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ジョニーは柿ピーが主食じゃないの?と皆から言われるほど、落花生が大好きである。そのことを知る数少ない遠来客(友人)の武政俊郎さん(62)は様々なピーナッツの加工品を来店の度に持参してくれることから、どの様な加工がなされ様とも、ピーナッツとしての個性が厳然として際立っている美味しさに僕は個性の音楽であるジャズと重ねてしまうのだ。
最近、彼は琴一ペンという、竹製のペンを持参し、僕に使ってみてくれないかなというので、インクをつけながら数百通の宛名書きをした。なんという自然な書き味!。そのアイディア製作技術の素晴らしさにも感動し、上京の折、足を伸ばして製作者のいる小田原へ「ワタナベ工芸」を訪ねた。主は渡辺一夫さん(62)で武政さんとは中学2年の二学期に神奈川県二ノ宮中学への転校生同士だったことから、自然に友達となり、のちにジャズ好きとなった2人!。 武政さんは大船技術高校へ渡辺さんは小田原城北工業高校へと進み、武政さんは35才で転職した金型の会社で特許も取った発明者。渡辺さんの本職は看板屋さん。関連するむずかしい仕事をアイディアでクリアすることから同業者からの依頼が多く来ると武政さん。それは全てを可能にする道具を造るための工具さえ自分で創り出す柔軟な頭と腕の良さのたまもの。仕事柄、絵も描く字も書くことで行き着いたのが、原始的な竹ペンであった。ことの発端はベンシャン(BEN SHAHN)の絵を見て、どんなペンを使ったら、こんなにも魅力的な線が描けるのだろうか?ということだったらしい。 今僕の手元に渡辺さんから頂いてきた10本程の竹ペンや竹筆がある皆それぞれに素晴らしい個性を内に秘める。地下茎竹を用いた筆の書き味などは、えもいわれぬ程だ。竹ペンはペン先のインク溜りが一重二重のものもあり竹軸、銘木軸ともに様々な形状で自然色から漆塗りまで色々取り替え出来る楽しさもあり、竹製ペン立て、竹筒ケース、桐箱ケース、スケルトンまで多種多様で飾り物にしたいくらい美しく魅力的、銀座の文具店で人気という。帰り際渡辺さんが作った盤と駒を見せられ一ばん将棋!予盤中盤で大駒を無償で渡すヘマ2度やり、注意散漫な自分の性格をさらけ出す結果となったが、実に楽しいひとときでした。渡辺さん「照る照る坊主」への巻物手紙ありがとう!うれしかったです。
「田中角栄100の言葉」(別冊宝島編集部)に始まった、田中角栄氏ブームはとどまるところを知らず、店頭には数十冊もの角栄本がうず高く積まれて並ぶ。そんな中「天才」を出版した宿敵の元都知事・石原慎太郎氏と「冤罪(えんざい)」を出版した元側近、石井一氏が語る田中角栄の魅力と功罪がBSフジのプライムニュースとして放送された日(9月13日)の翌14日、東京永田町のキャピトルホテル東急で開催された「冤罪」(田中角栄とロッキード事件の真相・石井一著)の出版記念パーティーに招かれ出席して来た。
冤罪とは“ぬれぎぬ”のこと、根も葉もないうわさや無実の罪をうけることを差すことばである。昭和51年7月27日早朝、外国為替及び外国貿易管理法違反被疑事実で現職の内閣総理大臣が逮捕されるという前例の無い、いわゆる「ロッキード事件」。世論の9割が「有罪」と考えた嵐に抗い、田中の側近として独り田中批判の矢面に立ち、田中を信じて発言する度に叩かれながらも、客観的検証判断をし、冤罪であることを心底信じるに至り、自分の信念に基づいて行動してきた40年の揺らぎない無実実証本。 「日本人としてのプライド、無罪になることを信じ切っていた田中が異常な世論に裁判所が負けた決断(米裁判所にコーチャンらの証人尋問を嘱託、それを証拠採用するに当たって公訴提起されることはないことを宣明した免罪府を捜査段階で最高裁が米側に与えた)ことでの有罪判決に田中の怒りはすごかった」と石井氏が言う。