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ドラマーの澤口良司さんが2017年10月7日夜10時半頃この世を去った。彼は僕より1年と2日遅く松尾村(現・八幡平市)に生まれた人だが、自分からは24年生まれと言っていたのだから、まるで昔の芸能人みたい!と皆が言う。実際芸能人には違いない。通夜の会場にはミュージシャン仲間が大勢駆けつけて、聖者の行進を演奏し唄い、アベマリアを唄うオペラ歌手や津軽三味線での即興とうた。ロックやロマン歌謡、様々なジャンルの演奏会となった。
いつもサーチャンはレコードから流れる様々なスタイルのジャズに耳を傾け、常にテーブルの上で指を動かし、リズムを取り続け、いつもドラマーとしての勉強を、休むことなくしていた人だった。そんな彼だから、変拍子だろうが何だろうが叩けないリズムというものがなかった。ジャズもロックもブルースもはたまたシャンソンやポップスなどあらゆるバンドに引張られ、入院する1年前の10月までなんと7個ものバンドに所属しドラム演奏をしていた。 そんな彼だから、名前の呼ばれ方も澤口良司(りょうし)さん!に始まり、澤口サン!サーチャン!サワちゃん!サワさん!リョウチャン!、リョウシさん!グッチ!と様々で彼の虹色のような人生を物語っている。結局彼の命取りとなったのはタバコ。そう!ニコチンなのだから、下ネタの大好きな彼にとっては本能だったのかも?。なにしろ抗がん剤治療はコーガンにもよく効くのかな?と僕が思った程、元気になったりした。 不平、不満、人様の欠点や悪口一切言わず、僕からの頼みごとには公私にかかわらず、全てのことに対し、無償で快く協力してくれた。真の意味で僕の“左右のうで”の様な人だった。本当は右利きなのだが、ドラムの時だけ左利きになる。サーチャン!本当にありがとう!またね!。僕はサーチャンに出会い親友になれたこと、大変に嬉しく誇りに思っています。肺ガンのステージ4を宣告されてからの1年、とても大変だったようですが、1人娘の素敵な志穂ちゃんと毎日会えて、幸せだった!ね。“生きる希望!”のジャズドラムも自分のバンドで毎月“開運橋のジョニー”で演奏し、最後のステージ仙台定禅寺に行ったことなど“演奏者の鏡”ですよ!。
2017年10月、開運橋のジョニーで開催中の「中島ノブヤ音楽絵画展・金本麻里ジャズボーカルの世界」は、なかなかにおもしろい。盛岡在住の金本麻里(38)が歌を唄っている顔や、その姿が描かれているのだが、その背景には彼女が録音した歌のタイトルや歌詞を想像させるアイディアが盛り込まれ表現されていて、見る人見る人、なぁるほどとうなずいている。
中島ノブヤさん(50)は東京生まれ松戸育ちの会社員だが、現在仙台営業所に勤務するかたわら、ミュージシャンや画家としても活動している人。早稲田大学時代にはニューオリンズジャズクラブに所属しキャナルストリートジャズバンドのメンバーだったことから1988年のジャズ人名事典にその名が載っており、2度ニューオリンズへ。現在は「早栄軒ブルースバンド」を率いているが、バンドの名は学生時代に通った定食屋の店名から。 それこそ彼が市川市で婦人服チェーン店長をしていた時代の1991年、ジャズクラリネット吹きのご主人が営んでいた、魚屋兼居酒屋に入り浸ってた時、ジャズ評論家の石原康行氏(故人)と奥様、そしてあのジャズピアニスト・秋吉敏子さんがやって来て一緒に飲んだ10月1日が宝物の夕食会になったのだと彼。その居酒屋の後藤夫妻は秋吉さんのファンでもあり、自分達も銭湯を借りて「セントールイスブルース・コンサート」を開催してた方だったと。 現在の会社務めは1999年から。震災後にたまたま買い求めたカラーサインペンでスケッチを始め、最初の一線から次々と完成までの行程を写真に収めながらの人描きが楽しくなって、ダンスやライブなどをする人々を描くうちに、演じ手の電波をキャッチして描けるようになった。