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大地にどっかりと腰を下ろし、両足を大きく広げ、指で1色の絵を描く自然児の様な藍画家・如水こと菊池武男さんが、2016年6月6日老衰の為亡くなられた(93才と10ヶ月でした)。 群れない、慣れない、頼らないことが大切。世界と太刀打(たちうち)するには個性がなければ対抗出来ません!他人がつくった道は若い時に歩いたからと、後半は自分の意を決し、無欲、無所属、無冠を通し続け、心からのファンを最も大切にした幸せな人生を送った。
2014年5月の連休、僕が企画して開催して頂いた渋谷区神宮前(原宿駅前竹下通り)ギャラリー・ハセガワでの「菊池如水のやまびこ展」そこに現れた天台宗・平林山津金寺の住職・傳田和尚の目前で描いた絵が千手院聲明会で護摩供養され、そこに参列した善光寺の小松貫主さんが、いたく感動され、心順し、揮毫に至った大きな書「鶴亀年寿斉」(旧・漢字)を額装して如水さんに贈り届けたのです。如水さんはその作品を自宅で僕に見せながら、これは盛岡市とっても宝物だな!としみじみと語った言葉が鮮烈に残っている。 2015年11月8日、釜石シーガリア・マリンホテルにて行われた長柴政義さんの「戦災都市釜石から震災復興への挑戦」出版パーティの時に、終戦後に採用になった警察官としての菊池武男さんの初任地だった釜石で、交番所2階に彼が市とかけあって開設した「図書館」。そこに通っていた子供たち、(現、僕等世代)が2人もいて、当時の事を想い出し「あの時のおまわりさん?!」と感激の再会。クリスマスにリヤカーに積んだプレゼントを貰ったお礼に、リヤカーを押す手伝いをしたもの。大人になってから、あいたくて探しましたったと言う。 10年後に転勤なる時、地域の人達から一山をあげるから釜石に残ってくれとまで嘆願されたほど、愛された人だった様です。スイス、中国、香港、アメリカなど様々な国からの個展依頼が舞い込んだ程、彼の絵は東洋を感じさせる唯一無二、油絵の具一色の墨絵の様な日本画、洋画、国際画とも言え、心で評価する人たちに愛され続け、個展にはいつも全国津々浦々から数百を超える人々が見に来ていた。その展示会場でいつも瑠璃色の水の如く手伝っていたのは、娘の高橋るみ子さん、心象いかばかりであろうか、、、、、、。
幸遊記(№272・3/20付)1958年のJAZZ・DAYの事を時折店のお客さんたちに写真を見せながら話すと、皆驚くほど興味を示してくれるので、更にもうひとつ、この写真にまつわる映画の話をすることにした。すると、たいがいの人はその映画は知っている!観た!という。だが、あの映画はJAZZ・DAYの写真にまつわる物語だったことは案外と気が付いていない様子なのだ。タイトルは「ターミナル」、2004年のドリームワークス映画、スティーブン・スピルバーク監督作品である。
映画の主人公・ビクター(トム・ハンクス)が自国のクーデターにより空港から出られなくなるという、あり得ない状況に置かれながら、ターミナルの住人の様な生活?をしながら待ち望んだアメリカ入り。彼が大切に持っていた古いピーナッツ缶の中には、そう、あのJAZZ・DAYの写真、彼の父が生前その写真に写っていた全員にサインを貰っていたが1人だけ欠けていた。その父の意思を継ぎ、東ヨーッロッパのクラコウジアからニューヨークへ飛んで、生き残っている現役のテナーサックス奏者・ベニー・ゴルソン(穐吉敏子さんと同年の1929年生れ)にサインを貰うシーン。字幕翻訳はあの戸田奈津子さん(68才・現80)。 僕の手元に月刊雑誌・「いきいき」2014年8月号がある。「これ本屋さんで売ってない本なんだけど、穐吉さんが載っているから」と、菊地章子さん及川房子さんが持参してくれたもの。そしてもう1冊同本が届いたのは2015年9月4日、本の巻頭には写真入り記事になっている戸田奈津子さん、2015年8月22日のサイン入り。 それは、かつて日本ヘラルド映画社にいた高橋渡さんがご自身の誕生日にジョニーへ持参してくれて、この本に穐吉さんからもサインを入れて貰ったら稀有(けう)な1冊になりますよ!とプレゼントしてくれたもの。2016年5月2日、僕はそれに穐吉敏子さんにもサインして頂き、まるでターミナルJAZZ・DAYのような本当に稀有な1冊となった。 そんなある日に、陽はまた昇るのサンライズマン!彼の手には、な、なんと1995年に制作された、英語版「ザ・グレート・ジャズ・デイ・イン・ハーレム」のVHS記録映画。更に1999年に出版された同名の英語版本。ブックリ!凄すぎ!論より証拠!