「田中の翳(かげ)に光をあてた石井、司法はきわめて堕落している。裁判ながら馴合いを最高裁がやってしまった!」と亀井静氏。「冤罪を晴らしてゆくために田中ファンは協力し合おう」と二階俊博氏。等があいさつ。田中の日本自主外交でアメリカのトラの尾を踏んだことで、はめられた事件それを「マスコミがバッシングした結果としての世論裁判」は、小沢一郎、村木厚子事件に新しい。 SPレコード時代日本マーキュリーレコードの社長だった石井氏の父。その子、一氏(82)んnはパーティーの後半、バンドを従え、ジャズヴォーカルを披露。これが又演説のように凄いパワーと味があり、最後までいてくれた人が本当の僕のファンだと皆を喜ばした。
戦時中は供出という形で没収された寺院の釣鐘。そんな中で気仙のお寺で唯一没収を免れたのが、陸前高田市・無量山・光照寺の鐘。それは鏨(たがね)で刻まれた六万九千字にも及ぶ経文が刻まれている貴重なもの。あの2011・3・11の東日本大震災の大津波で陸前高田市の中心地の全てが消え去ったが、唯一残ったのも、あの鐘のある光照寺と斎場。その斎場も避難所となり生活の場となった。
あの年、光照寺の住職・高澤公省和尚から「いろんな避難所には有名人等が慰問に来てるけど、火葬場には誰も来てくれないから、マスターが来て、何かやってくれないかな?」と電話があり、同年3月16日に「ホープ・ガール」でCDデビューしたばかりの金本麻里さんと僕とバンドの人達と行って、火葬場の中に並び演奏し歌うのを、皆が涙ながらに聴いてくれたお蔭で僕等は逆に勇気を貰った。 そのはるか以前、寺は鐘楼堂を新築。ライトアップし、その年の大晦日から「六万九千字・梵音衆会(ぼんのんしゅうえ)」を開催。お焚上げと除夜の鐘、修正会(しゅしょうえ)と梵音遊戯(ゆげ)を合体させた催しもので、暗黒舞踏やパントマイム、ドラムやギター、三味線や唄など「一年の心の垢を捨てる心のおどり会」なのですと、和尚が開催した。 それは四半世紀続けられたが「皆年をとったから、盆の日の早い時間に切り替えたので久し振りに来て歌ってくれないかな?」と和尚からの電話で8月20日の夜、寺の研修場「無量閣の一階に、震災後に造った居酒屋風の寄合所にて、津軽三味線の菅原聡さんの伴奏で僕がギターを叩きながら般若心経などを唄う会を開いてくれた。そこには火葬場で聴いてくれた人や、亡くなられた親友の奥さんなども来て聴いてくれて、僕は有難かった。 高澤公省住職(62)は絵の達人で駒澤大学時代から曹洞宗宗務庁が発行する本や小冊子の挿絵を担当してきた人。岩手県の同宗布教師会発行の「てれほん法話集」、新聞での紙上法話「やすやぎを求めて」などへの挿絵と添語は実に楽しい。酒が入ると筆を持ち店の人やお客の似顔絵をさらさらと描くが、それがまた実にうまく、人の横顔のまなざしにこそ、その人がよく現れるもの!と、さすが和尚さんである。
風の噂で県北の岩手町にジャズの店が出来たと聞いたのは1989年の秋。早速僕は当時小学生だった娘を車に乗せて県最南東端の陸前高田から出掛けて行った。国道4号線脇、ちょいと高台の振興地?にその店「パイン・ウッド」はあった。店主は松森一三さん(当時は40才・現66才)。店の中に入ると、そこはまるで不思議な街角に紛れ込んだ感覚。多分こんな感じの店は東京にだってないだろうなと思った。僕の来店を事のほか喜んでくれた記憶も残っている。
