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この原稿の元は紙と鉛筆、以前はコクヨを使っていたが、最近は年令にふさわしく
?オキナの原稿用紙。文字は年々書き進む速度が落ちるし消す数が多くなり、時間だけが過ぎてゆく。その消しゴムと鉛筆で忘れられない一編の詩がある。「えんぴつ、私の口よりも心の中を正確に表現する、コンピューター。 消しゴム、まちがいだらけの汚い文字を 白紙にもどす、魔力。日記、私の短い生果てるとも永遠に存在する、宇宙。 えんぴつ、消しゴム、日記、ひととき心をつづる私の友達」早坂澄子さん(60)が独身時代に「青磁」のペンネームで書いたファーストポエムである。 彼女は今、都内で看護士をしながら、趣味?の組紐(くみひも)に取り組んでいる。何百本もの様々な用途の美しい作品の数々には、見事という他はないのだが、どうやら、そのきっかけとなったのは彼女が子育てをしている時に、父が怒りながら言った「箸を上手に使う!紐を結ぶ!は日本の文化だ!それをちゃんと子供に伝えないでどうするんだ!」だった様子。 高校を卒業する頃,自立出来る職業は何かと考えた末、縫い子になろうかとも思ったらしいのだが、おじいさんの弟が入院し、おじいさんに連れて行かれた病院で嗅いだ消毒液の臭いが自分の感にふれ、看護婦になろうと3つの看護学校を受け浦安で学んでの看護士生活。子供達が自立して上京したことから、自分も宮城から上京。東京で看護士生活を始めた時に気になりだしたのが、お茶と組紐だった。 そのどちらも結局のところ歴史を勉強しなければならないことに気がつく!。その組紐の文化をさかのぼれば、何と世界遺産の平泉藤原三代の秀衡公御棺(おひつぎ)の中にたどりつくという。その「秀衡公の組紐」は黄、赤、白、縹(はなだ)、紫の五色の絹糸で組まれ、その色彩と紋様の美しさ、出来栄えの見事さ、精緻な構造などから、日本組紐の最高傑作であるとされ、重要文化財となって「中尊寺組」と呼ばれる。その組紐を模して現在によみがえさせたのは東京の「有職組紐道明(ゆうそくくみひもどうめょう)」の故・山岡一晴氏の考案によるもので、その組紐は最近まで中尊寺の秀衡公の木像の胸を飾っていたのよ!と誇らしげに、今160本の糸とコマを使い紐を組んでいた。
東日本大震災の津波から丸6年。3月11日が巡ってくる度に思い出すのは、陸前高田駅前で写真店「カメラの和光堂」を経営していた菅野有恒、太佳子夫妻のこと。あの地震のあと店の近くで一人暮らしをしていた有恒さんの母を車に乗せて逃げようと迎えに行った時、近所で一人暮らしをしている女性達3人が道に居た。自分が降りればみんな乗れる!と太佳子さんが残って車は避難先へ。皆を降ろして母を頼みます!と言い残し猛スピードで引き返した彼は津波と正面衝突し波にのみ込まれた。その時有恒さんは56才、太佳子さんは55才だった。
僕がジョニーをはじめて1~2年たった頃、彼は大学を卒業して陸前高田へ戻ってジョニーに通い、学生時代に好きになったシンガーソングライター・豊田勇造のレコードを店に持参して「マスター!俺この人呼びたいんだ」と言った。そのシンガーがジョニーにて弾き語ったのは、市内荒町にあったジョニーの店舗を大町に移して半年後の、1978年の5月17日のこと。 ちょうどその時、ジョニーに次ぐ市内2軒目の音楽喫茶「灯」が駅前通りに開店したので共同主催した記憶!。以来2~3年に一度のペースで来演した。有恒さんも太佳子さんも独身時代、別々に僕の店・ジョニーに通っていた常連客だったが、とある深夜、酔いつぶれカウンターでウツラウツラしていた僕を起こして「マスター、俺結婚するから!」だった。「誰と?」と僕がたずねると、太佳子さん!で、僕が眠っている間に話し合ってお互い即決したのだ!と言う。 