僕より5個先輩、店も丁度5年先輩の同業一関ベイシーが開店したのは1970年。その年から90年代までの30年分のスイングジャーナルを持っているという高橋日出男さんに、1年分づつ貸してくれないかなと頼んでみたところ、とりあえず14年分の整理が出来たので持って行きますから、と運んで来てくれ「返さなくていいから、活用してください」でした。ありがとう、ありがとう!
その76年9月号に、全国ジャズ・スポット巡りシリーズ第8回「岩手篇」。一関・ベイシー、盛岡・オスカー、チェック、8-6、伴天連茶屋、パモジャ、北上・タック、大槌・クイーン、花屋敷、釜石・貴族院、宮古・ミントンハウスの11店(現存、ベイシーのみ)。盛岡のパモジャはリッチの跡に出来た店で僕の店より1年後の開店だったが載っていて、ジョニーは没っていたことにガグッ!と来!若かったので逆に闘志が沸いたのを覚えている。 僕はそのスイングジャーナル誌に店の広告を出したことはなかった(出す余裕がなかった)がベイシーは開店時の70年7月号には、名盤レコード「レッド・ガーランドのグルーヴィー」のジャケットの壁写真をベイシーの壁に見立てた印象的な広告を出してのデビュー。そして77年7月号に常連?のベイシー広告と並んで高橋了さんの「DANTE 7月1日正午オープン!」(盛岡市大通1丁目/現・中の橋1丁目)の広告。 その本文オーディオ欄にはジャズ&オーディオ教(狂)祖はかく語りき、と4人のジャズ喫茶店主、その1人、ベイシーの菅原昭二さんは「いい音は硬焼醤油せんべいから生れるのだ」と「奥歯でかじるせんべいの音がアゴと頭蓋骨を振動させ鼓膜のコリをやわらげ一時的に耳の機能を回復させる」と彼らしい考えを書いていた。 又読者の頁リーダーズプラザには、同誌に差し出した僕の手紙に「日本のジャズ再確認」のタイトルがついて掲載されていた。その実力に比して冷遇されている日本のジャズ、これを毎日の糧(かて)として大切にしてゆこうと、発狂的再出発をこころみた。日本人が日本人の演奏や歌を軽視するきらいに対し、政府の日本列島改造論を拒絶した過疎の街、岩手の陸前高田からジャズ日本列島の改造論を提出します。というものでした。
僕が紅い梅をいただく時、必ず頭に浮かんでくることばがある「ひとりで早春の夜更けの寒い時、これをあがって下さい」と造り遺していった人を思いながら口にする梅酒の話。遺した人は智恵子、のんだ人は光太郎。昭和20年4月空襲により中野のアトリエを焼失したその高村光太郎は東京から賢治の弟・宮澤清六方に疎開。その秋から鉱山小屋を移築した稗貫郡太田村山口(現・花巻市)の高村山荘にて自給自足の生活(63才~70才)そこは「雪は降らねばならぬように降り、一切をかぶせて降りに降る」場所だった。
丁度その頃、営林署勤めで、同村湯口の事務所兼住居に住んでいたのが、伊藤洋一さん(昭和23年8月28日生れ・67才)の御両親。仕事柄知り合い、友人となった父から「光太郎さんは伊藤の表札を書いてくれて、洋一を抱っこしてくれた人だよ」と幼き日に聞かされたことを覚えているという。ドブロクを飲みながら、山菜を食べ、特にも喜んだのは「シドケ」。いくら飲んでも足取りは乱れず、東京に行った帰りには懐中電灯を借りに寄った光太郎さんだったらしい。 そんなことからか、洋一さんは奥さんに病気で先立たれた時「なんとなく智恵子の実家を訪ねてみたくなり、行ったんですよ」そういいながら、ドブロクならぬバーボン・ウイスキー「ジョニー・ドラム」を楽しみながら話す映画好き。