最近彼から聞いた話によれば、カッコイイ店が沼宮内には無かったから、自分がカッコイイ店で酒を飲みたい!と造った店だったらしい。盛岡からはJCメモリアルバンド。東京からは、世界屈指のジャズ・ピアニスト・故・本田竹曠等が来店した。ところが彼は当時れっきとした県職員(一方井小学校の事務員だった)どうして店など開けようかと思いきや、経営者は母。なるほど頭がいい!。イス、テーブルはイギリスのアンティーク家具、正に彼の趣味の店。仕事から帰って夜には店に立つ二重労働に心臓が悲鳴を上げ、倒れ、6~7年で店を閉じたのだった。 彼の祖父は三平、父は三ノ丞で長男だったことから一三と名付けられたが誕生日さえ、3月30日と3の縁。自分で建てた築25年の家をリフォーム3ヶ月後に自らの不始末で火事で燃やした。新築した家の外観はまるでホワイトハウス。だが中はオールウッド。そう!家だって店を数えて3軒を建てたカッコマン。ファッション抜群。頭サンサン、帽子をのせて意気軒昂!彼いわく!「町会議員に2度立候補し最下位落選した。70才で3度目の挑戦をする」という。僕は応援するものではないが、議会に1人や2人、彼の様な人物が居る方が刺激的で活性化すると思うのだ。 「定年まで学校勤務した経験を持って、町の教育環境の悪さを改めたい。そして、自分たちの街を誇りに思うような子供たちを育てたい」のだと、顔に似合わないことをいう。23才の時50回月賦で買った名車「フェアレディZ」をピカピカに保存し8年前から又乗り回しているカッコよさ!それこそ東北新幹線沼宮内駅は立派だが乗降客数ワーストワン!僕はそれを高らかにうたうことこそ石神の丘に反響し、エコーとなって賑わうのではないかと思ったりする。
先日福島市からジャズファンであり、音楽イベンターでもある松本秀勝さんが初めて開運橋のジョニーにやって来た。手土産は「手のり・うさぎ」上新粉で小豆あんを包み込んだピンクの目をした白うさぎのもちまんじゅう。そのおいしさに、目を丸め製造元を見て思い出したのは、あの不思議な「千貫森羊羹」と同じところ「栄屋」のだった。あの羊羹を2度味あわせてくれたのも松本さんでした。
彼は福島市飯野町青木峠の作という7戸しかない盆地の集落に住み、今どきのパソコンはおろか、テレビも冷蔵庫すらもない、ラジオ生活。食料もその日食べる分だけを買う徹底振り。福島駅から車で20分、冬は一面雪野原、夏は鳥、蝉、虫の大合唱!ハクビシンも出て来て踊るらしい。「夜は満天の星空。本当に宇宙に住んでいる実感が湧いてくるのよ」と。 彼松本さん(61)は50才迄、その空を飛ぶJAL機の整備士さんだった。県立福島工業高校を卒業して上京した頃、成田は闘争の真っ最中で開港出来ず羽田で3~4年働いた。「今でも思うけど関係者から見れば、あそこに造ったのは間違い!都内までは1時間もかかる都合の悪さ!事故の事も考えれば絶対海のそばに造るべきなのよ!」その飛行機(ジェット機)は今、全世界で1日に60万便飛び交っているらしい。 ヘルメットにゲバ棒の連中が機動隊とにらみあって投石するその中を通勤するのは大変だったと振り返る彼。そんな複雑心をいやしてくれたのがジャズ喫茶。ケニーバレルの「ミッドナイト・ブルー」デイブブルーベックの「テイクファイブ」出会って40年余り。先日福島のコミニュティFMでその自分にとってのベスト2曲を放送したという。 「福島・音楽を聴く会」と称し、出張レコードコンサートや野外で聴くレコードコンサート。ジャズライブ主催、世界一の穐吉敏子さんを福島へ呼んだかと思えば、レベルの低さも重要と、UFOの里・サマーミュージックフェスティバルをも開催何でもどんなのでもありの2日間の祭もすでに12回。「国は音楽でどれだけ救われる人がいるかを知ること!音楽家に年金を!ヘリから音楽流し戦争の終結を!音楽は世界を平和にする!」と訴える。 |
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