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「常連客」とだけある、差出人名のない封書が届いた。おそる恐る封を切る・出てきたのはB4のコピー1枚。週刊新潮2018年4月12日号の52~53Pに掲載された、作家・五木寛之氏が連載中の「生き抜くヒント!」(連載第194回)の「百年人生とハラスメント」の主題。途中の「広がる荒野」そして最後の小題「米寿記念コンサート」その下にサインペンで注目!矢印が付いていた。とりあえず、そのその部分を読み進むと「オイハラ(老ハラスメント)に心を悩まされているおりに明るいニュースが届いた」とあり、「おなじみ陸前高田のジャズ喫茶・ジョニーと盛岡の開運橋のジョニーとが、共同で穐吉敏子米寿記念コンサートを開催するという。八十八歳のジャズピアニストの健在ぶりは百歳人生時代への力強いメッセージである。荒野をめざす見事な人びとが、ここにもいる」とあって、僕はジーンと目頭が熱くなった!。
昔は人生50年と言った時代があり、70才は古来より稀(まれ)だったことから70才は古希とされているが「夏目漱石がロンドンに留学していた頃、日本人の平均寿命は40代前半だったという。最近は人生百年時代とか百歳人生時代と、しきりに騒がれている」と五木寛之氏。 僕等団塊の世代が20才前後だった頃、五木寛之作詞の「青年は荒野を目ざす」というレコードが発売になって当時僕はそのはしだのりひことフォーク・クルセイダーズのシングル盤を買いよく聴いていたが、そのレコードのB面に入っていた歌というのが北山修作詞の「百まで生きよう」だった。いまから50年も前に人生百歳時代を先取りしていた歌だったといまにして思うだが、ここまで書いて思い出したことがある。それこそ僕の店の常連客である伊藤洋一さんから昨年聞いた話「父は6人兄弟の末っ子なんですが一番上の長女・タエ(叔母)さんが11月下旬114才で亡くなった」というのだった。「えーっ!114才?」と僕は耳を疑いながらも、ひゃくじゅうを超えた人!114才の人生の重さとその深さを想った。伊藤さんが「どうやら世界8位の長生きだったらしい」とも(凄~い!)。我等が穐吉さんは、88才88鍵日本ツアーを敢行中である。これも凄いこと!。
業界紙、月刊ジャズワールド4月号その一面トップ「国際ジャズ名声の殿堂入りを果たした秋吉敏子、北海道から九州まで米寿記念コンサート敢行!」の見出し。4月3日札幌「coo」。6日広島「善正寺本堂」。7日三重「津市文化会館」8日岐阜「STUDIO・F」。10日大分「BRICK・BLOCK」。11日東京「板橋区立文化会館大ホール」。13日静岡「袋井市月見の里学遊館うさぎホール」。14日東京「赤坂B♭」。15日山形「シェルター本社ホール」。17日岩手「盛岡市民文化小ホール」。21日東京「ディナーパーティ」。27日福島「福島市音楽堂ホール」。30日神奈川「横浜ドルフィー」。3日大阪「高槻市コンサート」の一ヶ月間14公演。
米国立・J・Fケネディセンター「生きたジャズの伝説賞」。米国立芸術基金「NEA・ジャズマスターズ賞」などなど日本人初となる受賞の数々を手中に収めてきた彼女が、「これまで私を何度も呼んで下さってきた人たちのところだけを歩きたい」と、2年前に計画を立て今日に至った。初日となった3日の札幌は2年前の2016年9月に銀座・ヤマハホールに呼ばれて帰国し、リサイタルを開いた時、彼女はカゼをこじらせ体調最悪状態。楽屋では僕を含める3人しか会えなかった。そこで聞いた話は翌日昼に長時間の新聞取材があること。夜は、代官山でのライブ、そして翌々日札幌の予定。ところが翌日に肺炎を起こし札幌には行けなかったことから、真っ先に!と今回は札幌からのスタートとなった。 札幌は2年前予約していた人達から優先的に案内されたと帯広の穐吉ファン・井上洋一さんから電話があり彼は札幌で聴き、盛岡にも来るという。