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昨年末の30日深夜から正月2日の昼まで、女房と二人で店で使用しているステレオ(オーディオ機器)を右から左へ移動させた。心臓バクバク、体がガクガク、関節イタイタの大変な作業であったが、終ってみれば、同じスペースなのに、店の中が広々、音も予想通りのゆったり、はっきり、心地良い。レコード棚増設にともなう、LP、CD、万枚の移し変え作業が、これまた大変ではあったが、仕舞い忘れたものが見つかったりと、なかなかに面白い数年ぶりの仕事?であった。
昨年(2016)1月2日に肺ガンで亡くなられた、盛岡のアルトサックス奏者・片岡政樹さんのお姉さんから10月に電話があって「家の中を整理中で、政樹の聴いていたレコードを貰ってくれませんか」とのこと、「それはありがたい!すぐ行きます」で、西下台の彼の家に行ったらお姉さんと、政樹さんの娘さん二人が片付けをしていた。頂いて来たレコード見聞すれば、サックス奏者だった彼らしいコレクション。敬愛していた「チャーリーマリアーノ(as)の真髄が」真っ先に目に飛び込む。チャーリーパーカー、アートペッパー、ジョニーグリフィン、アーチーシェップ、デクスターゴードン、ジャッキーマクリーン、ジョンコルトレーン、ソニーロリンズ、スタンゲッツ、渡辺貞夫などなど、サックス陣がその大半をしめるコレクション。それらは順次僕が再生音として開運橋のジョニーで鳴らしているので片岡さんも喜んでくれているに違いない。 店内配置換作業中、思い出していたのは澤口良司さん(ドラマー・67)のこと。彼は今、片岡さんと同じく、タバコ好きが高じてか?肺ガンで入院中である。いつも僕の片腕の如く陰に日向に様々なことを手伝ってくれて、特にも力の必要時にはすぐに頼んでいたし、31日の年越しの夜は、一緒に過したが、今年はそれもかなわなかったことから、僕は年とりの夜の食事を抜いて、澤口さんに頼む分まで一所懸命の力と女房の知恵を借りて、重量物の大移動を成し遂げ、澤口さんに報告したところ、「1月12日(木)19時より、ピアノの高橋秀さんとベースの高橋勝親さんと一緒にジョニーで演奏しますから」と元気な声!。入院後初となった12月24日の演奏の素晴らしかったことが頭に浮かんだ。
昨年末(2016)陸前高田市小友町の友人から電話があって「オーディオの調子がおかしい」とのこと。行って診て直し、配置換えまでして喜ばれた帰り道、昔、店のお酒を配達してくれていた磐井正篤さん(60)政江さん(60)の店「いわ井」の仮設店舗に寄ってみた。店内は、外からは想像も付かない程オシャレで、器、和雑貨、地酒等の商品の選び方からレイアウト、陳列に至るまでのセンスには、益々磨きがかかって、そのあまりの素晴らしさに、そこが陸前高田であることを忘れてしまいそうなくらい、ステキが満ち溢れていた。4年間同じ1枚のCDジャズピアニスト・キースジャレットのジャスミンを流し聴き続けていることも凄いし快い。
かさ上げされた新しい商業地域の一角には、かつてのショッピングセンター「リプル」の再建設が、やっと始まったばかりだが、いわ井さんも、同地に出来る新商店街へ夏頃に引っ越す予定だと言う。帰り際に店の出入口上の壁に目をやれば、何と!陸前高田・大町商店街の両側に立ち並ぶ1982年の全商店(あの3・11の大震災の津波で消えてしまった)一軒々の写真!。通りの北側一番左端・大町商店街の入口に僕の店だった「ジャズ喫茶ジョニー」があってそこから右並びに22軒、南側の26軒。それぞれ真正面から撮影した写真で大変貴重。その写真を撮ったのは森下暢雄(のぶお)さん。この方は磐井さんが明治大学文学部・地理学科の学生時代から3年仕事した地図製版会社の社長だった人。彼が家業の酒屋を継ぐために会社を辞めて陸前高田に戻ったあと、森下社長が訪ねて来て撮影。