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2005年6月から2008年4月までの年6回3年間発行された、紫波町手つなぎ情報誌「サロン・ド・紫波」という町内全戸配布紙(A4・4P)がありました。その発行途中の2006年の2月、同町在住の作家・三島黎子さんから、照井さんも紫波町民になったのだから、編集、製作に助力願えないかなとのお葉書を頂戴したのがきっかけで「ひと紹介」欄で8名の町内人を書かせて頂いた。
その編集の中心人物だった瀬川正子さん(共同園芸社長夫人)に「かとうじ山という紫波町を一望出来るところがあるから行って見ない?」と言われ、連れて行って貰った場所が何と共同園芸が経営している「ビューガーデン」。そこは紫波の先人・藤原嘉藤治が開墾し、高村光太郎が「天然の舞台」と絶賛して長編詩を書いた場所だった。そのことから、社長ご夫妻は「かとうじ山の音楽会」という子供劇やコーラスなどのつどいを毎年開いていた。(いる)。 その芝生のなだらかな傾斜地に立った僕は、かつての陸前高田市で1985・1989年の2度っきりではあったが、マーサ三宅や、穐吉敏子ジャズオーケストラをメインにオリンピックのように4年に1度の一大イベント「日本ジャズ祭・イン・陸前高田」を開催した経験から、この絶景の地に、流行とは対極にある真に実力あるミュージシャンで、僕の店に出演経験のある人達に参集願って始めた催しが「いわて・あづまね山麓・オータムジャズ祭・イン・紫波ビューガーデン」であった。開演から終演まで6時間、東京中心のプログループと岩手在住のミュージシャンがこの祭のために新設された芝生のステージでの共演。そのスリリングで楽しく、そしてレベルの高い演奏を聴き、日本詩人会議の照井良平さん(花巻市)は「紫波平野にジャズを告げる平和の飛翔」と無数の秋アカネが稲穂の上を飛ぶ様をジャズ詩にした。それは延べ、10年間100組440人にのぼる出演。 野外フェスは冠スポンサーや広告料、補助金などを投入してが普通だが、このあづまねは無冠無補助無広告の民間力。関わる人全ての中にあるボランティア精神のたまもので成立し、野外で気になる雨や日光対策で参集者全員をカバーするテントまでも用意。このことだけでも日本唯一の野外フェスなのですよ。それにピアノの貸し出し、運搬、設置、調律、撤収まで自主完遂する入魂の「石川ピアノライン」これとて無二!感謝感激ありがとう!ありがとう!
9月4日ファイナルステージを迎える第10回オータムジャズ祭・in紫波ビューガーデンに、地元勢のヴォーカル代表として出演する熊谷絵美さん(36)は、去る8月7日に行われた、第27回「盛岡大通・ビック・ストリート・ジャズ・ライブ・フェス」(開運橋のジョニー・盛岡大通商店街協同組合共催)に出演し、高橋秀ピアノカルテットで、素敵なトークを交えながら歌った。
たまたま盛岡に来ていた兵庫県のジャズファンが立ち聴きしていて、ジャズ祭のチラシ配りをしていた僕に彼は「いろんなところで、ジャズを見聞きしてきたけど、盛岡のストリートジャズは、相当レベルが高いですね。しかもこの歌手の唄にはメチャ感動しました」。その熊谷絵美さんは1982年1月生まれの36才。小学生の娘さんを持つ母親でもあり、小学校の教師でもある。中学から曲も書き始め、高校でバンド活動をやり、岩手大学生の時からジャズを歌い始め、開運橋のジョニーでMrBⅢこと鈴木清勝のオルガンをバックにステージデビューしたのが2002年6月29日。