穐吉さんは「昨年88歳の誕生日、12月12日に目の手術をして、ヤギュー何とかさん(柳生十兵衛)のように片目ですが、日本に帰る頃には完全になってると思います」とのFAXが届いていたけれど、まだ完全ではないらしく、「鍵盤の位置がずれて見えたり、ホテルでは床と同じ色の大理石段差に気付かず、転んでしまい足が痛い」と6日昼に彼女からの電話だった。それでも「今夜の演奏のためにこれからヤマハに行ってピアノを借り練習して来ます!」と元気な声。鍵盤と同じ数の88歳、生涯現役を貫く姿勢は感動ものです。
「おそれるな、がんばるんだ、勇気の花がひらくとき、僕が空をとんでいくから、きっときみをたすけるから」と、あの7年前の東日本大震災の被災地に勇気を与えたアンパンマンは、2013年10月13日94才で亡くなられた漫画家・やなせたかしさんの作。そのやなせさんが、陸前高田で被災した「ヤマニ醤油」のために描いた「しょうゆ天使」ラベルは、ヤマニマークのティアラを付けた天使が、お日様耀く海の上を、しょうゆさしを持って配達する、何とも可愛らしい姿。
被災前、このヤマニは御用聞きと称された商法(醸造元が直接お得意様のご家庭を回って販売し、意見を聞き歩く)をやっていた会社であったから、一般的な自社の味を押し売りするのではなく、時代と共に変化するお客様のニーズにあわせ、顧客の味覚を一番としてきた蔵元だった。そうすることで客が客を呼ぶ、いわゆるお客様こそ会社の研究員であり工場長であり、営業部長であると四代目社長の新沼茂幸さんは言う。 被災後、花巻市の佐々長醸造の蔵を借りての製造だが、基本となっているヤマニの味は完全復活して、現在は僕の店の近くにあるクロステラスなどでも販売しているので、そこから買い使いしているのだが、震災以前は陸前高田まで仕入れに通った。最近社長と久し振りに会い話をしたら、どれでも何本でも届けますと上級とほんつゆを持って来てくれた。僕は再び「ご用聞き」を利用することになってストレス解消!。 たまに「ジョニーのたべものはおいしい!」そう言ってくれる声の元は、味にうるさい女房と、基本となっている醤油。僕はその醤油に市販のこうじを入れておき更にまろやかな味にして使う。味噌も新旧あわせておけば、より早くおいしくなるのでそうして使い、酒類にはスピーカー振動と超音波熟成機器での再熟成。全ては自分と自分に関わる人の体のため。現女房の小春は知り合った頃ヨナヒナで病気のオンパレードだったが、日に三食僕の作る手料理で完璧?な健康体となり元気に孫の子守。彼女の昔を知る同級生は「本当に死んだだろうと思っていた」「生きてるはずがない人」だったらしいから、元気百倍の姿に皆ビックリ。その女房の味へのうるささを減らす努力をする僕。それはお得意様からの味への意見、要望を取り入れるヤマニ方式と一緒だっと、しょうゆうことに気がついた!。
盛岡駅から開運橋を渡り開運橋通り2つ目の信号交差点を渡った左角に古い公衆電話のあった酒とたばこの「伊藤酒店」が道路拡張工事の為解体され、この春姿を消した。経営していたのは伊藤泰二さん(84)美佐子さん(84)ご夫妻。道路拡張が発表されたのは僕が盛岡に来た2001年の春。当時僕はヘビースモーカーでロングピースを日に3箱(60本)起きてから寝るまで、ひっきりなしに吸っていたことからよく店に買いに走った。ところがある日たばこを吸うと体がビクッ!ビクビクッ!とあちこちケイレンするようになり、これはやばい!と誕生日だった2003年4月20日、30年間吸ったたばこをやめた。
