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今年(2017)4月、伝説のジャズレーベル・スリー・ブラインド・マイスの、コンプリート・ディスク・ガイド「TBM」小川隆夫著(駒草出版・証言で綴る日本のジャズ1、2の著者)が発売になった。1970年10月、峰厚介(ts)の「峰」。今田勝(p)の「ナウ」を同発し、日本のジャズ専門レーベルとしてスタートを切った「TBM」のオーナー・プロデューサー・藤井武さんが、140タイトルもの優れたジャズのアルバムを世に送り出してきたストーリー。
その藤井さんが制作するTBMレコードを基準に、僕は陸前高田市で「日本ジャズ専門店」を掲げながら全タイトルを買い聴いた。現在、日本ジャズ界の大物達のレコードを無名の時代にリリースして、しかもその一枚一枚がオリジナル中心。演奏の凄さと素晴らしさ、その細心の注意を払った日本最高の録音だったから、海外ではオーディオチェックにも使用され、レーベルの信頼性は世界的だった。 藤井武さんは1941(昭和16年)東京神田生まれ。小学6年か中1でジャズが好きになり、高校生時代に映画「ベニー・グットマン物語」「グレンミラー物語」にしびれ、3年生の夏には、自分が30才になる時点で、誰も日本のジャズのマイナーレーベルをやっていなかったなら、トライして国内ジャズを育てて行こうと決心!そして29才で創業。コマーシャルな物は一切出さない!プロデューサー・藤井武自身がその演奏に興奮するくらい感動しなければ絶対に録音には進まない!それがTBMの姿勢だった。 「経営上のバランスは10枚のうち3枚はレーベルの水準を保ちたいもの。5枚はやわらかいものからストロングなものまで、ジャズファンが聴きたいもの。残りの2割はオーケストラやボーカル。英語は日本語なまりでも意味が伝わればいい。言葉知らなくても歌唱力だけで心が揺れることがあるだろう!だからハンディ以上に解き伏せちゃう説得力がなきゃ、英語だろうが日本語だろうが同じよ!」藤井さんが長時間僕に語ってくれたのは1990年の夏。その年はTBM創立20周年でその記念パーティの発起人の一人に僕の名も入れてくれた。彼が29才から日本のジャズの興隆、発展を導き続けた33年間のTBMの実質的黒字は10年間だけ。資金繰りに苦労し結果は破産。TBMは彼の手を離れたが日本ジャズの財産である。作品は生き続け発売され続けている。
今年(2017)第33回目を迎えた「日本ジャズボーカル賞」は、日本のジャズ専門紙「ジャズワールド」(1979年創刊)と津村順天堂の共催により、本邦ジャズボーカルの先駆者・水島早苗さんの音楽へのひたむきな情熱とその精神を後世に伝えると共に、わが国のジャズボーカルの向上発展を願って、1985年に制定された「水島早苗ジャズボーカル賞」(第1回、第2回)が前身。その水島さんは順天堂の社長・津村昭(バンジョウ奏者)の「ストリービル・ダンディーズ」の名付け親でもあった。
水島早苗(本名・相良喜子・さがらよしこ)さんは1909年九州鹿児島市に生まれ1978年東京で亡くなられた方で、わが国ジャズボーカルの草分け!。1932年本名でプロデビュー、戦後は米軍キャンプ及びクラブを廻り1949年永田清嗣のリズムランブラーズの専属歌手。1957年水島早苗ボーカル研究所を設立。65年宝塚歌劇団のジャズ教室講師を兼任。1974年にはニューオリンズ名誉市民の称号を受け、門下生にはマーサ三宅、峰純子、水森亜土、戸川昌子、佐良直美、金子晴美、上條恒彦氏など多数。 その彼女、水島早苗が歌手生活に於ける初リサイタルを開いたのは、ジャズを歌い出して27年後の1960年1月10日、産経国際ホール。第1部、デキシーランドジャズ。第2部、スイングジャズ。第3部、ジス・イズ・サナエ・ミズシマ。この3つのステージが示しているように「日本のジャズがどのような経路を歩んで来たのかと知っていただき、あすのより良きジャズへの皆様のご支援をお願いしたいと存じます」と当日のパンフレット。 