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僕達夫婦にとって特別な存在であるマリア様のような方から誕生月プレゼントのご招待にあずかり、今話題の歌と音楽とダンスのハリウッド映画「ララ・ランド」を見に、久し振りに女房の小春とフォーラムへ行って来た。映画はジャズ演奏のスタンダードな形態をもちいた様なストーリー展開で、バースの奇想天外な場所大渋滞(高速道路)での大群のアクロバットダンスで始まる女優とジャズピアニストの恋物語。監督は世界中に興奮と熱狂を巻き起こしたあのジャズ映画「セッション」のデミアン・チャンゼル氏。
その2017年4月20日僕が古希になった日の夜、大きな花籠を抱えて花巻から開運橋へやって来たのはピアニストで歯科医の及川浄司さん(58)。真紅のバラとガーベラ、ワインレッドのカーネーション,紫の小さな蘭と真白い大きな蘭。ララからランラン(蘭蘭)「ジョニーさん、お誕生日おめでとうございます」でした。ありがとう!ありがとうございます!。 彼、及川浄司さんのピアノを初めて聴いたのはもう30年余りも前のこと。三陸町(現・大船渡市)の小松歯科で彼が研修を積んでいた時、小松さんと一緒に、当時陸前高田にあった僕の店にやって来てピアノを弾いた。その曲の流れをつくる一音、一音に、僕は体が震える程感動した。上手下手ではないそれは美しい魂の音色!。演奏するということは、音の神様を天から地上へお連れし、演奏者の全てを意のままに使わして音楽してもらう、その無心さにこそ音楽は宿るのだということを感じさせられた瞬間だった。 及川浄司、花巻生まれ、盛岡一高で始めたドラムを大学時代(岩手医大歯学部)にピアノへと転向、だが譜面も読めなかったことから自己流での耳コピーを始め、くる日もくる日もピアノに夢中になり、大学は一年遅れでの卒業!。今では、歯科!とした医師(意志)を持つジャズピアニストとして多くのファンを持つ。 かつて僕が担当していたFM岩手のジャズ番組にも1994年11月、96年1月の2度放送の為に、ジョニーで録音した彼のオリジナル曲を含む演奏を流しながら出演して頂いた。又、彼のカルテットで盛岡大通ビックストリート・ジャズフェス、紫波ビューガーデンでのオータムジャズ祭、開運橋のジョニーでのライブと彼の演奏を長年見聞してきたが、彼は一音一音の隅々まで全身全霊を傾けて弾くまったく稀有(けう)なるピアニストの中のピアニストなのだ。
平成25年(2013)、パプアニューギニア、ビスマーク諸島慰霊友好親善訪問団(戦没日本兵親族)に参加し、昭和18年6月4日戦病死した盛岡出身の森鍵清造さん当時(33才)の戦没地を訪ねた時の現地の新聞コピーを、昨2016年7月僕に見せてくれた森鍵清一さん(78)。
彼の父・清造さんは明治44年生まれ、少年時より大工見習い。ホームスパンの全行程の中で、その最も重要な部分(綿を糸にする)そのホームスパン用の紡毛機を考案し製作、販売した(盛岡市の森鍵製作所)。その最初の簡易紡毛機は昭和9年(1934)に、大日本総合青年団理事長から「その研究と成績見るべきものあり、依って茲に助成金を交付す。尚一層の奮励により右研究完成望む」の證。 受け取った森鍵清造さん(23)はその後も研究改良を重ね、3年後の12年5月、社団法人・帝国発明協会会長の正三位勲一等男爵、阪谷芳郎氏から、紡毛機で表彰を受けた。それに依れば「右ハ東北六県、北海道、樺太、朝鮮、台湾、及、関東州ニ於ける発明ニ付商工省発明奨励費交付規則に基く本会発明表彰規程に依り審査の結果實施ノ効果佳良ナル発明ト認メ之ヲ表彰ス」の表彰状。その発明証に関西以南だけが含まれていない不思議は、その時愛知での競技会でトップだった森鍵さんが、ライバルの豊田織機(トヨタの前身)にその座をお裾分けをしたからだったらしい。 その紡毛機のことを清造さんの一人息子清一さんから聞いたのは2003年。