結婚披露宴は市民会館の大ホールで開催した「豊田勇造コンサート」。いわゆるディナーショー形式の宴会で、親戚ビックリ,友人大喜び。以降彼は「人力舎」名で、毎年のようにジョニーで豊田勇造ライブを開催し続けてきたのでした。82年3月31日から4月4日まで、市民会館を全館借り切るという前例のない写真展「東松照明の世界展」を大々的に開催した。その直前僕と彼は太佳子さんが当てたヨーロッパ半額旅行チケットでギリシャまで行き、パルテノン神殿でポスターを外国人女性に持たせ、有恒さんが撮影。その写真を広告宣伝に使った想い出は今も消えず。その時の実行委員は和光堂とジョニーの常連客達だった。
電話の向うで「照井さん、夢のゆくえという本をお持ちですか?26人の熱い女たちのことが書かれていて、その中に穐吉敏子さんも載っているんですが?」だった。僕は知らない持っていない。後日、その電話の主が現われ「つれあいのお千鶴さんの本だけど再読して“好きな書き方をする人だよ”と言ってました。ハイプレゼント!」
本は1982年鎌倉書房刊。登場の女性たちは、向田邦子、黒柳徹子、吉原すみれ、安川加寿子、兼高かおる(僕の息子の名も兼高)、森英恵、前橋汀子、赤尾三千子、橋田寿賀子、澤村貞子、高田敏子等々読みたい人だらけ。中でも「スープのそばの音楽」と題された秋吉敏子を真っ先に読んだ。その冒頭「この曲は別府の知り合いに何かつくってほしいと言われて書きました“タイム・ストリーム”です。ハスキーな声のあとに続いた数分の曲が忘れ難く、耳に残っている。この曲はとりわけ私にはあえやかにやさしく聞こえた。」とある。 35年以上も前のこの話の主、つまりこの曲をつくって貰った人と僕は、来年(2018)米寿で米国から帰国公演する穐吉さんの出演について連絡を取り合っていた最中だったから、何とタイムリーなストリームなのだろうと思った。 著者・増田れい子氏は、穐吉さんと同年の1929年に生まれ穐吉さんの誕生日12月12日(2012)に亡くなられた。毎日新聞初の女性論説委員や学芸部編集委員など歴任した方で、1984年女性初の日本記者クラブ賞を受賞。マスコミ九条の会、女性九条の会などに関わった。著書は「くらしのうた」「午後の思い」「独りの珈琲」「風の行方」「ゆりかごの歌」など30冊程。彼女はこの「夢のゆくえ」の26人目に母を登場させて書いている。 母とは、あの不朽の名作「橋のない川」の著者・住井すゑ。差別され、“部落民”と呼ばれさげすまされ続けた悲惨な境遇から栄光の日を目指して立ち上がった人々の、心の純粋さ明朗さを迫力ある筆で描いた大ベストセラー(450万部)は連作映画(1969、70)にもなった。戦時中長男を軍隊にとられると連日部隊長に手紙を書き送り「人殺しにするな」と訴え続け、自分を軍法会議かけるならかけろ。逮捕するなら逮捕せよ!と言い続けた。それはまさに子の生命を生んだ“母”だからこそ言えた真実であろう「人間は生命を生む、権力は命を奪う」が母・すゑの根底にある認識とあった。
「義経北紀行伝説・第一巻・平泉編」(批評社)の出版を祝う会(代表発起人・藤井茂・一般財団法人新渡戸基金・常務理事・事務局長)が去る2月18日(土)2017、サンセール盛岡にて行われ、発起人10名の1人に僕の名も連ねられて出席した。作家の金野静一氏、斉藤純氏や紫波町平泉関連史跡連携協議会の瀬川勲氏、紫波町長・熊谷泉氏、衆院議員の階猛氏、高橋比奈子氏等、約100名が参加し出版を祝った。
