盛岡のCafeJazz 開運橋のジョニー 照井顕(てるい けん)

Cafe Jazz 開運橋のジョニー
〒020-0026
盛岡市開運橋通5-9-4F
(開運橋際・MKビル)
TEL/FAX:019-656-8220
OPEN:(火・水)11:00~23:00

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幸遊記NO.592 「クラウドファンディングのスタート」2022.5.30.盛岡タイムス
 昨2021年7月設立なった「特定非営利活動法人・穐吉敏子ジャズミュージアム」は、只今建設中の盛岡バスセンター3階に出来る「ホテル・マザリウム」のロビーに、今秋の11月3日オープン致します。昨秋よりご寄付の呼び掛けをしてまいりましたし、又、今春2022年5月24日より、ミュージアム設置とコンサート資金となるようクラウドファンディングがスタート致しました。(https://camp-fire.jp/projects/view/569184)
穐吉敏子(あきよしとしこ・1929年12月12日満州生まれ。NY在住の現役最長老のジャズピアニスト・作・編曲家)グラミー賞にノミネートされること14回。1980年DB誌・国際批評家投票並びにファン投票に於、作曲・編曲・ビッグバンドの3部門で世界の頂点に立ち、‘81年NYジャズ賞。’86年ニューヨーク100周年自由の女神賞。‘99年国際ジャズ名声の殿堂入り。’04年ウーマンジャズ賞。’06年米国最高名誉NEA(米国立芸術基金)ジャズマスター賞。JFKS(米国立ケネディセンター)ジャズの生きた伝説賞。‘18年米AA財団ジャズの生きた遺産賞。などなどを受賞。日本に於SJ誌ジャズディスク大賞の金賞、銀賞、特別賞。南里賞。(‘97年)紫綬褒章。’99年横浜文化賞。‘00年東京都知事文化賞。’02年NY日本商工会議所栄誉賞。‘04年旭日小授章。‘05年朝日賞。’13年NHK放送文化賞等々沢山の受賞歴。
 それらの中からアカデミー賞ノミネーション盾などはじめ、その他諸々数十点も盛岡に頂戴しているとき、穐吉さんが「2~3日前に、石塚さんがお亡くなりになったそうです」と言った。その石塚(孝夫)さんとは「オールアート・プロモーション」という海外からの呼び屋さんで、かつて穐吉さんのオーケストラを日本に呼んでくれていた方。僕も何度かお世話になった。
その最初が1984年の「穐吉敏子・ニューヨーク・ジャズ・ビッグ・バンド」。当時のジョニー後援会長だった医師の鵜浦喜八氏は「陸前高田市にとっては、かつてない大事件であり、市民が世界の檜舞台に進出したことを意味する、この上ない栄誉」と歓迎のことば。今度、ミュージアムになる横浜「ちぐさ」の吉田衛氏は「こういう方(穐吉さん)が日本から生まれたこと、そして多少なりともこの方と知り合ったことを誇りに思う」。そして石塚孝夫さんは、「北海道、東北で唯一、このビッグバンドを呼ぶ皆様のパワーには、只々驚くばかりです」。そう言ってくれたことが、今日へと続く力(パワー)の源的一言となったのでした。

幸遊記NO.591 「デュークと穐吉のジャズファン」2022.5.23.盛岡タイムス
 48年前の1974年5月24日。アメリカの産んだ偉大な音楽家ジャズピアニスト、作編曲家、ビッグバンドリーダー・デュークエリントン(エドワードケネディ・エリントン)が亡くなった。実はその2日前、今にして思えば、まるで彼のバトンを受け継ぐかの様に、作編曲、ビッグバンドリーダーとしてジャズピアニスト・穐吉敏子さんがアメリカロスアンゼルスにて、デビューコンサートを開いたのでした。それに先立ち4月にはその「秋吉敏子・ルータバキン・ビッグバンド」の初レコーディングが成された。それは以後30年続くことになったデュークのような前人未踏のオリジナル曲奏オーケストラ。
 そのレコードこそは初めて穐吉さんの音楽と出合い今日へと続く僕の穐吉敏子への旅の物語の始まりとなった「孤軍」だった。その74年デューク亡くなった時、穐吉さんは「さよならデューク・エリントン」という手記をスイングジャーナルのイヤーブック「‘75モダンジャズ読本」に寄せている(“終末から”第8号、筑摩書房からの転載)。その文中「ディズニーにデュークが出演しているというので出かけた時、テナーのポールゴンザルヴェス(おじいさん)がステージから私の顔を見つけ近づいて来てよろめきながら演奏し続けた。彼のその動作で私を見届けたデュークは、曲が終わるとステージに上がってこい!と私を招いた」とある。
 そしてデュークの指揮のもとバンドと共にデュークの曲を演奏し終えたら一組の老夫婦が寄って来て「あなたの演奏は30年前のデュークそっくりですよ」と言ったという。いかなる意味でもデュークとは似ていないという彼女がビックリしたのはそのことではなく「30年前のデュークの演奏を記憶の中に鮮やかにしているそのことに私は思わず聞き返さずにはいられなかった。あなたたちはデュークを聞いて何年になるのですか?」と。すると「私は28年間。ワイフは私より長くて36年間のファンです」。その言葉に穐吉さんは「日本にないジャズの歴史の厚みに目まいがする思いだったと。このような人々に支えられこのような歴史の一部である彼デュークを羨ましいとも思った」と。
 今回2022年4月のNY、穐吉さん宅で「あれ読んで僕もずーっと穐吉さんのファンでいよう!と思ったんです」と言ったら「よく覚えていますねテルイさん!50年ちかいファンでサポーターでもある信者を持っているミュージシャンは何人いるでしょうか?私は大変幸せです」「飲みネー!食いネー!」とカンパイして下さいました。

