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このところ、それこそ連載風に穐吉敏子さんの米寿記念ジャズピアノソロツアーのことを書いてきたが、東京のジャズワールド社が発行している月刊のジャズ新聞「ジャズワールド」2018年5月(通刊471号)に依頼されて書いた800字詰4枚の原稿「穐吉敏子日本縦断米寿記念88歳88鍵ジャズピアノコンサート」(顚末記)が第一面トップ記事として掲載になってビックリ。だが、考えてみれば穐吉さんの記事、しかも緊急入院された話までとなればやはり、日本ジャズトップの話題なのだった。
その彼女の予定していた4月27日の福島市音楽堂ホール。主催の「福島市音楽を楽しむ会」の代表・松本秀勝さん(幸遊記№294・音楽で世界平和を)にキャンセルを知らせた時、彼は、あっさりと「じゃあ、穐吉敏子さんのレコードコンサートに切り替えます。ジョニーさんレコード貸して下さい!」だった。その決断の早さと、懐かしさをともなう、そのコンサートに僕はLPレコードを持参した。 コンサート会場の受付でチケットの払い戻しをしながら、無料の穐吉敏子レコードコンサートを案内。会場入りしたファンは穐吉敏子=ルー・タバキンビックバンドのデビューアルバム「孤軍」を始め「ロングイエローロード」や「インサイツ」などの名盤の数々を世に送り出した井阪紘氏(幸遊記№162)の解説とそのエピソードを聞くまととないチャンスに恵まれたのでした。 事の発端は「照井ちゃんと久し振りに話したいから、僕は福島のコンサートにも行きますよ。穐吉さんのコンサートが終ったら、どっかで一緒に飲もう!」と言うことになっていたから、まさに渡りに舟だったのです。でも彼にコンサート中止を知らせた直後にはホテルをキャンセルし翌日朝から仕事を入れてしまってた。でもレコードコンサートのこと言ったら、戻るので終わりまで居れないけどそれでももしいいならと、福島へ来て解説してくれたのです。しかも話を聞けば福島音楽堂ホールは懐かしい!ここのパイプオルガンをお世話したのも、その音を初レコーディングしたのも僕だったのよ!と。松本さんが案内してくれた喫茶店で井阪紘さんの話を聞いた。彼は今年39回を数える「草津夏期国際音楽アカデミー&フェスティバル」のプロデューサーでもある。
宮城県気仙沼市にある三陸新報社の社員である佐々木照江さん(59)が、先週のこの欄に書いた穐吉敏子さんの米寿記念コンサートを聴きに盛岡へ来て、翌日午後に開運橋のジョニーへ寄ってくれた。彼女は僕の陸前高田時代には時折店に来てカウンターに座り、穐吉さんが来ると知れば必ず聴きに来ていたし、気仙沼では海蔵寺の住職だった故・大場文隆さんが主催する穐吉コンサートではいつも楽屋係を仰せつかっていた。
「私が穐吉さんを知ったのは女性雑誌・MORE(1983年4月号)。その記事を読んでこんなにも素晴らしいピアニストが居るんだぁって、感動したんです。そしたら、その人のコンサートが陸前高田であるって、新聞社に手書きの原稿を持って来た人がいて、私それをタイプ(写植)打ちしたんです。それが照井さんとの出会いでした。持ってくるたび打ちましたよ」と笑う。 小学5年で母、中学1年で父、3年で祖母を亡くし、父の妹の嫁ぎ先にお世話になって、鼎ヶ浦女子高校(現・気仙沼高校)を卒業。三陸新報社に入社したのが1977年。その後「モア」を読み、憧れの女性となった穐吉さんと出会い、コンサートを手伝いながら、人間としても大好きになり、「穐吉さんの自伝“ジャズと生きる”(岩波新書1996)にサインを願ったら、“私が一番好きな言葉です!”と言って“一期一会”と書いてくれたのです」それは照江さん自身が一番大切にしていた言葉だったから、物凄く嬉しかったのだとも。 2004年気仙沼市のホテル観洋で行われた穐吉さんのソロコンサートの後の打ち上げがホテル内のパブ。