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「これ貸すから見てけれ!」そう言って2016年の正月、佐々木健一さんが置いて行ったのは、パブロカザルス(1876~1973)のJSバッハの無伴奏チェロ組曲第一番ト長調のレーザーディスクだった。1954年プラドの聖堂における貴重な録画。動くカザルスを見たのが初めてだった僕は大感動、次にはカザルスのSPレコードまで持って来たのでこれまた蓄音器で鳴らし聴いた。そこで僕は彼に「カザルスとの対話、JM・コレドール」の旧装初版本を見せたら、彼の目が点になった。当然同本は持っているが初版ではないというので、僕は古書店で新装版を見つけてからその旧本を彼にプレゼント。
すると間もなくレコードの中古市で僕の目の前に現れたのが、健一さんに見せられたあのバッハと、もう一枚「鳥の歌」のLDだった。その盤には1971年国連でのコンサート時、この曲を弾く前に「生まれ故郷の民謡を弾かせて貰います。鳥の歌という曲です。カタロニアの鳥たちは、青い大空に飛び上がると“ピース、ピース(peace・平和)といって鳴くのです」とカザルス94才のことば。 前置き長すぎ!とめよう。そうだ!とめよ!で想い出すのは僕の陸前高田時代や盛岡に来た2000年代初期、彼は何度か僕の店への送電を止めた。電気料請求書を届けてから50日支払いが滞ると止めるのだそうだ。彼は一応昔からの友人だが同僚への示しがつかないこと、から、心鬼にして止めたのさと笑う。 陸前高田時代、ステレオ再生音が昼、夜、深夜と違うことを話したら、検査して電柱に登りしかるべき処置をしてくれた、彼・佐々木健一さん(61)は、昔盛岡夕顔瀬橋際にあった米と新聞販売をしていた人のせがれだった。中学を卒業して家事の手伝いをしていた時、東北電工の下請会社の人がいばりくさってたから、ヨシ!俺はヤツの上の会社に入ってやる!と変な決心!電気理論の1、2、3を独学で猛勉強!。電気主任免許を取得し東北電力へ入社した話はどこかカザルスの精神に通じている様な、まるでネジ花の様な性格なのだ。 彼は、花巻、水沢、江刺、陸前高田、大船渡、釜石、盛岡、二戸、北上、現場を転々とする社員をまっとうし、定年。昔も今も家で音楽を聴く時以外、自室ではローソク生活。自作のバイクやヘルメットまで検査を通し、それで東京までも走った話も又、健(すこやか)そのものである。
昨2016年9月11日(日)に東京六本木「キーストンクラブ」でテナーサックス奏者・ルータバキン・国際トリオのライブを聴き、同14日(水)同地六本木の「ビルボード・ライブ」にて、ボーカリスト・マンデイ・ミチルのライブ。そして同22日(木・祝)銀座「ヤマハホール」に於ける穐吉敏子ピアノリサイタル。と3つの演奏会を聴いた。
このアメリカ在住3人の、それぞれ別のコンサートをひと月に、しかも10日余りの内にまとめて日本で聴くことが出来たのは、初めてのことであり、奇跡的な、そして一方的な僕の蜜月!でした。ルーさんと穐吉さんは言わずと知れた夫婦で、マンデイさんは穐吉さんとチャーリーマリアーノ(前夫・アルトサックス奏者)との間に1963年2月の帰国公演(盛岡にも来た)の後、日本滞在中の8月19日東京で生まれました。その誕生日が月曜であったことから「マンデイ」そして人間として年々満ちてくれる様に、「満ちる」(マンデイ満ちる)と、母・敏子さんが名付けたのでした。 その母と娘、義父の3人が初めて同じステージに上ったのは1998年11月19日。場所は岩手県陸前高田市・キャピタルホテル1000・カメリアホール。帰国ツアー中だった穐吉トリオの陸前高田公演日にマンデイグループも、更にニューヨークからこの日の為にルーさんに直行して貰っての世界初,秋吉敏子ファミリーコンサートの実現だった。 その公演後、ジョニーで打上。