そのリバーサルフィルムを震災後に届けてくれたのだったという。それをボランティアで陸前高田入りした芸大の女子学生たちが、コンピューターで繋ぎ合わせてちゃんとした商店街写真にしてくれたもので、様々な話題に発展し、まるで同窓会の様だと彼はいう。 「学生時代から、浅草の“フラミンゴ”、お茶の水の“響”、阿佐ヶ谷の“ドンガラ”などにジャズを聴きによく通ったものでした。帰郷してから“ジョニー”へ」という彼だが、僕の企画するコンサートをジョニー・ジャズ・フレンズとしてよく手伝ってくれたことをつい昨日のことの様に思い出す。今年は酉年、水のトリは酒!彼のつくった酔仙のおいしい酉酒をありがとう!。
例えば僕が、何も考えずに日常使用しているオーディオ機器の一つ、CDプレイヤの表面に組み込まれているガラスの部分(曲数や時間を表示するディスプレイ)が、三極真空管だということを最近知り、恥ずかしくなった。真空管といえば昔はラジオやテレビにオーディオ。コンピューターさえも真空管、ジェット機もそれで飛んでいたし、今も実際、オーディオ・アンプで僕も使っているのだから、目からウロコのコンタクト!。
教えてくれたのは工藤良孝さん(63)。彼は秋田市の人だが、「年間250日以上は旅がらす、自宅にいることもままならない。仕事場にたどり着くことすら大変な、よくわからない人生です」そういう彼は電気系。通常は電力会社の面倒な作業や鉄道の防災制御システムのメンテナンスが主な仕事だが「それこそ2011年の大震災後、鉄道のバス路線化(BRT)などで岩手の仕事が減り東日本各地を飛び回されているので、なかなかジョニーにたどりつけないのです」。 そう言って再来一杯!と酒酌み交わす。彼が僕の店に来るようになったのは、「秋田経済大学付属高校生だった頃から、スイング・ジャーナルを読み、通ったジャズ喫茶“ロンド”では“ジャズ日本列島”の本を読みジョニーへ行きたい!それがやっと30年前に夢が叶ったのでした」と笑う。 聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」とばかりに表示の光の色問えば、普段意味も知らずに使っている紫外線や赤外線のことにまで発展した。赤、橙、黄、緑、青、藍、紫。いわゆる虹色といわれる可視光線はアクリルや水などを透過する時間差や角度で分かれて見えるらしい。それ以外の見えない長短の光、それが紫の外側つまり近、遠紫外線で更にX線、ガンマ線、放射線があり、赤の外側が近、遠赤外線そして電波に続いているという。 「公私混同が花」と館山コンコルドの佐久間先生から言われたという言葉から、彼は「一説には炎とする説あるが、物資というものは全て光ではないか」と思っているという。その言葉で僕は思い出していた「光る光る全てのものは光る。自ら光らないものは外からの光を浴びて光る」といつか何かで読んだ言葉である。
昭和6年(1931)生まれの兄、幸男が今年(2016)9月に85才で亡くなった。ゆきおあんやは長男である。次男、3男、長女、そして末っ子の僕の5人兄弟で、誰一人、病に無縁で生きて来たのだが、兄は呆け、介護施設でお世話になっていた。脳卒中で倒れた祖母と母を看取った幸男兄の嫁・好子さんが55才でこれまた同じく半身不随となったのが1989年4月。以来、兄は嫁さんの介護をずっと続けてきたのだが先立ってしまった。