「中国人のダンサーと歌手が終演後、客の相手をするため席について水割りなどを作った時、穐吉さんは隣りに座っていた私と、その歌手を両手で抱き寄せ頭をくっつけて、“誇りを持ちなさい。やりたいことは曲げちゃいけない!アーチストがこんなことをするもんじゃない!”と言いながら涙声になって二人をギュー!と抱きしめてくれた穐吉さん!あれは私の宝になりました」。「日本のジャズ界をリードしてきた唯一の女性“決して折れることをしない音楽への真摯な姿勢、強靭なしなりを感じさせる”」と書いていたあの「モア」の記事そのまま照江さんも穐吉さんの生き方に憧れ続けている。
穐吉敏子さんの88歳88鍵記念録音盤「マイ・ロング・イエロー・ロード」というジャズピアノ・ソロ2枚組CDの制作発売をしたスタジオソングスの岩崎哲也氏から「秋吉さんより伝言あり、以降のコンサート、キャンセルして下さいとの事です。時間ある時に電話下さい」とメールが届き、心臓が止まる程驚いた。目の前は一瞬にして真っ暗闇!すると脳は、その原因を突き止めようとするのかパニック状態となって頭の中が真っ白!少し冷静になってからもう1度メールを見れば、岩崎さんからの“未読の先着”メールがあり「秋吉敏子さん入院しました。電話下さい」僕の落度でのキャンセルではなかった!と胸なでおろすと同時に、それは大変!と、彼に電話!すると「袋井市でのコンサート後、ホテルで深夜に具合が悪くなり、救急車で病院に運ばれたらしい」というのだった。
ああ、どのようにして皆さんに中止を知らせるか。すでに使い込んでいるコンサート経費のこともあり、払い戻しの現金をどうやって工面するか、又僕が担当している福島と横浜の主催者へのキャンセル通知とその対応をどうするか?それより何より、穐吉さんは一体大丈夫なのだろうか?心配で心配でどうしようもなかった。誰にも何も言わず迎えた当日(4月17日)、前売の全員を会場に入れてからドアを閉め、当日券を求めて並んだ30人程の人に初めて実は穐吉さんが会場に来てないのですと知らせ、お帰り頂いたが、それでも会場に入りたいと残った人達もいた。 開演のベルが鳴り、僕はトボトボと舞台へ出て行き、事の説明。誰もがどん底へ突き落とされたかのように静まり返ってしまったけれども、皆さんそれぞれが、穐吉さんを心配しているのだと、逆に僕の方にひしひし伝わって来るのでした。 その日は急遽、穐吉コンサートを聴きに来る予定のバンドマン、歌手、ピアニストに声をかけ、演奏してもらうことにした。しかし世界の穐吉を聴きに来るファンの前で代演することのプレッシャーで大変そうでしたが、逆に、それが皆良く作用し、それぞれが名演をやってのけたのですから3ステージとも全アンコール。終演後の払い戻し最中に「最後のアカペラによる穐吉さんの曲、ホープのソロも感動でした!」と涙ながら語る人。そして「絶体絶命のピンチから飛び立つ不死鳥の姿を見ているような最高にドラマチックなコンサートでした」と払戻金を受け取らないで帰る人もいて、ピンチを救われました。
東京神田のアデロンダック・カフェで、ジョニーさん!この方ラジオ・ニッケイの小西さんです!とマスターから紹介され、差し出された名刺には番組担当プロデューサー・小西勝明、だが彼は啓一ですと言った。僕の頭の中で大切なものを仕舞い込んでるジャズ棚の扉が自然に開いた。僕が店を始めた1975年創刊になったジャズランド誌。確かその76年正月。彼、小西啓一氏が執筆していた「ジャズプロデューサーについてのこと」