幸遊記NO.590 「強靭なる母の愛」2022.5.16.盛岡タイムス
 2022年4月ニューヨーク。穐吉敏子さんのお宅での話をしていて、穐吉さん自身が92才のこれまで「一度も聞いたこともなく、今初めて知りました」というご自身に関わる内緒?の話を、僕は二つも聞き知っていたという事に、驚いてしまいました。
 その一つは、すでに昨‘21年12月20日付本紙幸遊記「akiyoshi-jazz.com」に書いた「12月12日(昼12時)に生まれたということは知らなかった」ということ。但し「本当の予定日は元旦だったことは聴いておりました」と。
 そしてもう一つは、渡米留学時の日本出発に関する件。スイングジャーナル誌1956年1月号に「秋吉敏子渡米延期」という4行の記事。それによれば「12月30日横浜を出港、アメリカに留学するはずだったが、彼女は健康を害し来春に延期することとなった」と。確かに彼女が渡米したのは、年明けの1月10日夜11時45分羽田発パン・アメリカン機でした。その健康を害したとは一体何?と思いきや「肝臓病の為」と2月号同誌にあった。
 そのことをいつぞや彼女の姉・折田美代子さんから直接聞いた話によれば「渡米する時に敏子は肋膜炎を患っていたため、渡米に際しての健康診断を、敏子に成りすまし、5才上の姉(次女・美代子さん)が、妹(四女・敏子)の洋服を着て3回も診察を受けに行ったのだという。「お医者さんはどうやら本人じゃないって判ったらしかったが、見過ご(逃)してくれたんですね」と。
 その時、母・アキさん(当時・59才)は敏子の身代わりにさせた美代子に「子供の為なら母は、いつでも死ねるのよ」の覚悟。「母はそれほど敏子をアメリカに行かせたかった!勉強させたかったのよ」と、命懸けで敏子を送り出した母の強靭(きょうじん)な愛。
 その発端は1953年秋、オスカーピーターソン(p)が東京で発見した敏子を録音して帰った彼のボス・ノーマングランツ氏が全米でレコード「TOSHIKO」を発売。それが評判になって、米ダウンビート誌のナットヘントフ氏がバークリー音楽院に掛け合い、学費免除の奨学生としての渡米。それはペリーが日本の「邪図」を「JASS」の国アメリカに持ち帰って、ちょうど100年後のことであった(邪図とJASSどちらもひわいを表すことばであった)ことから、のちにJASSは日本語の響からJAZZになったのです。どんとはれ!