特にもあの1960年代の大ヒット作「ウエスト・サイド物語」が大好きで何度も見、ニューヨークへ行きブロードウエイでそのミュージカルをも数回見ているマニア。 音楽は「レナード・バーンスタイン」が作曲を手掛け、それこそ「ジョニー・グリーン」が指揮したものだが、」ジャズでは「オスカーピーターソン」トリオや「穐吉敏子・チャーリーマリアーノ」カルテットの名演奏は多くのフアンを掴んだもの!トゥナイトやマリアのメロディが浮かぶ。 この2016年3月、僕等は穐吉敏子さんを追いかけNYへ。そこでそれこそウエストの映画に出てくる鉄製の外階段が残る古くて低いビルを眺めてはウエスト・サイド物語を頭に映し出していた。旅の間中、僕と伊藤さんは同じ部屋で寝起きし、二人で飲み交わし、帰りの空港で彼は息子さん(アメリカ在住)のかわいい孫の顔を見に行く!と別れた。
4月30日(土)2016、東京都板橋区立・成増アクトホール「穐吉敏子・ルー・タバキン・ヴィンテージ・デュオコンサート」は、自由席とあって開演数時間前から長蛇の列!前回2014年10月の穐吉敏子・マンデイ満ちる・親子デュオの時に振る舞い大好評だった一杯の岩手ワイン(大迫エーデルワイン)と紫波のブドージュース付コンサートは今回も大好評!欲しいと言う人の為の販売用も開演前に売り切れる人気で板橋と開運橋の二重橋アーチは見事に架けられたのでした。
その翌日ホテルを出て、帰りの新幹線に乗るまでの数時間女房を喫茶店に待たせお茶の水駅近くの“JAZZ東京”へ、そこで1990年91年に発売された“ジャズマガジン№1・№2”(白夜書房)を発見!確かこの2冊には僕も寄稿してたはず!とパラパラページをめくれば、ありました「鳴呼・日本邪頭専門店」と「不思議な後進曲」。昔の自(字)分にご対面!2冊とも買い求め自己満足気! その足で神保町まで歩き、もしかして!と富士レコード社に入ってみたら、ザワッ!ゾクッ!と身震いするSPレコードに、アッ!という間もなく出会った。それは今年3月あのNYハーレムのジャズミュージアムで聴かせて貰ったテディウイルソンの「スイート・ロレイン」。これは!これは!と今度はサッチモこと、ルイアームストロングのSPを探してみたら、そこにも、な!なんと!あの「ウエスト・エンド・ブルース」、僕は平静心を装いながら平成?の奇跡に打ち震えてのお会計!5月3日盛岡市民文化ホールでのコンサートに前日入りしてくれた穐吉さんに、東京で見つけて来ました!と言ってその2枚を見せたら、彼女は驚きながら、スイート・ロレインのジャケットには「私の最初の聞いたジャズレコード」。ウエスト・エンド・ブルースには「私が最初に買ったジャズレコード」と書き記しサインを入れてくれた。 スイート・・・は1946年別府で故・福井参郎さんから聴かせてもらい、本格的ジャズ演奏への開眼となった彼女にとっての恩人的?レコード。ウエスト・・・は穐吉さんが生れる1年前の1928年6月28日彼のホット・ファイブでサッチモがアドリブを吹き、歌った曲。このレコードを聴きたいが為に娼婦たちの使い走りをした若き日のビリー・ホリディはサッチモを最も尊敬した人でもあった。サッチモとトシコの2人は16才でのプロデビューでした。 |
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