著者・山崎純醒さん(60)は以前、義経自害説を信じていた様だが、高校教師で歴史家の佐々木勝三著「義経は生きていた」(東北社)を読んで衝撃を受け、引越し先の紫波町にて平泉に関連する史跡を訪れては浮かんでくる疑問や理由を調べているうちに、義経の生存を暗示する事実に出会い、幕府や朝廷の目だけでは見えない、征服された東北の消された史実を、文章として残したいという衝動に駆られ、四方八方、ありとあらゆる歴史本を読み、それらを検証し、実際に伝説・伝承の地を歩き見聞してモノにした、正史の虚構を覆す実証本とも言える力作!。予定では第五巻の10年先まで見据えているという。 これまで幾度となく「出します」、「出ます」の繰り返しあり、自ら日本ペンクラブ正会員を退いた経緯もあり、出版は泣くほど嬉しいだろうなと思いながら、少しずつ読んでいる。その間彼は本に関わる講演や、義経北行ミステリーツアーの企画実行。ヒューマンネットワーク「ONE・WORLD」(人材銀行)を立ち上げての異文化交流の実践や、いわて賢人会議などを開いても来た行動派である。 山崎純醒(本名・稲造)、30代より、新聞や文芸誌などに寄稿を始め、40才でフリー・ライターとして独立。日本文芸家協会会員、日本詩人会議メンバーとなって詩の個展を開催。エッセイは、文芸書評、自然科学、日本語と言霊、仏教思想、氏姓と家紋、歴史人物など7本の連載していたが、ガンを告知され休筆。だが、義経北紀行伝説書かずして死ねるかと生還してのこの本の出版は、正に彼自身の死をくつがえす北帰行伝説そのものであるのかも知れないし、彼の父が書きのこした3万ページの姓名科学の海を「櫂(かい)」で漕ぎ渡ったのか? 「今は黙してゆかん、何をまた語るべき、さらば祖国いとしき人よ、明日はいづこの町か」小林旭の歌がくちびるからこぼれ出る。
お名前なんでしたっけ?と何度か問い「かがり火のかがりと覚えれば」との彼のことばに反応して浮かんだのは、ほつれ難いかがり縫いのかがりだった。以来彼とは来店の度にそのかがり縫いの部分が多くなって一生ほつれないような気分である。彼・青木嘉賀利さん(58)が「母は昔、花巻で“花”という名の店をやっていた」との話しに反応したのが、近い席に座っていた花巻出身のご婦人!「どこそれにあった店でしょ。私よく行ってたもの!あの“花”の息子さんなの?」だった。
母の名は明子。だけど店内は黒色で、灯りの下には絶対立たないし、昼の顔は客に見せない徹底ぶりだったと、少年時代の母を振り返る彼。お客さんが店に置いていたレコードを聴き、音楽好きになり、ジャズは大学一年18才の時、新宿ピットインにて聴いた板橋文夫(p)の“渡良瀬”に感激、以後今田勝(p)鈴木勳(b)浅川マキ(vo)本田竹広(p)を聴き歩いた。 大学を出る頃、仏像にはまって寺めぐりを。般若心経を丸暗記して意味を紐解いては本に夢中になり、帰郷して本屋勤め。母の父が営んでいた旅館を手伝う為母が釜石に戻る時、自分も盛岡から釜石の本屋へ転勤。市内の「タウンホール」大槌の「クイーン」などのジャズ喫茶へ通い、そこで読んだのが、ジョニーの本「瑠璃色の夜明け」だったと彼。 そんな釜石時代に独自ルートで世界のジャズレコードを輸入販売している大坂のレコード店「ライトハウスE」から通販でレコードを買い聴いては、その感想文をレポート用紙に書いて店に送ること、10年でLP一千枚分を超えていたと彼!。そして40才の時、盛岡で仕事をすることになり、買って聴いたレコードは全部頭に入っているから、あとはジャズ喫茶で聴こう!とレコードを処分。以来、ジャズの店を中心に、ロック、ブルース、フォーク、ポップス、ライブハウス等、盛岡市内の全音楽関係の店の常連となって聴き歩き続けて来た真の音楽ファン。よく行くブルースの店「フィール・グット」に先日盛岡公演に来たあの「ジェフベック」が公演後やってきて、サッチモ(ルイアームストロング)をリクエストしてガンガン大きな音で鳴らしてくれと言ったそうで、帰りには店の壁にサインをしていったと、携帯の写真を見せてくれたことに僕はかがり(かなり)ベックりした。 |
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