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昨2017年4月23日、コールサック社から発売なった森三紗さんの本「宮澤賢治と森荘已池の絆」の刊行祝賀パーティーが、今年(2018)1月28日の午後1時半よりサンセール盛岡であり出席した。開宴少し前に会場へ着くと、受付で、もう始まってますのでどうぞだった。えっ!と思ったが、始まっていたのは「ラトゥールカルテット・山口あうい・馬場雅美(バイオリン)熊谷啓幸(ヴィオラ)三浦祥子(チェロ)による弦楽四重奏の耳洗う音だった。
その前夜、実は出版元のコールサック社の代表・鈴木比佐雄さんと盛岡出身で埼玉詩人会会長、村上昭夫研究「雁の声」を主宰している北畑光男さんが開運橋のジョニーへ現れてビックリ。話を聞けば、村上昭夫(啄木・賢治に続く動物哀歌で全国的に知られる詩人、1927~1968)の資料が収められている北上の詩歌文学館や盛岡の先人記念館へ行き、そして昭夫さんの末弟・成夫さんにお会いして来たばかりだと言うのだった。 又、1ヶ月前にはそれこそ同・コールサック社からの「宮澤賢治の心といそしみ」(2015年度第25回宮澤賢治賞受賞作)の著者・吉見正信さん(幸遊記№155)が来店し「森三紗さんの著書出版のお祝い会をやろうという者がいないから俺が声をあげ出版パーティーをやることにした」と言う。「さすがだなあ」と僕は心の中で一礼。 その「宮澤賢治と森荘已池の絆」の著者・森三紗さん(73)は父、荘已池(そういち)が生命の次に大切だと言っていた賢治からの書簡(21通)を目にし、教師として花巻に赴任。宮澤家に1年間寄寓した時、戦災から命がけで守ったという茶褐色になった原稿を賢治の弟、清六さんから見せてもらったことが、彼女にとっての賢治研究と平和の祈りの原点であるという。 今年お正月に僕は賢治の弟清六さんの孫・和樹さんから林風舎にて昭和28、29年頃に賢治の父・政次郎、母・イチさんら家族4人が「悪いごとしたごども良いごどしたごども書いて残して頂いたことはほんとにいいことだ」とか「あのわらすは、なかなかするどい」などと言っている生録の音声を聞かせて貰った縁の不思議。森三紗さんは1943年盛岡生まれ。2016年新装再刊なった「ふれあいの人々、宮澤賢治―(森荘已池ノート)」(盛岡出版コミュニティー)の解説者。詩人でもあり「カシオペアの雫」など数冊を出版している。
今年(2018)の年賀状は1月8日以降に差し出す場合、10円分の切手を貼り足していただく必要があります!と日本郵政株式会社の全戸配布年賀状。お蔭様で7日夜9時までかかって宛名を書き、女房に郵便局へ持って行かせた。まにあうの?あと何枚?はらはらしながらずーっと僕の作業を見ていたお客さん達が、マスター!一杯どうぞ!おめでとう!僕に飲ませたいのをガマンして待っていた!というのだった。
僕の今年の年賀状は「戌信伝心(いしんでんしん)」2018.の書。表にはTOSHIKO・AKIYOSHI!NEWS!NEWS!NEWS!4月17日(火)19時盛岡市民文化ホール・穐吉敏子米寿記念コンサート・88才88鍵・ジャズピアノソロ・の告知。折り返し予約のメールや電話が入り、正月早々嬉しさでいっぱいになりながら浮かんで来たことば「年賀状=念願状」だった。 そう思いながら今年届いた賀状を読み返すと「素晴らしい一年でありますように」。「明るく平和な年でありますように」。「いいこといっぱいぬくもりにあふれる一年でありますように」。「ご健勝とご多幸を心よりお祈りいたします」。「よりよい年になりますように」。「ワンダフルな年になりますように!!」。「にっこりほっこり笑顔の花が咲きますように」と、送り届け先の人々の一年の幸せを想うことばの数々は真に念願!。 又「金が信念・とは申しませんが」と金の氏。「かわりばんこ雪の甘露をくみかわし水仙たちは初春いはう」と歌人。