「明日に架ける橋」「アメイジンググレイス」などが今も印象に残る。 03年に彼女はオリジナルバンド「オリーブ」を結成。このバンドで、2005年僕が企画した、T・STEP・BATTL・IWATEKENのCDに「MAMAMIA」を入曲。(ちなみに彼女の弟・友宏君もピアノソロでオリジナルのJAPANを入曲)。同年、「ジャズ批評誌」11月号特集「女性プレイヤー最前線」にて,美しきジャズ・プレイヤーたちの活躍(表紙・穐吉敏子)に、ピアノ、作曲、ヴォーカリストとして登場した熊谷絵美さん。 2014年には、写真のような名刺代わりの1枚として、ジャケットを着せない裸のCD「WHAT’S NEW?」を滝沢市のグリーン・レーベル(小林道夫代表)からリリースした。かつての古い友人だった熊谷利春さん(2003年4月18日亡)から、出来れば娘を歌手にさせたいと言われたことがあったことから、僕は当時店に出演していたピアノの藤原建夫さんのトリオやバンドで歌い育てて貰ったことが始まりだった。 今では小林ゆうこさん(vo)の教えのたまものか、自由自在なアドリブスキャットを聴かせる成長振りに僕は心からの拍手を贈りたい!。と思う。
来る9月4日(2016)10回目の開催を迎える「いわて・あづまね山麓オータムジャズ祭」。この催しに第2回目の2008年から出演してきた「トリオ・リバー」というジャズバンドがある。リーダーはカワイ音楽教室で子供たちにピアノを教えている瀬川真弓さん。ベースは滝沢市大釜で「オーデオ・ベースマン」というオーデオショップを経営している細川茂雄さん。そしてドラムの瀬川峰雄さん(62)はピアニスト真弓さんのご主人である。
3人の苗字に川がついていることから名付けられた「トリオ・リバー」このバンドが活動を始めたのは開運橋のジョニーでだった。彼女は昨年母親となった僕の女房・小春の娘がまだ子供だった頃にピアノを教えてくれた先生。ご主人の峰雄さんは、かつて日本を代表するドラマーの1人で、来日した数多くのジャズマンや歌手たちと共演した経歴を持つ故・小津昌彦さんの1番弟子だった人。 故・トニーウイリアムスのドラムにあこがれ、小学校で鼓笛隊、中学時代からドラムを叩き、盛岡工業高校を卒業してNECの開発部門に入り21才で工場長代理になったところで、郷里の矢巾町に戻って中学時代の連中とバンド結成した兄の持っていたドラムを叩いた。半年して盛岡八幡町のキャバレー「クインビー」のドラマーだった故・松田年男さんに出合い、入り浸ってはドラムを教わった。 その1年後、同じ八幡のジャズ喫茶「伴天連茶屋」でジャズを覚えそこで小津昌彦氏に出合い、再び上京して彼のボーヤをやりながら基礎から教えられて、新宿の箱バンドで演奏し始めプロになった。2人の兄が叩いていたドラムに感化され、ドラムを始めて、父に「ドラマーになりたい」と言ったら「バカッ!」と言われたが、父は峰雄さんにもドラムを買ってくれたのだったという。 「そうこうして女房と出会って俺の人生が変わったんです」彼は奥さんの実家、紫波衛生社の社長であり、町の名士の1人でもあり、五郎沼の古代蓮を守り広める人なのだ。ジャズは板倉康太郎さんのピアノトリオで26年ドラマーを務め、平行して奥さんのトリオでも10年になる。僕が彼のスティックさばきを見聞する時「眠り狂四郎の円月殺法」の剣をいつも想い出す。もちろん!いい意味でのね!