「若い演奏者がどんなに優れた力量を持ち、圧倒的な演奏をしても、その能力を認めレコーディングの機会を持たせてやる様なプロデューサーとの出会いが無い限り、その人は幻のように、永遠に、ジャズシーンから消えていってしまうのだ」という様な事を書いていた。そしてその「プロデューサーとは音楽に対する深い愛情と、その音楽を正確に判断できる耳と、自らの音楽感を持ち、確固たる信念にもとづく気骨ある制作の必要性」を書いていたのだ。 そんな彼が担当する短波ラジオの「テイスト・オブ・ジャズ」は1950年代から続く最長不倒記録を持つライブ感たっぷりの人気番組。その2018年4月21日(土)18時からの放送は盛岡出身在住のジャズシンガー・金本麻里さんをゲストに虎ノ門琴平タワー21階にある日経ラジオ社のスタジオから山本郁(かおる)アナの進行で、小西ディレクターの元でオンエアーされ、その後21、22、29日の再放送。更には来月5月6日、日曜22時30分からの最終再放送があるので、短波ラジオNIKKEI第一、又はインターネット、radiko.jpで聞いてみて下さい。僕もちらりと出ています。 その番組コメント「小西敬一の今日もジャズ日和・Vol・406ホープガール参上」をネット上で読んでみたら、麻里さんと僕の出会いからデビュー、そして横浜ちぐさ賞受賞のことなどを紹介しながら「彼女の実に堂々とした、気風もよくソウルフルで聴くものを温かく雄々しく包み込んでくれる。大器と言った表現がぴったりなシンガーで、名刺代わりにアルバムを作る新人ジャズボーカリストとは、その心構えや覚悟からして異なり、歌を通して伝えたいものも多くあり、それがダイレクトに伝わってくるのだ。こういうシンガーが地方に居続け、そこに根を張り、活動を続けるその心意気を見習わなければならない」とあった。
4月10日大分県大分市の海辺(小樽運河みたいな処)かつてのレンガ造りの倉庫を改装したライブハウス「ブリック・ブロック」は、九州全域から300人の穐吉敏子ファンでぎっしり埋まり、88才88鍵ソロライブ。僕が声掛けした人達も大阪、長崎、佐賀、別府などから手土産持参でかけつけてくれて、ヤアヤア!と久し振りの再会。同店は創業30周年での、リニューアルオープニング記念ライブ!としての開催で、ステージの上には大形スクリーンも用意され、1階と2階から見る演奏者の姿が交互に写し出されていた。感動の拍手鳴り止まずアンコール3曲!。
翌11日は東京都板橋区立文化会館。羽田からタクシーで穐吉さんと品川のホテルへ直行。そこから僕は一足先に会場入りし、会館ロビーでの東京初開催となる穐吉敏子全レコード展の飾り付けをして、横浜在住で40年来の友、柳澤信広さんの運転する大型ワゴン車で穐吉さんを開場15分前到着にあわせて迎えに行ったのだが、夕方の首都高速道ラッシュに遭い遅刻。急遽緞帳を下ろしての音出し、聴衆600名、内1割程は僕の声掛けで関東圏から集まってくれた人達だから、嬉しい忙しさ。12月に発売になった穐吉さんの2枚組CD88才88鍵ソロピアノ「マイ・ロング・イエロー・ロード」も飛ぶように売れ、制作元のスタジオソングスの社長・岩崎哲也氏も驚きの様子でした。サイン会は長蛇の列で1時間に及んだ。 板橋区長夫妻が招待してくれた打上げ食事会はイタリアン。同席した中の1人に、口羽尚子さん(旧姓・高槻。旧満州時代大連にあった弥生高等女学校の同級生)もいたことから美味しい料理とワインでご機嫌になり久し振りに様々なことを皆に喋ってくれた。その貴重な時間を過して居る時、店の若いシェフにその日、子どもが生れたと聞き、穐吉さんが色紙にお祝いの言葉を書いてあげたから、シェフは大感激して帰って行った。 それはそうと板橋区文化国際交流財団気付で1通の手紙が穐吉さんに届いていた。それによると差出人の父中村哲(あきら)さんというバンクーバー生まれの日系カナダ人2世で、1940年に来日し歌手並びに俳優として仕事をしていた方「もしかしたら穐吉さんが昔いたバンドで父の伴奏した!しない!の問合せだった。 |
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