ピアノの脇に飾っていた額「21世紀への手紙---秋吉敏子」(15才時のマンデイ宛)をピアノに寄り掛かりながら読んでいた35才のマンデイ満ちるの姿は今も忘れられない!。それは、母から娘への手紙(新聞掲載)の文章。「満ちるが、何か創り出す事の出来る人間になってくれればとも思ったりしますが、最終的には、ママが今まで生きてきた間に習った一番貴重な事は“思いやりのある人間に!”“故意に人を傷つけない人間に!”“そして果たせない約束はしない人間に”この三つの事柄です。この三つを心掛けて生きてくれればそれだけでママは満ちるを誇りに思い幸せです!」というもの。果たして、満ちるは新しい分野を切り拓き、その新ジャンルのカリスマとなってアメリカと世界をリードし続け、最近は母のテーマ曲「ロングイエローロード」にも詞をつけ歌っているのです。
旧満州国遼陽(現・中国)にて、穐吉敏子さんが生れた1929(昭和4年)、本国日本ではジャズ喫茶店が誕生。本郷赤門前に野口清氏の「ブラックバード」、新橋に寺田雅宏氏の「デュエット」。1933年開店の9軒目は、現存する日本最古の横浜野毛「ちぐさ」。この店は今もあるが、かつての常連さん達が、店主の故・吉田衛さんを讃え、同地区に店と彼の記念館を2012年3月11日に新しく再開し現在に至っている。
では、ずーっと続いている最古の店はというと、日本橋に生まれ育ち、埼玉県朝霞市にてジャズ喫茶を始めた小宮一晃氏の「海」昭和27年(1952)である。この年は戦後のアメリカによる占領が終り、アメリカ進駐軍クラブへ出演するバンドの格付審査(国の特別調達庁)も廃止となり、バンド景気が徐々に冷め始めた年だが、朝霞は米軍基地の街。当時の写真を見せてもらったら、店の名前は「JOHNNY」。米兵たちから店主は「ジャニー」と呼ばれ親愛された様子。 当時店の近隣には「フラミンゴ」「サンフランシスコ」「レジェンド」などのクラブがあり、米兵相手の女性ダンサーを運ぶ専用バスが何台も連なっていた。クラブのステージ写真には秋吉敏子・コージーカルテット(54年頃)が写っていた。ジャズ喫茶「ジャニー」は米軍基地から正式に基地外認可店“A”印を付けられ、客のすべては白と黒の米兵。彼等が持ち込むジャズのSPやVディスクが店内に流れる毎日。店を一週間休んで米兵と温泉に行けば、店の売り上げを米兵たちが負担した程愛された店主。 1960年代米軍基地は日本の自衛隊に変わり「ジャニー」は「海」となり、店の壁は10インチ(25センチ盤)のジャズレコードが飾られていたという。今は30センチ盤の古いLPが壁一面に飾られていて壮観!。でもなぜ内陸の街に海なのかは、一祝さんの父(創業者)が海軍の出身者であったから、海を見ていた「ジャニー」である。僕の店はベトナム戦争時代の小説「海を見ていたジョニー」(五木寛之作)からの名で、ラストシーンは海。スペルは同じ。ジャニーは海から戦後に内陸へ!。僕は1975年、海の街でジョニーを開店し2001年内陸の盛岡へ。その時住んだアパートの名は小宮荘。今は「海」へ流れゆく川(北上川)を見ながらジャズを聴いている不思議なご縁である。
手元に「ドルフィン・ダンス」というLPレコードがある。トランペット、テナーサックス、トロンボーンの三管とピアノ、ベース、ドラムの6人編成によるハード・バップ・ジャズアルバムである。リーダーは日本屈指のドラマー・小津昌彦さんが1983年に録音したダイレクト・カッテング(演奏はテープを介さず直接ラッカー盤に刻む方法)である。