コンサートのプレイガイド、音楽ソフト、オーディオ機器の販売などで県内一の知名度や売上高を誇っていた、盛岡市大通の老舗「佐々木電気」が閉店したのは2010年2月。僕は仕事柄ショックを受け、他人事ではない思いから、すぐ開運橋のジョニーに出演のバンドやミュージシャン達に声を掛け、大通商店街協同組合のご協力を得て、ささやかな野外(商店街)での無料コンサート「ビックストリート・ジャズ・ライブ・フェス」を企画。
震災のあった2011年も普通にやることだけを基本に、4月から10月まで毎月開催出来たことは、何にも変え難い。そして今年2016年8月7日で27回目、毎回楽しみに聴きに来る人達や僕達にとっても嬉しいのは、昨年8月につぐ、2度目となる将来のジャズピアニスト(子供たち)の出演である。中野綾夏、米澤りりや、米澤ゆりや、三輪暁音、矢幅心、西川さくら、菅原有史の7名。小学1年生から高校生まで、大人達のリズム隊をピアノでリードする様は、聴くはもちろん、見ているだけでも感動ものなのです。 指導しているのは高橋秀さん(57・雫石町)である。彼女の生まれは秋田県にかほ市、小学校からピアノを習い中学ではオルガンに夢中になり、秋田県立由利高校時代には盛岡まで通い、習った先生は、のちに「姫神」となって、一時代を築いた故・星吉昭さんだった。秀さん自身も先生の資格を取得し、ビクター、テクニクス、ローランド、などの教室で教えながら、自らはジャズに挑戦。だが弾けない日々の中でジャズは無理かなと思った時、自分の気持ちとは反対にジャズの人達に引張られてピアノを弾くはめに。 基本のコード(和音)しか知らなかったことから、ジャズとジャズっぽいことの違いを言われショックを受けた。以来好きなピアニストのコピーはじめ、理論、テンション等々を独学で猛勉強。ジャズの好きな父にアドリブのことを聞いたら、「ジャズのピアノだろ、上に行ったら下りてくればいいんだ」の一言でふっきれ演奏自在になった。3年前からは子供たちにも他の人とあわせる楽しさ、むずかしさを覚えてほしいとジャズも教える様になったという。「理由は単に私はジャズが好きだから。弾いて聴かせると子供たちも好き!って言うからね」と素敵な笑顔。ジャズの未来は明るい。
被災の体験や思いを曲に込め、ジャズのCDを制作したという内容の新聞記事を読み、電話で注文。そしたら翌々日CDの演奏者から、僕の店で演奏させて欲しいとの電話があり、ビックリ!まだCDさえ届いていないのにいきなりの出演話に面食らってしまったが、注文受けたのは岩手の父。本人は東京なので知らずに電話で2016年8月9日夜ジョニーライブ出演の申し込みだった。
CDが届き、翌日に封を切り、入っていた請求書の振込先・一般社団法人・槌音へ振り込んで店に戻り、CDを聴こうとした所へ、来店したのは何と、そのCD「TSUCHIOTO」のリーダーでトランペット奏者の臺(だい)隆裕さん(21)。それじゃ一緒に聴きますかとCDを鳴らす。何と「素晴らしいじゃん!」しかも全3曲彼のオリジナルであった。 そこへ来店した花巻のジャズファンでご年配のご婦人、音楽を聴きながら「ええ!これあなたがつくった曲なの、演奏も?」とビックリの様子。そして「ジョニーさんに聴いて貰ったってこと、ここに来たってこと、正解だよ。将来が楽しみだね」と耳がかゆい。 その若干21才のトランペッター・臺隆裕君は沿岸、大槌町の出身(大槌はかつて県内随一のジャズの町だった)。彼は10才の時学校でトランペットを吹き、たまたま音が出たことからハマッて、小中高とブラバンで演奏後、上京して尚美ミュージック・カレッジに入学。本格的に音楽を勉強し、気の合う学生達と共に音楽であの日(3・11)を一生伝え続ける決意を持って「槌音」を結成。 全てのものを失った心の葛藤を、音楽というからっぽの手(空手・くうしゅ)にて描いた曲(Mr)は、僕等演奏者側からの音楽ではなく、聴く人側の想いで聴こえる、その人の音楽となる曲なのです」。高校生の時に東日本大震災にあって、避難所生活を体験しながら、そこでの大人たちの様々な行動を見聞したことから出来た「過去を振り返り、未来を見定め、今を伝える音」の曲なのだという。 臺隆裕(tp.flg)藤井星亜(tb)川満恵一郎(sax)稲荷周佑(p)鈴木芽依(b)浮嶋純一(ds)「明日を迎える勇気。生という温かさ.手のひらに積み上げたものの無価値、それを知る真の価値こそがジャズという音楽だ!」と彼!。 |
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