CD聴きながら、あるいは食べながら、飲みながら、五感を刺激し使いながらの作品は2013年仙台での個展へとつながり、これまですでに7回もの展示。今年になってやっと案内ハガキの絵が売れたんですと言う彼は、仙台以外では盛岡のここが初めて、今回は自分がファンでもある盛岡のジャズボーカリストが歌うキャラバン、この素晴らしき世界、星に願いを、私のお気に入り、枯葉、センチメンタルジャーニーなどなど17作品。A列車で行こう!が真っ先に売れましたよ!開運!開運!。
長年ジャズ喫茶をやっている僕にとって嬉しいことは、最近、小中高生達がジャズピアノに挑戦していることだ。盛岡大通・ビック・ストリート・ジャズ・ライブ・第27回・2016年8月には7人もの小中高生ジャズピアニストが大人のリズム隊をバックに、伸び伸びと演奏して話題をさらったことから、その中の3人、西川さくら、米澤ゆりや、菅原有史くんが、9月に行われた紫波の「第10回オータム・ジャズ祭」に出演成った。
そんな中、12月27日にはフルート奏者の君塚彩さん(26)と盛岡四高1年生で15才のピアノ奏者・菊池冬真君が、開運橋のジョニーでデュオライブ熱演!観客驚きの大拍手。半年後の2017年6月27日2度目の出演。8月には来盛した日本のトッププレイヤー・鈴木良雄さんのグループから一緒にやろうと1曲ステージに呼ばれ堂々としたプレイで将来性を期待されたばかりだったが、その冬真君の父・雄宇(ゆう)さん(39)は、息子を高校生のうちに何かのコンテストにチャレンジさせてみたい!と調べて決めたのが2017・第5回横浜ちぐさ賞。〆切ギリギリに家のピアノに向う冬真くんのプレイ動画を応募。75名の応募者の中から1次選考で7名にしぼったその動画を一般公開。そこから3名が選ばれ、最終のライブ審査へとなるのだが、なんと、冬真君はそのファイナルに残ったのです!。1位になれば、LPレコードとCDでの本格デビューが約束されている[ちぐさ賞]!。 そう!第1回の受賞者は今をときめく金本麻里(盛岡)いやがうえにも期待ふくらんだ選考会(9月24日)にて何と堂々の第2位!で、来年のファイナルへの出場権を手にしたのです!しかも今年の優勝者は仙台出身東大卒のピアノ・千葉岳洋さん(幸遊記・№221)。男泣きした彼は4度目の挑戦だった!。「お酒がこんなに美味しく感じるのは久し振りです(笑)」と僕にメールが来た。冬真君も「来年は絶対優勝したい!」と熱い闘志を燃やす! TVがこの冬1番の冷え込みと報じた真冬の1月28日(2001)に生まれたことから冬真と名付けられ、小1の時に佐藤充彦氏の凄いジャズピアノを聴き感激し、教室に通うようになった。小3の時、母が買ってくれた古いアップライトピアノに夢中になり、アートテイタムやバドパウエルのピアノ演奏に反応しては、「どう弾いたらこんな風に音が鳴るんだろうか」と猛勉強・猛練習。作曲もすでに30曲。コンテストライブでは4曲中2曲が自作。それをトリオで弾き切っての第2位である。
盛岡劇場の地下「タウンホール」にて毎月第3水曜日に行われている「モリゲキライブ」第273回のニール・ストルネイカー&フレンズのコンサート(2017年9月20日)を聴いた。女房と2人最前列中央に座っているとステージに出て来たニールが僕等を見てジョニー!と、手に持ったトランペットを向けてビックリした様子。メンバーはピアノ・鈴木牧子。ベース・下田耕平。ドラム・柿崎幸史。バリトンサックス・岩持芳宏の5人。