このグループをジャズ評論家の故・いソノてルヲさんは「日本のジャズ界に咲いた一輪の名花である」と評した。リーダーの小津昌彦(1941~1997)さんは、三重県松坂市生まれ、高校生の時に労音が主催した、白木秀雄コンサートを見て感激、立教大学在学中にジミー竹内さんにむりやり押しかけてドラムを教わり、当時同大学生だった大野雄二、鈴木宏昌、佐藤充彦ら、のちの一流ジャズピアニスト達と一緒にバンドを組み、大野さんとは大学4年の時、銀座のファンタジアに出演注目を浴び、卒業と同時に№1テナーの宮沢昭クインテットに抜擢されプロとなった。1967年ジャズ界の異才として知られたアルトサックス奏者・オーネットコールマン来日時のレギュラードラマーの他、サラボーン、カーメンマクレー、クリスコナー、アンバートン、サリナジョーンズ等世界の一流どころと共演。そのドラミングは日本の歌手達からも絶対的に支持され続けた。 今は故人となった宮沢昭、尾田悟の2人のテナーマンは日本の宝物だから生の音を全国に届けたい!と1980年から小津昌彦ジャズプラザを立ち上げ97年9月の亡くなる日までスケジュールを入れて、北へ南へその大物たちを運び届け自ら一緒に演奏したドラマーのそれは、勝れたジャズドラマでもあった。僕の陸前高田時代、1984年7月宮沢カルテットがジョニーで演奏した時、あまりお金を払えない僕に「僕等が本当に聴いてほしい人ってのは、お金をくれられない人だから、いいですよ」と快く言ってくれたこと。又87年に来た時、宮沢さんから「日本ジャズの陸前高田で、しかも市民会館ホールで気持ちよく演奏出来たこと、とても感謝しています」と言ってくれたことなどが浮かぶ。小津さんも亡くなられて今年で20年。月日のたつのは早いもの、その彼のお弟子さんで盛岡出身の村井洋介さん(ジャズドラマー)が帰省した正月、一緒に酒を飲みながら僕は彼の師・小津さんのことをも想い出したのでした。
店で使う「たたら清水」を汲みに、深夜2時半雪降りしきる中、車を走らせる。頭の中で歌っていたのは、アダモの“雪が降る”。カーラジオから流れて来たのはアルフレッド・ハウゼ・オーケストラの演奏でタンゴの名曲「碧空」。水汲み場に着くと、水の音を聴きながら浮かんできたのは、ちょうど300年前の1717年に作曲されたヘンデルの“水上の音楽”。ここは簗川の近くだが、水上の音楽はイギリス・テームズ川の船上。ジョージ・一世が喜んで3度も繰り返して演奏させたエピソードまで浮かぶ。
それはそうと僕も、水上の音楽を実践したことがあった。1989年陸前高田市。古川沼と呼ばれる和野川の河口(大震災の津波で消えた高田松原の後側)にイカダを浮かべ自分の店「ジョニー」のグランドピアノを乗せての水上ライブ。名付けて“古川沼クリーン・キャンペーン・コンサート”。水は実によく音を反射させるため岸辺で聴く心地の良さは最高でした。そうそう、その構想を面白がり、力を貸してくれたのは高梨勝夫さん。大船渡の建設会社・佐賀組創立者の1人で常務だった彼はニコッと笑い、会社からクレーン車を持って来て店からピアノを運び出し、クレーンで湖上イカダの上に降ろす作業を、無償でやってくれたのです。ピアニストはニューヨーク帰りの健未路(たけびみろ)さん。コンサートが始まると、高梨さんは持参した魚でカモメ(海猫)まで呼んで最高のシチュエーションを創ってくれたのでした。 そんなカモメ達とも友だちだった彼は当時、同市小友町の「海上七夕」代表世話人でもあり、「小友海上七夕賛歌」を作りたい!と、大船渡市の東海新報社編集長だった鈴木周二さんに作詞を依頼、出来たのは「一千二百年のいにしえ、北の海人たちは、氷上(ひのかみ)の国めざした、吹き抜く風、地果つる彼方に、いのち源求めて、反り返り音立つ、大笹竹小笹竹(おおたけこたけ)、、、、、」。作曲は僕。演奏は氷上山金太郎(イカダを造った製材所の社長・大和田幸男さん)で海上の音楽が誕生したのは1990年のこと。 高梨さん(75)は佐賀組を定年退職した後、その人柄を買われてか、高田建設の社長にもなった。理容師の奥さん(キヨコ・73)とは金婚の50年。今は孫の世話で忙しい毎日である。 |
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