「83才とぼとぼと歩いています!」と講演行脚の和尚さん。「バンドマン五人客五人ジャズ暑し」と俳人女性。「一念をこの一年に!」と画家。「人前で演ることなく山中にてオオカミの遠吠えの毎く叫ぶのみ!」と独然尺八奏者。「禁じ手の出力4倍真空管シングルアンプを試作中」とジャズキチ農園主。「悠久」と文筆家。「食われても良し、潰されても良し、干されても良し!」とワインソムリエ。「勝手なことばかりしゃべっているオバサンたちに今年もガマンしてつきあって下さい」と読語家。「地域活性化でナンバーワン!米の消費拡大でおかわりもう1ワン!」と広徳家。ワンコの里の森林資源活用観光を!とイヌセンボンタケ茸写真の森林インストラクター。「穐吉敏子さん米寿ソロ凄いですね。豪雪に負けぬよう僕も頑張らねば!」と北の寺から。
茨城県水戸市から、ご夫妻で「開運橋のジョニー」へやってきた小山田貢さんに「マスターもどうぞ」と赤ワインをおごっていただきながら、僕の姉も茨城県常総市に住んでいるんですに始まり、問われるまましゃべりだし、レコードの話になり、彼も持っているという和ジャズ・ディスク・ガイドの本「Japanese Jazz 1950S~1980S(リットーミュージック刊・2009)に至った。
その本の裏表紙と巻頭グラビア1頁目に載っている、「海を見ていたジョニー」(坂元輝トリオ・ライブ・アット・ジョニー)と「トシコ=マリアーノ・カルテット・イン・ウエスト・サイド」は、帯付き美品なら中古市場価格10万円の高値で取引されているといううわさが随分前からあったから、上京の度中古レコード店で探してたら、一昨年遂に見つかったのが「トシコ=マリアーノ」(ニッポンレコード・1963年発売)のウエストサイド盤、飛び上がらんばかりに喜んだら、帯なしでも9万8千円!4階の自分の店から飛び降り覚悟で月賦で買ったものでした。 このレコードは2度目の帰国公演だった「トシコ=マリアーノ・カルテット」の日本でのデビュー盤。僕が中学校を卒業した時の1963年3月30日、東京杉並のテイチク・レコードのスタジオで録音され、当時大阪にあった、ニッポンレコードから発売された(NS・1001)幻盤!しかもサイン付!ウッヒョー!であった。のち、タクト・レコードから再発された盤がオリジナル盤だと思っている人が多くいるのは、それすら入手困難だからなのだが、本物のオリジナル盤には、なんと秋吉敏子さん自ら「アルバムを作るにあたって」とライナーノーツを書いていた。それによれば「アメリカの人気プレイヤーたちのまねしたプレイでなくても独自のカラーが如何に新鮮なものであるかということ、そして音楽は自然で美しく、楽しいものであるということを考えつつ選曲しました」である。 その独自カラーの演奏で思い浮かべるのは1980年録音の「海を見ていたジョニー」(和ジャズの名盤中の名盤といわれる)が何と昨年2017年遂にLPレコードで東京・HMVから再発になり、初版プレスはあっという間に売り切れたもよう。この話に小山田さんはCD「海を見ていたジョニー」と「秋吉敏子トリオイン陸前高田1980」を買い上げお釣りはご教授代にと言った。
ニューヨーク、ニュージャージー、コネチカットなどの日系のスーパーマーケット、レストラン、書店、病院、日本人学校、旅行会社など数百箇所にて配布される日刊の無料新聞(日本人企業の広告でまかなわれている)「デイリー・サン・ニューヨーク」(2万部発行)のアートディレクターを務める森隆朗さん(43)がヒョッコリ開運橋のジョニーへ現れ、僕を喜ばせた。