幸遊記NO.589 「運命の黄色い糸」2022.5.9.盛岡タイムス
 4月22日(2022)成田からニューヨークへ向かうユナイテット航空機内での約13時間、眠れずに、穐吉さんの本「エンドレスジャーニー(終わりのない旅)」(祥伝社刊)を見開きながら、頭の中に浮かんできたのは穐吉敏子さんとの不思議な出会いと、その関係の年月事。
 僕は1967年5月5日(4月20日成人になったばかりの子供の日)に「希望音楽会」というレコードコンサートを陸前高田市民会館で開催。その最終回(74年11月)に穐吉さんの「孤軍」というレコードを持って来たのが、東京帰りの先輩「軍記」さん、それは「秋吉敏子・ルータバキン・ビッグバンド」のデビュー作でした。その音楽と演奏に言い知れぬ感動を覚えて以来、僕は彼女の過去をさかのぼり、レコードを探し求め聴いた。それが今日に至る穐吉敏子さんへの旅の始まりだった。
ところが、僕の30才宣言だった日本列島唯一・日本ジャズ専門店」の大看板を彼女の代表曲、ロングイエローロードをテーマに陸前高田で掲げ、しばらくした頃、大船渡の三浦日出夫さんという先輩から20年分のジャズ専門誌・月刊「スイングジャーナル」の寄贈を受けた。その一番古いのは1963年3月号で表紙は何と秋吉さん(僕はその年の3月から陸前高田の住民となって音楽を聴き始めた)。しかもその6月には岩手県公会堂で2日間「トシコ・マリアーノカルテット」のコンサート(もちろん僕はどちらの事も知らなかった)。更に‘77年2月号は秋吉さんとご主人のルーさんが二人で表紙を飾った。実はその2月とは、僕が日本ジャズを宣言するため、外国盤を売り払った月。
更にグーンと戻って穐吉さんが日本からアメリカに渡った‘56年1月といえば、僕は小学3年生。その書き初め大会、条幅の書で金賞貰ったのが「あきかぜ」。今にして思えばこの時から僕に秋の吉なる風の音が吹き込まれてきたのだ!ということに今、気付いて驚きました。
ならば穐吉敏子さんとその娘マンデイ・満ちるさんはといえば、穐吉さん(母)13才の時、女学校で3年竹組のうたを作曲、同じく娘は13才の時、秋吉のミナマタ組曲の朗唱でデビュー。16才で母・ステージデビュー!娘は16才でフルートでの初レコーディング!更に23才で母・初レコーディング。同じく23才で娘・映画デビュー。そして27才で母渡米。娘は27才に「満月」で歌手デビュー!おまけに親子初共演は陸前高田で68才と34才という親の半分の年(‘98年)と、まさに赤い糸以上ともいえる運命の黄色い糸で(うんめーぐあいに)結ばれていたことがわかりました。なんと素敵な自然の摂理(はからい)でしょうか。

幸遊記NO.588 「2年半ぶりのニューヨーク」2022.5.2.盛岡タイムス
 コロナウィルスの世界感染が始まる直前の2019年11月3日ニューヨーク在住のジャズピアニストの穐吉敏子さんと、ジャズサキフォニストのルータバキンさん「結婚50周年記念パーティー」に、僕等夫婦もご招待されて、アメリカに行って以来、この2年半ほど、岩手から一度も出ることなく、誰にも「来て!とも言えず、来ないで!とも言わず、只ひたすらの店守り」。
 ところが、遂に又、ニューヨークへと。その訳は、今秋再開なる「盛岡バスセンター」の3階にオープンする「ホテル・マザリウム」そのロビーに開設する「穐吉敏子ジャズミュージアム」について、事業関係者5人「盛岡ローカルハブ(株)」の総括参事・菅原隆彦氏。バスセンターの設計者「株・ワークヴィジョンズ」の代表・一級建築士・西村浩氏。プロジェクトの総体的プロデューサーで「株・オガール」の代表・岡崎正信氏。そして僕「NPO法人・穐吉敏子ジャズミュージアム」の代表。更に、「株・石川ピアノライン」の代表・石川章氏とで、これまでの経過報告、並びに穐吉さんと事業関係者の信頼関係を構築する。という目的の元、ご提供下さるという年代もの(1800年代)のスタインウェイピアノの運搬計画、そしてミュージアムオープニングコンサートの日程の打合せに穐吉さん宅におじゃまして来ました。
 先ずは穐吉さん(92)は元気でしたが、数日前ギックリ腰になったと歩行が大変そうでした。原因は「マッサージ師を呼んでの後遺症」だと、ご主人のルーさんが言っていると穐吉さん。「本当は皆さんにジャンバラヤ料理を作って差し上げるつもりでしたので残念です」と。出前料理と美味しいワインをごちそうに!そして、これをミュージアムにどうぞ!と、ご提供下さった賞状、盾、記念品などなどと数十点もの展示品を手荷物にして持って来ました。
 その一点一点、品物の重さもさることながら、その文字を見れば見る程、それらに記載されている重量感溢れる内容は、あらためて穐吉さんが戦後10年で米国へ渡り、これまで切り拓いた茨の道程と、その壮絶さをして「自分に厳しいのではなく、自分に優しいのです」と、一人ジャズの國に戦い挑んでもって手に入れた、世界最高賞!と、その証の数々が遂に太平洋を横断して「彼女の母国・日本」(東北・岩手の県都)にそれこそ未来を担う子供たちのために飛んできた不思議さにうちふるえています。

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