リーダーのニール・ストルネイカーさんは僕の一回り下、1959年2月6日生まれの58才。アメリカ・ウエストバージニア大学卒。彼が最初に開運橋のジョニーへ現れたのは2010年10月。東京の音楽学校で教えているとのことだったが、学校経営が父から息子へ代わった時で、内情がしっくりこなかった様子がうかがわれ、盛岡で生活したいとのことだった。当時ジョニーで行っていた第1、第4土曜のセッションに参加し、皆から親われた事から、店の営業時間外を彼の練習場や教室として無償で使って貰い、プロを目指してた若者たちへの指導をして頂いたりした。 その中の1人、柿崎幸史は上京し現在プロとして活躍中で、今回のコンサートでドラマーとして参加しているが、これまでも何度となく彼と一緒のステージを経験してきたし、ニールと牧子さんは2011年春から共演。僕は彼の音の素晴らしさをスエーデン在住のピアニスト・ケイコ・ボルジェソンに紹介し、2人は東京で一緒のステージに立った。僕は2011年2月、そのピアノとトランペットのデュオをCD録音したのだが、直後に大震災があり、リリースの事はすっかり忘れ去っていた。 震災後あらゆるコンサートが中止となる中、僕はこういう時こそ普通に音楽をやってゆくべきと、店のライブも中止せずスケジュール通りにやり、盛岡の大通で前年から始めたビックストリートジャズライブも4月から開催それに出演し、5月には紫波古舘公民館での復興支援チャリティライブなどに参加した。その後彼はガンと闘い、一時はもうトランペットは吹けないのではとも噂されたこともあったが、それを克服しての演奏活動は、まだ以前程ではないが九分通りの復活。それはまさにニールが12才の時に観て鳥肌が立ち、トランペッターを目指すことになったサッチモことルイアームストロングの「ハロードーリー」そのものなのかも!。
2012年4月11日、ニューヨーク・ウェリントンホテルのロビー。ホテルのボーイと日本人の会話が僕らの前で始まった。白人のボーイは日本語で、日本人の若者は英語での珍しい?不思議なトークセッション。白人は日本の秋田大学へ留学した経歴。日本人は前年の2011年からNYの音大に留学中の後藤匡徳(まさよし)君、当時25才、奥州市水沢出身。まるでパロディー映画でも見ている様な光景、しかも白人の日本語が秋田弁だったからなおさらだった。
その後藤君は1987年水沢生まれ。盛岡中央高校。そしてハワイ・オワフ島の短大、TPHCにて天文学を学んでいた時、心理学科教授のジャズピアノを聴いたことから、彼の中に眠っていた感覚(小学1年からのピアノ、小学4年からのエレクトーン)が呼び戻り、ピアノを再開。卒後フリーターを3年やって帰郷し、開運橋のジョニーへちょくちょく現れてはピアノに向った。一聴テラテラとした弾き方だったが、芯のしっかりした心地良いピアノの音だけに、その場の人達が驚きを隠せなかった様子が今も目に浮かぶ。 2年前の2015年NYから日本に戻って東京証券取引所に就職したと聞いていたが、やはりピアノで仕事がしたい!と今年再びの渡米。あの2011年NYでの学生生活が始まる日に、暗がりで後からきた若物たちにカバンを奪われたことがあった苦い経験活かし?、ホームレスの生活からスタートしてみようと、学生時代の友人にボストンバックを預け、自分をピアニストとしてやとってくれる店を200軒以上も探し歩いたという。しかもセカンドアベニューの70丁目から95丁目(お金持ちのいるエリア)に的を絞って探し歩き、200店舗ほど交渉した3日目に、ビルの持ち主が経営するイタリアンレストラン「デリジア92」が雇ってくれて、ノーギャラ(チップのみ)からの3時間演奏をスタート。 それが20、30、40ドルプラスとギャラも上昇の一途だが、ビジネスで客に気を使う演奏には耳を貸さず、自分に集中してやる演奏でなければ客足はすぐに遠のくのだとというNYの厳しさ。就労ビザの申請で一時帰国したのでと、開運橋のジョニーへ顔を出してくれた時、丁度TVIのニュース・プラス・ワンから金本麻里(vo)の取材話あったので急遽、ピアノ伴奏をしてもらい「岩手から世界へ」として今週の放送予定だそうです。 |
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