盛岡のCafeJazz 開運橋のジョニー 照井顕(てるい けん)

Cafe Jazz 開運橋のジョニー
〒020-0026
盛岡市開運橋通5-9-4F
(開運橋際・MKビル)
TEL/FAX:019-656-8220
OPEN:(火・水)11:00~23:00

地図をクリックすると拡大します


Prev [P.68/125] Next
幸遊記NO.288 「高橋勝親のスイングベースめん」2016.7.18.盛岡タイムス
 岩手県内随一のテクニシャンと言われてきた、ジャズ・ベーシスト・高橋勝親さん(63)が遂に自己トリオ(リハーサルバンド)を結成。その初リハをジョニーで開き、息の合った三者の歯切れ良いグットサウンドで僕を喜ばせた!。彼は現在ビックバンド・盛岡ジャズ・オール・スターズのメンバーとして、いわてジャズなどで活躍中だが、以前は10年先輩のピアニスト・藤原建夫さんのピアノトリオで長年鳴らした腕だけに、解散後トリオをやりたくてうずうずしていた様子。そこで最近ライブシーンで頭角を現してきた高橋秀さんにピアノを願い出て、旧知のドラマー・澤口良司さん(67)と再びのトリオ結成である。
 勝親さんは山形県米沢市の出身とあって、現在の本職は盛岡市玉山区の4号線沿いに2014年に開いた米沢ラーメン“山形屋”の主人である。僕らも澤口さんに連れられ何度か食べに行ったけれど、いつ行っても行列が出来ているのだから、ビックリである。店の玄関口には、オブジェとして本物のウッドベースを立てているのも心にくい。店のカウンター内にはミニコンポ、流している音楽はCDによるジャズ。店はオール木造で板の使い方が面白く、飾ってあるポスターはジャズ・ベーシスト・故チャーリー・ミンガス。ラーメンだけに麺までスイングしていて、とっても美味しい!。
 彼の出身校は2016年創立240周年を迎えた名門の山形県立興譲館高校。中学高校と鳴らしたトランペットやギターで、バンドをやりたくて入ったのが、憧れだった「ブルー・スイング・ジャズ・オーケストラ」のある日本大学。そこでジャズ研究の末、ベースに転向。女子大学祭への出張演奏、夏のビアガーデンでの演奏などなど学生でも十分飯が食えるほどの収入もあった。
 大卒後間もなく父の移住先、玉山村に呼び戻され盛岡で演奏活動。そして父が盛岡に用意してくれた土地、建物を使い「南城」というゲーム喫茶を開店、その後スナック、居酒屋と姿を変えながらも30年間店を経営。その後八幡平市でラーメン店を開業。10年やって現在地へ引越し、彼の奥様とその母がつくる心づくしの味が何ともいえぬ!と評判になっているし、「いらっしゃいませ」の彼の声と接客の仕方もベースとなって大繁盛である。

幸遊記NO.287 「野口久光のグラフィックス展」2016.7.11.盛岡タイムス
 一関ベイシーへ行く「大人の遠足」の日、7月8日(金)朝、岩手県立美術館へ行って来た。本当は僕の店の定休日である月曜日に行ったのだが休館日でトホホ。野口久光(1909~1994)グラフィック展で僕が一番に期待していたのは1975年、RCAレコードから発売になった我らが秋(穐)吉敏子のピアノソロアルバムのジャケットを描いた野口久光さんの原画と、1979年のカウントベイシーオーケストラの岩手コンサート(翌80年開催に延期となったポスター)の原画が見られるのではないか?だった。
 結論を言うと、どちらも原画の展示はなく穐吉さんのはレコードジャケット。カウントベイシーのはポスターの展示でしたが、その左下にあのコンサートの時のベイシーリンゴの写真が、ポスターの付録のように展示されていたのには感激した。それはたぶんにベイシーの菅原さんの粋な計らいによるものだろうと思いながら眺めてきた。
 僕が野口さんにお会い出来たのはほんの数回でしたが、1986年10月13日に、陸前高田市民会館で開催した2回目の「秋吉敏子ジャズオーケストラ」のコンサートの時、僕等が当日用に作ったA4版8ページのパンフレットに野口さん始め、当時のジャズ誌・スイングジャーナル・中山康樹、ジャズライフ・内藤遊人、ジャズ批評・松坂比呂、ジャズワールド・内田晃一氏等、各編集長が穐吉賛メッセージを寄せてくれた。
 評論家の野口久光さんは「在米30周年記念ご帰国コンサートあめでとう」として彼女のアメリカでの活躍を紹介しながら「東洋の小国、日本の若い女性がアメリカに渡り、アメリカ、世界のジャズ界に君臨する最高のオーケストラ、リーダー、作曲家になれるとは誰もが、専門家ですら不可能な夢のようなことと思われていました。しかし秋吉さんはその夢を身を以って現実のものとした日本が世界に誇ることの出来る信念と努力の人」と紹介して下さり、プロデュースをした僕にもおまけの拍手をしてくれたっけ。
 そんなことを思い出しながら、拝見した県美での野口グラフィックス展のすばらしい膨大な作品数とその絵に添えられている野口さんのタイトル文字(レタリング)の素敵さに、心は奪われっぱなしでした。