そして今年(2017)4月5日、彼から電話で「ホームスパンのみちのくあかね会に来てるんですが、父の紡毛機がここにありました。いま皆で実際に動かしているところです!」と声の様子から感動と感激が伝わってきたのでした。 みちのくあかね会!僕の頭があの2003年に戻る!いわて・そめ・おりネットワークが「岩手の布土・作品集」と言う写真集を制作した折、その作品写真を撮ったのが僕で、あかね会に行った時のそのたたずまいや、紡毛機や機織など、どれをとってもすべてが古いものを使っていた。えもいわれぬ印象だった。その昔で思い出すのは深澤七郎のベストセラーで映画化なった小説「樽山節考」昭和32年の表紙と中表紙の絵。描いた画家の故・高橋忠弥さんは清一さんの母の姉のご主人だったことだ。
僕が子供だった頃の遊び場は、平泉町の達谷窟の広場だった。(現・達谷窟毘沙門堂前の庭園)そこでの遊びは野球。ボロ布丸めて引き裂いた布糸や麻糸でぐるぐる巻きにしたボールと、山の木をノコで切りナタで削って、茶碗の欠片でカンナかけした手作りバット。打球が広場を超え田んぼに落ちればホームラン。その楽しさの延長で中学で野球部に入ったが、暗くなるまでの球拾い、毎日夕方に真空管のラジオにかぶりつき、聴いていた「少年№1」が聴けなくなったことから即退部!。
以来野球とは無縁になったが、チリ地震津波の後に陸前高田に市営松原球場が出来、間もなくプロ野球2軍のイースタンリーグ戦が行われ見に行った。どことどこの対戦だったかのかもまったく記憶にはないのだが、唯1人、ホームランを打った衣笠(祥雄)という人の名と、その光景だけは、今も鮮烈に覚えている。彼は僕と同い年1947年に京都に生まれ、平安高校から広島カープに入団。1970から連続出場で世界記録を塗り替えた人で、75年赤ヘルブームの立役者。87年には国民栄誉賞を受賞した鉄人(初期の背番が28号)。 昨2016年、広島東洋カープがリーグ優勝した時、大阪で発行されているテイクフリーのジャズ誌「WAY・OUT・WEST」10月号に、その衣笠氏のインタビュー記事(2012年12月号の再掲)が載っていたので読んでみた。 彼は、広島カープに入団して間もない頃に出合ったのが流川のジャズ喫茶。その店で知り合った「アメリカ海兵隊さん(ベトナム戦争に行く若い2等兵たち)が死と隣り合わせながらも、音楽が聴ける喜びを語っていた彼らに接し、野球が上手くいかずイライラしてくさっていた自分を本当に恥ずかしく思ったことを覚えている。その時からジャズの持つ自由な広がりや、お互いをぶつけあうスリリングな展開に惹かれていった。選手生活を終えてから初めて参加した故・大橋巨泉氏主催のハワイ・マウイ島ゴルフ大会で聴いた故・ジョージ川口、日野皓正等が夕陽を背にした演奏は最高の瞬間で今でも忘れられない」という。それは僕の見た若い衣笠さんのホームランと同じ一瞬の永遠なのだろう。1975年僕等が主催した歴史的革命の大音楽祭」の会場だったあの松原球場がリニューアルなった直後の2011年3月11日あの津波でした。
僕は何がしかの用事があって上京すると、少しでも時間がある時は必ず中古レコード店や古書店に足が向く。先日は復活なった横浜野毛日本最古のジャズ喫茶「ちぐさ」の5周年にお招きを受け、上京した際、新宿3丁目の集中するデイスクユニオンに足を向け、最初に入ったロック館を眺めていると、マスクをした男性に「ジョニーさん!」と声を掛けられた。