彼と出会ったのは2003年。盛岡の四十四田ダム近くに1年だけ存在した「カレー&喫茶・ギャラリー・1244」。あの頃彼は市内の広告会社でクリエイティブ・デザインを担当していた時期。「1244」で2004年1月12日の成人の日から、2月11日の建国記念日まで「森隆朗(たかあき)デザイン展「PRAM・WITH・EARTH」開催が決定していた。 その開催直前に、ジャズピアニスト・穐吉敏子さんが30年間持っていた「ジャズオーケストラ」を解散(解体)することになって、その最後の演奏が12月29日にNYのジャズクラブ「バードランド」で行われるのを聴きに行こう!と「ジョニーと行く秋吉敏子への旅・2003」を企画していた時で、彼、森君も行くことになった。しかも、彼があこがれているデザイナーがNYに居るというのだった。その人の名は橋本純さん(僕の友人で気仙沼市出身・幸遊記№268)でしたから、じゃあ紹介するからとNYで就職活動することに!。 だが橋本さんは日本の実家に年末帰省中。で、森君は彼の奥様に会い、紹介先で面接し決まったのが現在の「デイリー・ワールド・プレス社」だった。間もなく本格的に渡米!となって「1244」でのデザイン展は幻となったが、今ではニューヨークの新聞紙上にて毎日が彼のデザイン展であるとも言える。 2008年に帰省した時のNYみやげは、彼がアート・ディレクターとして制作に携わった「ニューヨーク便利帳Vol・14(2005)」だった。これは食生活や鑑賞、ナイトライフから人材募集まで、ニューヨークのすべてがわかる686ページもの分厚い大版本。不来方高校、秋田県立美術工芸短大を卒業して、デザインの仕事につき、将来はアメリカで6年は仕事がしたい!だったのが、すでに14年。久し振りの対面となったが、いまだ、出会った時のままのような青年の顔をしていることに驚いた僕、顔も自分でデザイン!?
年越しの31日、元旦と店を休んだ。31日は女房が一関のベイシーに行きたいというので、車を走らせる。車は、義娘からのクリスマスプレゼントの、お下がりマーチ。初のナビ付き!小さくて運転しやすいかわいい車だ!。昨年11月11日、12年一緒に居た、室内犬チワワのゴウくんが亡くなった。そのことで話し相手が居なくなり、ストレスだらけなの!と、常連客に話ながら僕の顔を見る女房に、ケンという名の僕はうん!ともすん!ともいわずにワン!と笑う。
一関に向う東北自動車道途中・金ヶ崎付近を通過中、奥羽山脈の雲の中に沈み行く黄金色に輝く太陽と、その美しい夕焼けを見た。5時頃ベイシーはすでに本日終了の貼り紙 だったが、ドアを開けて店に入れば、常連の客。僕等が座ると次々と客がやってくる。菅原マスターは「さっぱり閑で、誰も来ないから閉めたのよ!そしたら来るんだもんな」と笑いの話とクラシックで一年の〆。 「昔は、味噌屋・菅東の蔵だった(現・ベイシー)で一関一高時代夏休みのアルバイトで攪拌や煮豆運びをした。学校では上野音楽学校(現・東京芸大)卒の古藤先生(疎開で 一関に来た人だった)が、解説してくれた“オールマン・リバー”の歌は忘れられない」といつぞや言っていた盛岡の小野寺靖さん(80)のことが、ふと頭に浮かんだ。「当時正二(昭二)さんは小学生でしたね」とも。 その正二さんが鳴らすサウンドを僕は密かに「エア・ソニック」と名付けている。体を揺らす程の大きな響と音圧、なのに心地良い!つまり店自体が巨大な一個のスピーカー・ボックスであると思えば簡単だ。その箱の中の音圧を適度に逃がすのがバスレフ方式の穴。それをヒント?に一階天井(二階床)の一部をはずして、音圧を上へ逃がす。つまり音楽を鳴らすスピーカーと聴くスペース(部屋)を、巨大なスピーカーボックスの中で完結させてしまっているのだから、実音よりデカイのに気持ち良く体を包みこむ音となり、皆その魔法にかかってしまうのだ。「ベイシーへ行くとあの蔵の中に入っただけで、すっぽりと母親に抱かれたように癒されるから、昔っからストレスがたまるとベイシーに行ってたのよ」そう言う女房のひとことは、まさにそれを証明して余りある。元旦の朝に開運橋の上で初日を観た今年の僕。開運橋のジョニーの音?もちろん快音!バシッ(橋)!。 |
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