それでも兄には命を懸けたともいえる神楽があった。家の2件隣にある平泉・達谷窟(たっこくのいわや)西光寺には江戸期に神楽鳥舞奉納の古文書があり、その起源は中世にまでさかのぼるとされる県内最古の、達谷村鎮守毘沙門堂奉納神楽は戦時中の混乱、戦後の毘沙門堂焼失(1946)により途絶えたが、それを再興したのが1971年。86年より現在の名称「達谷窟毘沙門神楽」とした。 同時に兄は「芸事は子供のうちに体で覚えれば永く残り続ける」と地区の幼稚園児たちに教え始めたそれは、婦人達にも広がり、更には若妻、小学生、中学生(中学校では選択学習までに)その指導に一生懸命になって、自分の子や孫にも踊らせ、イギリス人(僕の同級生の奥さん)ローズ・マリーさんに太鼓を教え、それが縁でイギリス公演にまで発展したものだった。それ以前、ブラジル、オランダ、ハワイ、ニューヨーク、などなど海外公演と年に数十回全国からの声掛り。 村上護朗先生(1912~2005・南部神楽著者)にはご指導と舞台での解説で大変お世話になった様子。僕も何度かお会いしたが、神楽の為に生れて来た様な方でした。そのお蔭もあってか、平成10年(1998)子弟や保護者たちが組織した活動10年を「讃える会」(代表・立谷窟浩亮住職)から感謝状を貰い、同年10月には青少年指導により日本善行会から「成人善行表彰」を受け、のち平泉からの町勢教育功労賞を受けたりし、一族でお祝い会を開いたりもしたものだった。 今年最終回となった紫波ビューガーデンでの「いわてあづまね山麓オータムジャズ祭」(9月4日)で、兄の娘・幸子(62)などが踊り、孫・久美(35)が太鼓を叩き唄い、ひ孫・大翔(ひろと・4)が父・慎介(34)と見た達谷窟毘沙門神楽の鳥舞や御神楽が兄の生前最後の舞台となったこと、孫が一人前になったこと、など、嬉しや悲しや楽しや、である。
来る12月23日(2016)から、あの水越かおるさんの「すっぴん」や大塚冨夫さんの「TOWN」でおなじみのIBC・ラジオ(AM)放送が、なんとFMでも聴けるようになるという。もちろんAMは今までどおりの684.それをFMで聴くのは盛岡FM/90.6MHz(メガヘルツ)。同時に二戸と大槌80.5MHzで開局するし、すでに岩泉小本80.3、山田76.7、一関85.5で開局済み。「AMもFMも、ラジオきくならIBC」とのキャッチコピーである。
IBCラジオで忘れられないのは1983年5月1日から3日間、盛岡の中三デパート(現・ナナック)で開かれた、放送500回記念同窓会「風のグラフィティ」展。千輝順子、田村貴子、村松文代、佐藤敏行さんらIBCの面々の顔が浮かぶ。僕はSTAX社からお借りしたコンデンサースピーカーでJAZZを聴かせるジョニー盛岡店として3日間営業した。その時がグリーンに白字の「ジャズ喫茶・ジョニー」というスチロールのハレパネで看板を作ってくれたのが、中三のポップ担当者だった故・西山久美子さん。店で出す、焼きうどん作りも手伝ってくれて「おかかは、たっぷりと入れた方がおいしいわよ」と、ニッコリと笑いながら、フライパンを振っていた姿まで浮かぶ。 その一ヶ月前の83年4月、岩手放送は開局30周年を迎え、IBC・ラジオスペシャルとして、4月4日から8日までの18時30分から21時の2時間半、5夜連続の生放送「JUST・ JAZZ・TIME」を企画放送。初日の4日は「ジャズ・ナウ・今どんなジャズが・・」とダンテの高橋了さん。5日「ジャズ・ボーカル」パモジャの佐々木賢一さん。6日「日本のジャズ」ジョニー・照井顕。7日「名人達のジャズ」ベイシー・菅原昭二さん。8日「みんな集まれジャズセッション」伴天連茶屋・瀬川正人さん。(IBC・TVスタジオから公開生放送)というもので、この日は当時僕の店に毎週土曜出演していた、松本和子(p)トリオ+ワンも陸前高田から出演して好評だったことを覚えているが、「FM東京」では偶然にも同じ4月4日から8日までの、同時間帯に「モダンジャズへの道」という特番を組み、ジャズシーンを塗り替えた5人のビックアーチスト、バドパウエル、クリフォードブラウン、アートブレーキー、ソニーロリンズ、マイルスデイビスを特集したものでした。 |
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