そのリサイタル評(1960年2月号SJ誌)によれば「歌というものがこんなにも人に強い感動を与えるものだったのかと、思いを新たにさせ、感涙をそそる出来であった」。 そして1975年日本ジャズの名門レーベルTBM(スリー・ブラインド・マイス)の50枚目のレコードが66才にして初めてLPに吹き込んだ水島の「ユーヴ・ガット・アー・フレンド」だった。その発売記念コンサートでは「歌詞などまったく解からなくても言い知れぬ説得力に打ちのめされてしまう、たくましい力強さ」(行田よしお・1975・11月号SJ誌)であった。僕はその2年後に出たLP「サタディナイト&サンデーモーニング」(ビクター)も聴き、そのゴスペルとブルースが調和する彼女の“うた”に唯一無二を感じたものでした。
月刊紙「ジャズ・ワールド」の編集長・内田晃一さんは1927(昭和2)年1月15日生まれ。間もなく91才にならんとする人だが、まあ、とにかく若い。僕が内田さんと最初に出会ったのは1979年の夏、日比谷野外音楽堂で行われた「サマージャズ祭」会場。同年3月創刊なったばかりの「ジャズワールド紙」を聴衆に配り歩いてた時。
以来それを読み続けていたのだが、僕が盛岡に来る以前の同紙は皆、陸前高田へ置いて来た事から津波で流出。そのことでバックナンバーを問い合わせたところ、1981年3月号から97年12月号までの残部を53部も送ってくれたので感謝感激でした。 内田晃一さんは栃木県鹿沼市生まれ。小学2年東京世田谷に移住。芝浦工業専門学校(現・芝浦工業大学)を卒業。新宿区の工務店に入社するも肺結核になり宇都宮の親元で療養後栃木新聞社に入社。その頃、宇都宮工業高校生だった渡辺貞夫と知り合い、アマチュアのジャズバンドを結成。メンバーは内田晃一(vib)渡辺貞夫(cl)大関和夫(b)永田武夫(ds)1949年~1950年にかけての約1年の土、日、市内のダンスホール「新世界」に出演。高校を卒業した渡辺貞夫さんは父親に「東京出て1年間バンドマンをやって、うまくいかなかったら戻って家業の電気屋を継ぐから行かしてくれ!」と頼み上京。1ヶ月後渡辺の誘いで内田も新聞社をやめ上京。1956年には自己グループ「内田晃一ファイブスポット」を結成し浅草「ニューモアナ」に出演。その後数々のネームバンドで演奏。 1976年、スイングジャーナル社から「日本のジャズ史、戦前,戦後」を上梓。79年3月月刊新聞「ジャズワールド」を創刊、以来38年8ヶ月1号も欠く事無く発刊。また1985年に、本邦ジャズボーカルの向上発展を願い「水島早苗ジャズボーカル賞」(現・日本ジャズボーカル賞)を設け、今年2017年度で第33回目。それがなんと今回の新人賞に盛岡市出身在住のジャズ歌手・金本麻里さんが輝いた。大賞は丸山繁雄さん。それはそうと、主催者・内田晃一さんは昨2016年12月我が国文化の振興に貢献、日本文化の国際交流の功績により平成28年度文化庁長官表彰を受け、90才の誕生日にその祝賀会と第32回日本ジャズボーカル賞の表彰式を行ったのでした。
隔月刊(かつては季刊)の専門誌「ジャズ批評」創刊50周年記念特集号「私の好きな1枚のジャズレコード・パートⅡ」が発売になった。30号、36号、62号で特集した同じタイトルの本から、拾いあげたジャズをめぐる一篇一篇の物語再録とニュー。日本の時代背景や文化の変化も読み取れる199、200号である。僕にジャズ批評社からの原稿依頼が
