盛岡のCafeJazz 開運橋のジョニー 照井顕(てるい けん)

Cafe Jazz 開運橋のジョニー
〒020-0026
盛岡市開運橋通5-9-4F
(開運橋際・MKビル)
TEL/FAX:019-656-8220
OPEN:(火・水)11:00~23:00

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幸遊記NO.363 「ケイコ・ボルジェソン」2017.12.25.盛岡タイムス
 ケイコ・ボルジェソン。数年振りに彼女のピアノソロライブを「開運橋のジョニー」と「くるみの家」で聴いた。期待にたがわぬ、しびれる程に素晴らしい演奏とボーカル。彼女はスエーデン在住のジャズピアニスト、兼・ボーカリストである。彼女のご主人、ホーカンさんはジャズ・バイオリニスト。毎年、年明けに、東京で開かれる、ケイコボルジェソン・ニューイヤーコンサートも2018年1月14日、サントリーホールで開催されるが、14回目である。コンサート会場へ行けば彼女のコンサートを後援する、スエーデンを始め北欧を中心とする国々の駐日大使たちが夫人を伴って会場に現われる程、彼女の日常における様々な国での活動は、いかに貢献度が大きく大切なことなのかをかいま見せる彼女は、本当の国際人である。
 日本で、彼女の名を知り、その演奏の凄さを知る人の数は少ないようだが、僕の中ではジャズの歴史を塗り替え前人未踏の境地をゆくアメリカ在住のピアニスト・穐吉敏子さんに次ぐ日本が誇る、真のカリスマ的ジャズピアニスト、であり、ボーカリストである!と信じてうたがわない。音は格調と気品に満ち溢れ、優雅にして豪快、パワフルな奔放性と彼女にしか表せない極上ともいえるリズム感を兼ね備えた体から発せられるボーカルの感情創出。その得も言われぬ心地良さは最高!。
 ケイコさんは1947年東京生まれ。東洋英和女学院、桐朋学園大学ピアノ科を卒業。1973年に室内楽を学びにイタリアへ留学。76年にはアメリカに渡りハリーフィールド・ミュージック・スクールでポピュラー、ジャズボーカルを専攻し、全ての学びと体験から現在のフィーリングを見につけ、それを磨き続けてきたのだ。彼女の親戚に当たる、日本最高のクラシックピアニストと言われた安川加寿子氏に師事し、昔よく叱られたことが、一番の身になった様子。
 2007年僕がプリデュースして紫波の野村胡堂・あらえびす記念館で録音した「A・LA・EBISU」はジャズオーディオ・ディスク大賞で世界の8位入賞。また、あらえびす合唱団を組織してあの「百万本のバラ」を原語でうたうコンサートなどをやってくれたことや、ラトビア大使を連れて来てくれた日のことを思い出す。

幸遊記NO.362 「丸山繁雄のジャズの著書と歌」2017.12.18.盛岡タイムス
 盛岡のジャズ好き弁護士として自他共に認める吉田瑞彦氏が主催するプロジャズライブ「丸山繁雄酔狂座」2017年12月3日すぺいん倶楽部に、女房と二人聴きに行って来た。店は満席数十名の入り。僕等は指定されたステージ直前の席。あまりに良い席なので借りてきた猫のように静かに座っていると、ジャズライブ・ファンの鈴木女史が僕の肩を揉んだ。
 この夜のライブが決定した時点では決まっていた訳ではなかったそうだが、ジャズボーカリストの丸山繁雄さん(66)は、今年2017年度「日本ジャズ音楽協会会長賞」並びに「日本ジャズボーカル賞・大賞」に輝いたのだから、主催者や店、ファンにとっては、まるでボーナスの様な豪華で粋なジャズボーカル&エンターティナーズ・ナイト!と相成った。しかもゲストプレィヤーがこれ又、日本を代表するサキソフォン奏者の山口真文さん(71)。そして長年丸山さんをサポートし続けてきたピアノの米田正義さん(67)と、宮上啓仁(ベース・35)小松伸之(ドラム・40)の布陣!
 ステージでの丸山さんの第一声が「今日は照井さん(僕)が目の前にいるので緊張しています!」だったが、そのボーカルの素晴らしさに男ながら僕はうっとりとした。想い起こせば、彼がレコードデビューした当時、陸前高田にあった僕の店でライブを開いたのは1982年3月,宮坂高史(ds)遠藤律子(p)是安則克(b)松井洋(g)。又、山口真文さんに至っては1975年僕達が立ち上げた「プレイ音楽実行委員会」による「ヴァージン・ジャズ」と題した初ライブ「山口真文カルテット」で1976年5月陸前高田市民会館ホールにて、素晴らしく感動的なコンサートを開いてくれた彼なのだから、僕の心の中では、いやおうなしに期待がふくらんでいった。すると間もなく、ステージへ今年ジャズワールド紙の第33回・日本ジャズボーカル賞・新人賞に選ばれた盛岡在住の金本麻里さんを呼んでくれて、ソロで唄わせ、デュエットも!で感謝!感激!。
 それはそうと、丸山繁雄さんが10年の歳月をかけて書いた10年前の著書「ジャズマンとその時代」(弘文堂。アフリカン・アメリカンの苦難の歴史と音楽)は、ジャズの始原から現代に至る遠く遥かな道をわかりやすく、そして詳細に調べ尽くして書かれており、僕の知るどの歴史本より僕は感心しながら読ませて頂いた凄本!さすがジャズマン初の博士!

