盛岡のCafeJazz 開運橋のジョニー 照井顕(てるい けん)

Cafe Jazz 開運橋のジョニー
〒020-0026
盛岡市開運橋通5-9-4F
(開運橋際・MKビル)
TEL/FAX:019-656-8220
OPEN:(火・水)11:00~23:00

地図をクリックすると拡大します


Prev [P.65/125] Next
幸遊記NO.303 「渡辺諒の穐吉敏子ストーリー」2016.10.31.盛岡タイムス
 「ジョニーさん!毎日新聞に穐吉さんが載っていたのでお届けに来ました!」と藤井朋子さん(毎日新聞盛岡支局記者)。珈琲飲んで帰った後のメールには「ジョニーさんのおかげで穐吉さんを知れました。新しい世界が広がりました」。記事のタイトルは「S(ストーリー)」ジャズの長い道のり・・・穐吉敏子さんの70年。人欄の拡大版記事的で、第一面中央四段から第四面全ページを使い、穐吉さんの誕生から現在に至るまでの86年余りに及ぶジャズ人生ドキュメント。「一期一会」の演奏、常に聴衆とデート、鼓や謡を融合・私の音、のサブタイトル。
4時間余りに及んだインタビュー。更にはその話に関係する人々をも取材した充実の内容である。書いた人は2008年同紙入社の東京科学環境部・渡辺諒記者。彼は高校時代から穐吉敏子さんのレコードを地元・山梨のジャズ喫茶で聴いてきていて、彼女が1976年に発表してジャズ・ディスク大賞・金賞に輝いた「インサイツ」(平和な村、繁栄とその結果、終章)での21分37秒もの大作「ミナマタ」の印象的な曲の影響からなのか?水俣病などの公害や地球温暖化の環境問題にまで及ぶ取材をしてきた様子。
 ストーリー記事中に登場する岩崎哲也さん(スタジオソングス・プロデューサー)は彼女の小編成演奏のCDを作ってきた方で「穐吉敏子さんは、頑固で、ぶれない人」と敬意を込めて評していた。又、広島「善正寺」の中川元慧(げんえ)住職(ジャズ愛好家)は、ミナマタを書いた穐吉さんが適任と考え「21世紀を前に、改めて原爆で犠牲になった人々への追悼曲を作曲依頼の時に、彼もまた市内いきつけのジャズ喫茶を通じ穐吉さんに会い、出来たのがその後の全コンサートで演奏している「HOPE(希望)」をテーマにした組曲「ヒロシマ~そして終焉から」(43分の大作)だった。
 「作曲は、テーマについて、こう感銘を受けたいとか、聴きたいとか“最初の聴衆”としての想像から始め、譜面を書く際はプレイヤー個々の音を考える」「ジャズ奏者といっても社会の一員。こういうことがあったら困るということを表現して歴史に残すべきだと考えたんです」作品の人気はキャラメルに付いてくるおまけのようなもの!と明日への努力を続ける穐吉敏子は「一期一会」をいつも心の中に置く。

幸遊記NO.302 「小林佳恵の“創造しいJAZZ”の取材」2016.10.24.盛岡タイムス
 結婚披露宴のテーブル名「海」で新婦恩人席名カードを開いたら「ジョニーさん、本日はご多忙の中、遠くまでお越しいただきありがとうございます。取材で伺った“開運橋のジョニー”での数日間は、私にとって宝物です。作っていただいた納豆パスタがおいしかったことも、皆さんとゆっくりお話出来たことも懐かしく思い出します。またおじゃまさせて下さい。本日は楽しんでいただけましたら幸いです」小林。とあった。
 その新婦・小林佳恵さん(28)は産経新聞の記者。彼女と最初に出会ったのは横浜のジャズ喫茶「ちぐさ」の2階にある、かつての店主・吉田衛さんの記念館でした。岩手在住のジャズボーカリスト・金本麻里さんが、新生「ちぐさ」が2013年に制定した「ちぐさ賞」の第一回受賞者となった時、なんと産経新聞は「きょうの人」欄に登場させてくれたのです!。その記事を書いたのが当時若干25才だった小林佳恵さんその人だったのですから、僕は2度ビックリしたのを覚えている。
 そして更には翌年に「復興の架け橋」と、同紙の神奈川県版取材の為に金本麻里さんが横浜と出来たご縁の延長取材で開運橋のジョニーでのライブを聴き、震災後に陸前高田市の斎場で彼女が歌ったことを現地まで行き取材して大きな記事にしてくれたことなど、まるで昨日の様に思い出す。「ありがとうございました」
 その後佳恵さんは横浜から東京本社へ転勤となって、現在社会部遊軍記者として頑張っている様ですが、取材記者同志で心まで出会ってしまったのが、ライバル紙・読売の社会部記者で、山形出身の新郎・狩野洋平さん(32)、二人は海の日に入籍したという。彼は早稲田大学時代の2004年日本初となる男性チア「ショッカーズ」を立ち上げた張本人だったことから、百人近い男性のアクロバットチアの凄さ実演。披露宴で配られた「嫁入り新聞」に産経の「さん」の字もないと嫁入(読売)に文句をつけて皆の笑いを取った産経の原口部長。同紙神奈川総局から東京本社の社会部へ移動となった大塚次長は「お祝いのライブ」で唄った金本麻里と僕の席へ来て、あの人欄を書かせたのも、岩手取材させたのも僕だよと差し出したその名刺には「大塚創造」と言う名。僕の頭の中はすぐ「創造しいJazz」とつながった。

