、頭の中には「奏家(カナリヤ)は唄を忘れず、歌手は奏者を忘れず!」とダジャレが浮かぶ。新宿のジャズスポット「J」(1978年開店)のバードマン・幸田さん(タモリの親友)は、いつもニコニコ。サックスも吹く、幸せな鳥男(バードマン)さん。 サックス吹きのバードマンと云えば「バード」と呼ばれたチャーリー・パーカー(1920~1955)。ディジー・ガレスビー(1917~1993)等と共にビバップ・スタイルのジャズを創出した第一人者。NY在住のジャズ・ピアニスト穐吉敏子さんによる「彼のアパートからサックスの音がしないのは、彼が留守の時だけだったそうですよ。それだけ猛烈に練習した人」との話を思い出す。その穐吉さんの「1980・in・陸前高田」のCDを昨2014年に僕が発売したら、バードマン・幸田さんが6月24日付「赤旗」日曜版に紹介記事を書き、開運橋のジョニーまで来てくれたこと等、とても嬉しかった。 チャーリー・パーカーが、何故“バード”と呼ばれる様になったかは、1940年、テキサス州へ車で公演に出でかけた時、一羽の鶏を轢いた。その時パーカーは両手で頭を押え金切声をあげ、引き返して鶏を拾い、包んでホテルに持参し、フライドチキンにして貰い、それを食べたという。以来、彼は“バード”とか“ヤード・バード(ニワトリ)”と呼ばれる様になり「ヤード・バード組曲」などバードにちなむ曲をいくつも作曲演奏した。1949年には「バードランド」というジャズクラブがNYにオープン。彼が亡くなる一週間前1955年3月にもそこに出演していた。そんな話をジャズ講座でしゃべったら、菊地章子(のりこ)さんが「それこそが命の尊厳というものですよ!」と言い、僕を含め皆を感心させた。 |
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