話が外れた。伊藤酒店のご主人にいつだったか店の2階に案内され、通されたところは美術家の故・福田隆さん(1917~1991)が亡くなられるまでの10年間使っていたという創作室「青柿坊」だった。福田隆さんは「おひげさん」と呼ばれ、彼の一生は「人を愛し、酒を愛し、日々是好日の境地」だった様子だが、太平洋戦争、シベリア抑留、戦後は美術工芸教師、染め絵作家、さらには俳人、エッセイストとして市井に在り続けた人であったらしい。その部屋で「染め作品が出来る度に1枚必ずくれたので、それを全部額装している」と見せてくれた。それはまさに、師・汲泉氏の泉を汲んで飲んだがごとき同系作品の数々。そして「青柿坊」を訪ねて来たという人達との写真に登場する長岡輝子、深沢紅子、栗原小巻、杉村春子、樫山文枝、斉藤美和、秋山ちえ子、船越保武、藤井勉氏等々の顔々。 伊藤酒店の奥様・美佐子さんは宮古の出身の方、それこそ福田隆さんの師・中井汲泉氏(1892~1970)の京都の家にも行ったのよ!そしてこれ船越保武さんに描いてもらったのよという美佐子さんの横顔色紙を見せて貰ったら、“なんという美しさ”であった。更にもう1点と深沢紅子さんの花の絵(昭和49年5月18、額装した人・福田隆)の裏書まで拝見。 そうだ3月25日は美佐子さんの誕生日。福田隆さんが作った昨日までのような「どごがで泣いでる吹雪いでる、足コ冷(つめ)でど鴉(からす)の子、橋のたもどのおら家さ来(こ)」。や今日のような「お山の雪コとげ出すて氷(すが)コいっぺ流れでる、土手はばっけァやめめんこ」の北上川昼曲の詩がふと頭に浮かび、以前「しゃぼんだま随想・福田隆」「夢十夜・中井汲泉」この2冊を僕にくれた2人の女性の顔も浮かんで来た。ああ!春だ!幸福だなあ!
先日本屋でふと目に止まった「日本ロック&ポップスアルバム名鑑」1966~1978.そして1979~1987の2冊(2014株・ミュージックマガジン)。僕がレコード作りを始めたのは1978年からだから、もしかしてと79~89版を手に取りパラパラとめくってみると、ありました!「ジョニーズ・アンダーグラウンド~ベスト・オブ・ジョニーズ・デイスク」の紹介。
「岩手県陸前高田のジャズ喫茶ジョニーが78年に発足させた独立自主レーベル・ジョニーズ・ディスクがリリースしてきた各種音盤の中から、主にジャズ系ともいえるものと、それ以外の雑多な作品をそれぞれ1枚づつコンパイルしたCD2枚組。78~02年までの音源だが、79~86年の作品がかなりの部分を占める。ムード歌謡・ジャズ・ラップ・演歌・シャンソン・テクノ・ブルース・ジョニーのマスター照井顕の歌、など特異で頑固な音楽する自由を伝えるパワーが放出されている」(湯浅学)。 その中、僕の歌だけはジャンル分けせず?出来ずに?“照井顕の歌”としていることが気に入って買い求め、全ページに目を通すと、もう1枚のジョニーズ・ディスク盤がありました。そのタイトルは「職業・三上寛・古澤良治郎」JD-16・1987年発売盤。「1979年6月に岩手県陸前高田市民会館で録られ、三上がアルバムを出していない時期に出たライブ盤。既発表曲ばかりとはいえ古澤良治郎とのコラボレーション初作。ジャズドラムと和太鼓が混じった(太鼓の音のようにも聴こえるが実はドラムの音)グルーブが曲に新たなビートを吹き込み、朴訥とした佇まいながら雄弁なパフォーマンス、モノラル録音ながら音質まずまず」(行川和彦)とある。 先のベスト盤はイリシューした監修者・若杉実さん(ミュージックライター)が僕がデザインした顔半分のレーベルマークを反転させプラスした普通の顔?ジャケットで変に目立つ盤!。三上、故・古澤の「職業」はイラストレーターの黒田征太郎氏が、描いてくれた音符を銜(くわ)えた1本足の鳥の絵。その足は何故か人間の足という不思議なジャケットでモノラル録音と相まって話題となった三上さんの傑作レコード!(良好な中古盤で今15万円もするそうです)。するとそこに本田珠也さん(故・本田竹広の息子・ジャズドラマー)から「昨日三上寛さんとデュオだった。照井さんの話もしたよ」のメール(2018年3月15日)が届きビックリ! |
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