あったのは1988年の62号、後にも先にもこれ1回こっきりだけ。その文章何故か200号に拾われ再揚なった。その中味はといえば、僕がジャズにのめり込む原点となった故・本田竹彦(竹曠、竹広)作曲・演奏の「破壊と抒情」が入ったレコード「ザ・トリオ」にまつわる話。それを今年20年振りに来盛した元奥様の歌手・チコさんと本田の妹さんに昔のそれをコピーして渡したばかりだった。その62号にはジャズファンの水谷良重、細川護熙、萩原朔美、竹中直人、田中泯、鈴木治彦、大林宣彦、太田裕美、石ノ森章太郎、荒木一郎、浅井慎平、秋元康氏等。そしてジャズ批評家や演奏者、レコード会社、ジャズ喫茶店主等の文。 編集人の松坂妃呂子(比呂)さんは1932年10月22日、福島県川俣町生まれ。1953年上京。本と映画と美術に音楽、料理まで。好きなことが出来たのは、女学校時代2階教室の床が抜け落ちた下敷きになり、腰から首にかけての骨が潰れたケガや肺結核の治療、女児出産後の卵巣切除など30才までに7回もの大手術。結果、松坂姓に戻っての自立。1965年サックス奏者・ソニーロリンズの名演奏「オレオ」を店名とするジャズ喫茶を銀座に開店。活字も大好きな松坂さんは店で「オレオヴォイス」というミニコミ誌を作り、これが前身となって、思想抜きの自由な「ジャズ批評」を発刊。1970年に4年契約だった店をたたみ、自宅での本格編集開始。パートしながらの10年で経済的軌道に乗せて今日にある。 その松坂さんが1982年1月僕に言った「最も売れなかったのは、日本のジャズメンを特集した1977年の25号。非常に残念でした!だからその売れない日本のジャズだけで、しかも岩手でやってらっしゃるあなたは、どうしているんだろう?と思います」は今尚鮮烈!確かにその10年後だった62号の私の好きなジャズのレコードでも日本人ジャズを取り上げたのは124人中僕を含めて4人だけ。その中の1人は外盤と間違えて買ったものだったが、心ゆくまで楽しめるとあった。
「ジャズを愛しジャズに愛された男、内田修・ジャズコレクション」!と、月刊ジャズジャパンの2017年1月表紙を飾った内田修さんはドクタージャズと称されて、多数のジャズミュージシャンと交流し、支援。日本のジャズの興隆に大きく貢献した名古屋の外科医。彼はジャズピアニスト・穐吉敏子さんと同じ1929年生まれ。亡くなられたのは2016年12月11日87才だった。
名古屋大学の医学生だった頃からジャズに親しみ、穐吉敏子さんを始め、渡辺貞夫、富樫雅彦、宮沢昭、高柳昌行、日野皓正、菊地雅章、佐藤允彦、小津昌彦氏など、日本のジャズを形成牽引してきた人達と交友を結んで1964年2月のレコードコンサートから始めたヤマハジャズクラブを結成!。2回目の4月にはレコードと生演奏会を企画、当時の先端を行く「新世紀音楽グループ」(金井英人、宮沢昭他)を名古屋に呼んだのが始まり。4回目の1965年1月17日、再渡米直前の穐吉敏子サヨナラコンサート(荒川康男/b原田寛治/ds)を企画するなど、その数は1997年までに150回。彼は1961年出身地の岡崎市に内田病院を開業し院内にピアノやその他の楽器、録音再生装置を完備したスタジオを作り、練習や交流の場としてミュージシャンに開放、自らは創刊間もなくからのスイングジャーナル。アメリカのダウンビートなどで最新のジャズ情報をもとにレコードを入手し、ミュージシャン達やファンの研究に供した。又日本ジャズメンの主事医でもあった。 名古屋・ヤマハ・ジャズクラブ30名のスタッフの中にヤマハ関係者も3名おり、その中の1人石村和子さんが今年2017年7月開運橋のジョニーへ現われビックリ!彼女は、1984年晶文社から出版された内田修さんの著書「ジャズが若かった頃」の出版に助力した方。帰って間もなく、「ヤマハジャズクラブ150回記念コンサートパンフ」(1997年9月13日発行の最後の1冊)を僕に送ってくれて感激していると、また第2次資料が届けられた!それは「内田修ジャズコレクションCHRONICLE」というCD付本で岡崎市が市制100周年の記念事業として出版したものだから凄い本なのだ!そしてそのジャズの街岡崎発信連絡協議会では、7回のジャズ塾を開設、その第1回講師が石村和子さんで「内田先生。そしてYJCと関わって」なのでした。 |
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