幸遊記NO.301 「菅原聡の津軽三味線弾語り」2016.10.18.盛岡タイムス
 「オラ、オメナンカスカネッ!」そう言ったのは彼・菅原聡。「オラモダ!」と返したのは僕・照井顕。場所は遠野市の川べり。ドラムの故・菊池コージさんのコンサート打上げで飲みながらクキ(川魚)を焼いて食べている時のことだった。お互い初対面の20数年前。
 以来どう言う訳か変?な関係?となり、忘れた頃にやって来る災害のような、僕の歌伴を完璧な即興演奏でやってくれて来た。1999年あの村上昭夫(詩人1927~1968)の動物哀歌を、故・くつわだたかしさんと二人で唄ったCD録音時、僕の歌伴演奏した「鳩」曲はイントロで鳩を飛び立たせる奏法であったし、各地の寺院でのライブもそうであったように、僕の腰掛歌には彼の自転車の腰掛(サドル・聡)は欠かせない。
 先日(2016年10月2日)久々に彼からの誘いで一曲唄いに行って来た。震災後の2013年11月、気仙沼市に俳優・渡辺謙氏が「心の港」を作りたいと始めた「カフェ・K・Port」での「芸人・菅原聡単独ライブ!」。店内には満杯の50人。前座では彼の教え子・菊池郷平君(小学一年生)が聡先生と津軽三味線二重奏、皆感激のアンコールで前座いきなりのトリ状態。しかも郷平君のお母さんは僕の娘と陸前高田高校で一緒だった同級生の静さんと聞き二度ビックリ!。三度目は「うちの娘です。聡さんに習ってるの!」そう言ったのは、僕が10代から30代にかけて、いつもツケで買っていた陸前高田の金繁レコード店の店員だった紺野ユキ子さん(66)でしたから更にビックリ。数十年振りの再会に当時の顔や姿が浮かんだ。
 さて芸人・菅原聡さん(57)は胆沢町(現奥州市)生まれ。祖母の影響で5才から民謡を始め10才でステージに立ち、12才で三味線を始めるとあっという間に才能開花し、一年後には教えはじめ、19才で「津軽三味線・聡友会」を立ち上げ教え子千人超え。その天性ともいえる音感を元に、血のにじむ様な技術修得の努力と、門付の実践から一人立ち上げた音は、雪中や極寒の野外にあっても揺らぐことはない彼の魂そのもの。北島三郎や三橋美智也などの伴奏からジャズピアニスト・穐吉敏子とのセッションまで、相手の音楽精神性を理解することで融合をはかってきた「三味線バカ」。津軽三味線の歴史的音を徹底的に探究し、更に長唄へと手足延ばしつつある。