幸遊記NO.286 「沢口俊雄の世界一・ベイシーりんご」2016.7.4.盛岡タイムス
 毎年恒例となったジョニー企画の「大人の遠足・一関ベイシー行き」が今年(2016)も7月8日12時9分盛岡駅発東北本線上り一関行きで出発することになった。現在16名の申込。これ読んで参加してみたい人が居りましたら019-651-6150まで電話ください。14時頃ベイシーへ集合でも構いません。1度は行っては見たいが1人ではこわくて?行けないと言う方には特に好評です。お気軽にどうぞ!
 ベイシーといえば、カウントベイシーのこと!カウントベイシーと言えば一関ベイシーのこと、カウントベイシーのコンサートと言えば、1980年3月18日の岩手県民会館大ホールでの嵐のような感動と熱狂のコンサートが最高と語り継がれていますが、その時のポスターと「カウントベイシー・岩手県訪問記」をスイングジャーナルにリポートしたのが、映画や音楽評論家の故・野口久光氏。はからずも2016年6月18日~8月21日迄、岩手県立美術館で彼のシネマグラフィックス展が開催中で、7月22日19時からは、同館グランドギャラリーでベイシー・菅原正二さんのトークや久光氏の息子さん野口久和氏と岩手ジャズオールスターズの演奏もあり、参加費無料なので僕も行こうと思っています。
 そのベイシー日本公演ツアーの時ベイシーの菅原昭二(現・正二)さんにカウントベイシーが突然名付けたニックネームが「Swifty」。コンサートを主催したのは「岩手県にカウントベイシーを呼ぶ会」会長はもちろん菅原昭二さんだったが会場が盛岡ということもあって、実際にそれを取り仕切ったのは盛岡のジャズ喫茶ダンテの高橋了さん。そしてダンテに当時通っていた岩手大学と岩手医大に通う学生達と社会人が中心になって全県下を走り回って満席にした凄いコンサートだった。
 ステージのピアノの上には「世界一」という種類の大きな紅いりんごが載っており、そのリンゴにはBasieの白い文字(ステッカーを貼って日焼止めした字)が浮き上がっていた。このコンサート本来なら前年の79年10月14日に開催されるはずだったが、ベイシーがウィルス性水疱瘡で入院の為来日出来ずに延期されたことから10月14日にあわせてベイシーりんごを作り育て3月まで5ヶ月間保存の労をとったのは盛岡市太田の農業・沢口俊雄さんというジャズファンでした。今なお印象鮮やかで、語り草となっています。