マスクを外し現われた本物のマスクは、音楽ジャーナリストの若杉実さん(48)。手には何枚ものレコード。会計も並んでいて時間がかかりそうなので、「僕はジャズ館に行ってますから」と声を掛け、ジャズ館にやって来た彼と近くの喫茶店で少し話をした。若杉さんは昨2016年4月20日(僕の誕生日)に、シンコーミュージックから「東京レコ屋ヒストリー」(460p)を出版した人。 この本は1903年から現在まで東京の音楽文化を発信し続ける“レコード屋”の歴史をつぶさに追った史上初のドキュメンタリー!と帯にある様に、日本最古の輸入レコード屋に始まる過去から未来までをもあぶり出しながら、昨今のオンラインショップの利便性も説いているが、居ながらレコードを受け取れる恩義と同じくらい、空虚感も溜まっていく。同じレコードなのにどこかが違うのは、いつどこにどうやって行き、どんな思いでどんな風に探し、どんな対応をしてもらってこのレコードを手に入れたか!とその愛着の違いまで説いている彼は2万数千枚の収集家でもある。 ジャズレコード史も今年2017年で丁度100年。僕のレーベル「ジョニーズディスク」も40周年を迎えた。当時僕が制作したそのレコードも何枚か見つけたが、1枚7000円から1万円以上もする高値で売られていることに驚きと喜び、そしてため息までが同時にこみあげてくる。5作目の「海を見ていたジョニー・坂元輝トリオ」解説・五木寛之に至っては和ジャズの名盤中の名盤と言われ、1枚何と10万円を超す超高値。 それらジョニーのレコードはCD盤に焼直し2007年から渋谷ジャズ維新シリーズとしてウルトラヴァイブから再発!となったが、その監修をしたのが若杉実さんで、以降、新作の宣伝にも一役買ってくれていて、ありがたい存在の人。彼は栃木県足利市出身、現川崎市在住。2014年には「渋谷系」(シンコーミュージック)という本もものにしている渡良瀬の男なのである。
去る3月20日(祝・月)付盛岡タイムス一面の「天窓」欄、1982年のCD誕生以降衰退の一途をたどってきたアナログレコードについて「唯一残った国内レコードプレス工場やレコード針の生産工場が風前のともしびから、今やフル回転へと復活したようだ。時代は回りながら進む」と。
又、昨2016年12月23日付朝日新聞、一関のジャズ喫茶ベイシーの店主・菅原正二さんのコラム「物には限度、風呂には温度」の第120話「イースト・オブ・ザ・サン」にて「来る年2017年から爆発的なアナログ・レコード・ブームが湧き起こるという。ホントかいな?と思うが、ホントらしい。実はマニアックな人たちの間では10年以上も前からそれは起こっていたのだが、飛び火して、何の罪もない人々にまで伝染そしてバンデミックが起こるのが来年だとマスコミが騒ぎ出している。これはしかし日本だけの話ではなく世界的な雲行き、、、、」とある。 音楽鑑賞スタイルがレコード、CDなどの固体物から配信という無形物?へと変化しCD,レコードの大形店廃業が相次いだアメリカで、個人経営のレコード・ストア・デイが始まったのが2008年。4月第三土曜日に、有名アーティストがアナログ盤限定作品をレコード店で発売する世界同日開催の原典。日本も本格的に参加したのは2012年。今年2017年は4月22日(土)の同時開催で、21ヶ国、数百のレコードショップが参加を表明している。 実は今、レコードフェアや東京の中古レコード店はどこへ行っても黒山の人だかりである。盛岡出身・在住のジャズシンガー・金本麻里さんが、第一回ちぐさ賞を受賞した時の副賞として制作されたのもCD付アナログレコード盤2014年での発売で、あっという間に売り切れる人気振りでした。昨2016年秋には「レコードのある暮らし」というフリー冊子も創刊されて大人気。プレイヤーも一万円弱のものでアンプ、スピーカー内臓という簡単なものが若者達の間に普及している様子なのだ(僕も高校生時代を思い起こさせられた)。 「効率と合理性に追われる生活の中で、ふっとひとときこの音に包まれるということ。人類ではなく“にんげん”みたいなことを思い出させてくれる気がする」とゼロからスタートし、その後のレコードライフを語る宇宙女子・黒田有彩さん(30)の感動体験のNASAり方も面白い。 |
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