幸遊記NO.300 「上西健志の珈琲とパウエル」2016.10.10.盛岡タイムス
 埼玉県久喜市に「珈琲パウエル」という自家焙煎珈琲を提供しジャズを聴かせる店がある。店主は同市生まれの上西健志さん(62)。奥様は和服姿で料理や食事を担当する千純(ちずみ)さん。店名の由来はもちろんジャズピアニスト「バドパウエル」から。そのバンドの演奏「ボディアンドソウル」をラジオで聴き、わたしもあんな風にピアノを弾きたい!と憧れ、若き日に「女バドパウエル」の異名をとったのは、我らが「穐吉敏子さん」。
 珈琲パウエル入口付近カウンターの上に並べて、売っているのは何と「1980・秋吉敏子トリオ・イン・陸前高田」のCD。彼女が「1956年1月米ボストンへ留学の為に着いた日の夜に聴いたバドのライブも運命的でした」と懐述する彼女が、60年代パリでバドと会い女流№1ピアニストだと言われた事をはげみに、その後世界一の実力と名声を得た彼女。
 そんな二人を信奉するマスター・上西さんの企画と実践、その行動力には頭が下がる。先ずはあの3・11以降、久喜音楽文化振興会名で「復興支援コンサート」を久喜総合文化会館にて開催し続け、毎年東日本大震災復興支援財団子供サポート基金へ寄付しており、来年(2017)も3月4日(土)久喜銀座商店街の後援を受けて開催することを決定。すでに前売中である。もちろん司会、進行、解説は上西さん。
 そして本流の「アメイジングジャズクラブ」をもって、ジャズの底辺拡大のため初心者からジャズファンまで楽しめる「ジャズ鑑賞会」と称するライブコンサート(無料)を同市中央公民館で主催。11月11日で43回を数える。さらには「街の名人は語る」と久喜周辺で暮らす名人(一つのことに取り組んでいる人。職人、作家、研究者、芸術家、活動家、等々)を店に呼び講演してして貰い、話が終ってからは、出席者と名人が語り合える場を作り、人生を豊かにするヒントを皆に与えていることは、まさにジャズ喫茶の鏡と僕は彼に尊敬の念を抱いている。開店10周年まだ若いジャズ喫茶であるけれど、店はすでに老舗の風格。中学生の時にセロニアスモンクのピアノが好きになり、会社員時代には年に100回のライブを聴いていたことが高じてのジャズ喫茶経営。スペースに合わせた音量と選曲の心地よさは流石です。「オータムジャズ祭ファイナルご苦労様。皆で飲んで!」のビール到着にビックリ!ありがとう。

幸遊記NO.299 「山中芳郎の古希を楽しむ音」2016.10.3.盛岡タイムス
 知り合って20余年のギタリスト・山中芳郎さんは(Y・Y)だからとワイワイワールド演奏会(弟子のYつく人達と)・他楽器とジョイントでエンジョイのJoi Joiコンサート。生涯一度の還暦リサイタルなどなどこれまでに何度の誘いの御案内を頂いてきたことだろう。CDだって「音楽いろいろ(1・2・3)」「だ~いSUKIバロック音楽」そして模範演奏CD付の「50才からのクラシック・ギター入門」というギターメゾット本(現代ギター社版)の出版等、リリースする度に僕に贈り届けてきた人。埼玉のギター製作者で友人の荒井勝巳さんに連れられ、テンプロムジカ(音楽寺)という彼の「山中ギター音楽院」におじゃまして彼の演奏を聴かせて頂いた事が始まり。その時、芳郎さんの誠子さんという奥様が大東町(現一関市)出身ということを知り、当時陸前高田でジャズ喫茶をやっていた僕はまるで隣組気分で親しくなったのでした。
 そんなことから、芳郎・誠子ご夫妻の娘・のぞみさん(武蔵野音大卒・ウィーンでアレキサンダーイエンナ氏の指導を受けたピアニスト)が「ジョニーと行く穐吉敏子への旅2006」に参加し、米国立ケネディセンターで穐吉敏子コンサートを一緒に聴いたことや、常総市での穐吉敏子コンサートの打上げで芳郎さんと一緒に飲んだ時の笑顔まで頭に浮かぶ。彼は阿部保夫、中林淳真両氏に師事。メキシコやスペインで学び「ストリップの伴奏までやったクラシックギタリストは俺ぐらいかな」と笑っていう彼の裏芸ハーモニカで「紅い靴」「津軽平野」などにも心を吹き込む。
 今年2016年は山中芳郎古希を楽しむアフタヌーンコンサートを地元茨城県古河市と東京でやるというので、東京なら行けると5月22日、目黒雅叙園に女房の小春と駆けつけた。会は食事とコンサート。彼の演奏「愛のアランフェス」で幕を開け、サンポーニャや琴、アルパ、ギター、等々の演奏家たちと二重奏、三重奏をしながら様々なジャンルの音楽を披露する山中さんの多様な才能に酔いしれ、感動・感心していると、会の中頃には僕までステージに呼ばれて、冷や汗ものの挨拶するはめに。終盤頃には日本・ギター連盟の代表理事・荘村清さんも「アルハンブラの想い出」を弾き大拍手。そして芳郎さんは奥様へ感謝を込めて大きな大きな花束を渡す花々しさで幕でした。

Prev [P.65/125] Next
Copyright (c) 2005 Jazz & Live Johnny. ALL rights reserved.