幸遊記NO.361 「浅井泰雄の音楽を奏でる人の絵」2017.12.12.盛岡タイムス
兵庫県宝塚市から時折やってくるジャズファン井上訓一さんからの紹介だった。「友人が絵を描いているから、いつかジョニーに飾れたらいいなあ」そう言って帰ってから間もなく「WAY・OUT・WEST」という関西ジャズガイドブック昨年の1月、2月号をその紹介してくれた浅井泰雄さんという京都にお住いの画家が、絵はがきや作品集と一緒に送り届けてくれたのだった。以来その「WAY・OUT・WEST」は1号の欠番もなく毎月、毎月レターパックで届けてくれていることに感謝感謝。そして彼が描く、様々な音楽家たちが、色んな楽器で演奏している姿からは一緒に音も聴こえるような音楽画のはがきに添えられる手紙を、毎月毎月心待ちにしている僕。ある時には、京都のCandyというライブハウスで録音された演奏CDとともに、その演奏時の風景を描いたジャケットまで付けてくれたりしたが、僕はまだ彼と一度もお会いしたことはない。でも、昔からの友人のような気がしてならないのだ。
 彼、浅井泰雄さんは僕と同じ1947年、京都の生まれ。1980二科展の吉村勲氏の師事。99年から同・中原史雄氏に師事。1989年二科展で彼の娘さんがピアノを習っている姿を描いた「レッスン」で初入選。以降連続入選を果たしながら30年近くにわたって「音楽を奏でる人」をテーマに描き続けている。個展は1990年から関西を中心に22回。昨年の手紙によれば、4年間続いた恵美須神社の総代仕事から解放され、好きに絵を描けるはずとあったが、出し続けていた二科展への出品を休み、小品を描いて、12点も開運橋のジョニーへ飾ってくれたのです。
その絵はキャンソン紙ボードに油彩で描かれているもので、B4からB3の大きさ「打楽器奏者」「フリューゲルホーン奏者」「唄うケイコリー」「ソプラノサックス奏者」「ベーシスト」「エレキベーシスト」「街角でバスクラリネット奏者」「ジャズタイム」「サックス奏者」「ジャズピアニスト」。「えーッ!これ油絵なの!」と皆がいう。2017年度浅井泰雄作品展in CAFÉ JAZZ 開運橋のジョニーは12月10日から2018年1月10日まで。珈琲でも飲みながらどうぞ!観にいらして下さい!。