幸遊記NO.285 「千葉征彦の艸雲窯群青」2016.6.27.盛岡タイムス
 7月久し振りに聞く気仙語訛りの懐かしい声、電話の主は大船渡市にある艸雲窯の千葉征彦さんの奥さん・かよさんからだった。「昨日から岩手特産品フェアーで川徳デパートに来てます・・・・」で女房・小春と連れ立ち行って見てビックリしたのは彼の変わらなさだった。僕より3つ程先輩だったはず?だが僕よりずっと若く見えた。
 そこで彼の口から出た言葉で2度目のビックリ!あの3・11の時、彼等の家は大船渡市立根町という奥まった場所にあったので無事だったが「大船渡から奥さんの実家のある陸前高田へ向かった時通岡峠から陸前高田の市街地を見た時の光景は、広島に原爆が落とされた直後の写真と同じだった。その時俺は、神はいない!と確信して神社の世話役も氏子も好きな酒すらも、全てやめましたよ!」だった。
 その大自然の絶対的支配力をみせつけられてから、焼き物(陶)は火の魔力を借り、自然に近づく所業なのだとつくづく感じた様子。昔、彼が陶房をかまえた時、艸雲窯の名前の由来をたずねたら「空往く雲に憧れる草です」だった。地に根ざしながらも自由に空を往く雲の様に生きる自分の意思を表していた。
 千葉征彦・1944年生まれ、県立高田高校から千葉の工業大学を卒業し土建会社へ就職したが、社の姿勢に疑問感じて止め、多摩の専門学校映画科へ入学。だが、当時は学園紛争の真っ只中、学校へは通えずバイトで体をこわし帰郷。写真をやったのち、盛岡鋳物組合にて南部鉄器の市場調査や商品企画を担当した。手づくり村立ち上げで、陶に興味を持ち愛知県立窯業専門学校に奥さんと一緒に入学。彼は作陶、彼女はデザインを学んだ。在学中、知人で岐阜の陶芸家・山田正和氏を訪ねたら、学校だけではプロになれないから、自分ところへ来いと言い、2年間で10年分教えたと言われた程、みっちり、窯たきも、織部、志野と自作陶もやらせて貰い築窯を許され岩手に戻った。
 遅まきだった彼の陶芸もすでに四半世紀。千利休の1番弟子・古田織部に端を発する織部焼、その自在な造形と意匠に魅せられた彼は織部の群青で三陸の海を表し、その空に地の椿咲かすはみごとなり!

幸遊記NO.284 「駒幸夫の国連への駒進め」2016.6.20.盛岡タイムス
 「以前お会いした、片山秀光和尚の事をインターネットで見たら、カッサパ音楽の事を書いた盛岡タイムスの記事が出て来まして、電話をしました。駒と申します!6月5日に盛岡へ行って肴町で12時から16時までイベントしますのでよかったら来て下さい!」と電話だった。この日は女房・小春の孫1才の誕生日、昼に祝いのお赤飯を食べてから肴町へ。
 サングラスをかけて三味線を弾き、アメリカンポップスのカラオケに合わせて唄う、駒幸夫さんの震災復興支援ライブであった。彼は釜石出身の歌手で現在はアメリカ在住。三味線の吉田兄弟がでてきた頃、駒さんも三味線ミュージシャン・うたう駒幸夫として再デビュー、ウイスコンシン大学で演奏した時、学会から声を掛けられ8千人のコンベンションで演奏。更に国連の学校で教えて貰えないかと言われ、2006年渡米。あらゆるジャンルの好きな曲を集めて、三味線譜を5線譜の下に書き加えて教える方法を用いたという。
 国連の学校は193ヶ国の大使の子供達が入っている学校で、先生達は無料で教え、夏期キャンプというセミナーで収入を得る方式だったらしいが、緒方貞子国連弁務官に給料のことを聞かれ、無料ですと伝えたところ、日本から国連への支援金を前倒しすることで、その利子で給料が出ることになったのだという。
 彼は高校を中退して芸能界入り、その時の師は、三橋美智也、春日八郎、ペギー葉山などを世に送り出したプロデューサー・掛川ひさおさん。キングレコードで定年を迎え、コロンビアに移り、金田たつえが「花街の母」で出た時、次は君の番と言われたが彼が倒れて終り、自分もやめる決心をした。
 習っていた三味線の方も二代目を望まれたが断って、クラウンから自作自唱の「三陸みなと音頭」駒幸夫(本名・駒林幸雄“さちお”)でシングルデビューしたのは1978年のことだった。その後の「宗右衛門町ブルース」は15万枚のヒットとなったのだったが、いつの間にか師の遺志ともいうべきプロデューサーへと転身、東京中のレコード店を全部歩いてあの瀬川瑛子の「命くれない」をヒットに結びつけたのでした。
 津波にさらわれた母の形見の三味線で教えた沿岸の子供たちをニューヨーク国連シアターで演奏させたいと明日の夢語る。

Prev [P.68/125] Next
Copyright (c) 2005 Jazz & Live Johnny. ALL rights reserved.