幸遊記NO.360 「松橋幸正の魅惑的なクラリネット」2017.12.4.盛岡タイムス
 先週、釜石のタウンホールの事を書いたばかりのところへ、ひょっこりと、開店少し前の開運橋のジョニーへ現れた釜石の松橋幸正(ゆきまさ)さん(76)。ヤアヤアお久し振りと話がはずむ。かつては釜石のピアニスト故・坂野のぼるさんのユニオン・シックスにいた方で、アルトサックスとクラリネットを吹く彼。「今、吹くのが大変になってきたので、もっぱらバイオリンをやっている」というから、こちとらはビックリであった。
 彼の本職は美容師でマツミ美容院の店主。27才での開業だったから、丁度50年。店は釜石中妻町なので震災はまぬがれたが、ちょうど髪を切っている最中の地震で大変だったと言う。昔ベニーグットマンのクラリネットの音が大好きで、中学からクラリネットを始め18才の時には市内にあった「太平洋キャバレー」でクラリネットを吹いた。
 それが高じバンドマンになりたいと上京し美容院に勤めながらその機会をうかがっていた時、キャバレー「エンパイヤ」に勤める女性客にその話をしたら、五反田のキャバレーバンドに入れて貰える事になり、行ったら、クラではなくサックスを吹くことに。チェンジバンドで歌謡曲を吹き、ちあきなおみなどのバックをつとめた。
 釜石へ戻って美容院を開店したのが1967年、昼パーマ、夜は坂野のぼるさんがいた「銀河」というキャバレーでクラリネットを吹き。のち坂野さんが独立して開いたスナック「ノクターン」でも演奏。1989年(平成元年)から始まった釜石オリジナル歌謡シリーズでの伴奏では、坂野のぼるさんのユニオン・シックスでアルトサックスにてレコーディングに参加した。その録音などは僕が担当しジョニーズ・ディスクで制作した五巻のカセットテープで15曲のオリジナル曲。ながしばまさよし作詞、坂野のぼる作曲のコンビによる、釜石の自然と歴史と文化の伝承というものでした。
 松橋幸正さんが僕の店で、遠野市在住の故・菊池コージさんのドラムと盛岡在住の藤原建夫さんのピアノ、高橋勝親さんのベースと共に「魅惑のジャズクラリネット」というライブを開いてくれたことがあったなあと、彼が帰ってから思い出し、調べてみたら2005年5月27日(金)のことでした。

幸遊記NO.359 「金野克人の釜石・タウンホール」2017.11.27.盛岡タイムス
 今年(2017)の4月頃から、電話だったり、新聞の切抜きを持参しては、「これ誰が書いてるかご存知ですか」「書いている人の名前わかりますか?教えて下さい」という問い合わせが何件もあった。その新聞は「交差点」という何人かの持ち回りコラム欄。問われたエッセーのタイトルには「入試問題」「訳本」「渡辺貞夫」「映画館」「ブロッツマン」「ニューヨーク」「街の本屋さん」などなどだが、すべての著者名は(克)であった。
 恒例となっている一関ベイシーへの大人の遠足、今年4月28日、マスターの菅原正二さんが「俺は朝日新聞に、ジョニーは盛岡タイムスに、タウンホールは岩手日報にとジャズ喫茶の連中が3人も新聞に書いてるんだから、ジャズ喫茶は盛り上がってんだなと思わせようよ!」と言って僕を笑わせた。そう!三人目の(克)さんが、1980年に開店した釜石・タウンホールのマスター金野克人(こんのかつひと)さん(63)なのだ。
 11月23日釜石市のシーガリア・マリンホテルで行われた、釜石オリジナル歌謡同好会(長柴政義・会長)主催の震災復興事業感謝祭(チャリティ)に友人達と5人で行って来た。震災で消えた街、大槌にあった岩手最古のジャズ喫茶「クイーン」の跡地にあったコンクリートの土台もすでに消え、復興は徐々に進み、まるで知らない街のようであった。
 釜石のタウンホールは二階にあった店だったために一階天井まで水没したが店は無事だったので6ヶ月後に再開。最初に鳴らしたレコードは、彼の最も好きな、ジョンコルトレーンのアルバム「トランジッション」。ジョンの命日7月17日に毎年彼のレコードを掛け続けていた彼らしい再スタート。(ふり向けば 海はそのまま 冬かもめ・菊地十音)
多少は年令を重ねたが、ハンサムで背が高く、スマートでダンディな彼は、岩手ジャズ喫茶の若手のホープと言われてのスタートだったが、今も店は彼の文章のように端正な開店当所の雰囲気のままに、年数を重ねたことを感じさせないくらいきちっと整理され、営業年数のあかや汚れも見当たらないほどキレイで、まさにジャズ喫茶の鏡のような店。日大法学部を卒業し、26才で彼を生んだ母が体調くずしたために、釜石に戻り彼も26才でジャズ喫茶・タウンホールを生み、育ててきた。

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