盛岡のCafeJazz 開運橋のジョニー 照井顕(てるい けん)

Cafe Jazz 開運橋のジョニー
〒020-0026
盛岡市開運橋通5-9-4F
(開運橋際・MKビル)
TEL/FAX:019-656-8220
OPEN:(火・水)11:00~23:00

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幸遊記NO.418 「近江るり子のパーソナルジャズ1971」2019.1.21.盛岡タイムス
 昨年秋に盛岡で行われた気仙同郷会で同席になった会計幹事の近江るり子さん(69)から「昔、新宿にあった厚生年金会館で私、秋吉敏子さんのコンサートを聴いたのよ。その時のパンフレットがあるから、近いうちにジョニーへ持って行きます!」と言われビックリ!それから5日後の11月7日(2018)古い包装紙に包んだパンフをご持参。表紙には「秋吉敏子とTHE・PERSONAL・ASPECT・in・JAZZ」とある。
 時は1971年2月15日から3月21日まで、全国25回公演、彼女が聴いたという厚生年金会館での演奏は初日の2月15日(月)であった。当時、るり子さんは大船渡農業高校生活科を卒業し、上京。会社勤めをしながら4年間青春を謳歌。「自由ヶ丘にあったジャズの“5スポット”や新宿のうたごえ喫茶“カチューシャ”“ACB(あしべ)”などに通っていて、秋吉敏子の公演を知り聴きに行く。「二階席だったけど、めまいする程感動した!」と言う。
 その時買い求めた「B4」サイズのパンフレットは、東京から大船渡に戻った時も、その後転勤族で同郷出身のご主人と結婚し、それこそ度重なった転勤、転居の度にもこのパンフレットだけはと、大事に、50年近く持ち歩いてたるり子さんの「最も大切なこころの青春」。それを穐吉ファンの僕に託す決心をした事に深く感謝せずにはいられない。大切にし活かします。有難う!
 その1971年2月23、26、は公演の休日を返上し、来日のメンバー、穐吉敏子(p)ルータバキン(ts)リンクリステイー(b)アルバートヒース(ds)によるカルテットで「メディティション」というアルバムをDanレーベル(ミノルフォン)に録音。更にツアー終了後の3月17日と4月4日、穐吉初となる「ソロピアノ」をRCAビクターに録音。そして更には、71来日ツアータイトルの「ザ・パーソナル・アスペクト・イン・ジャズ」というアルバムを当時流行の最先端だった4チャンネルステレオ用に日本ビクターに録音。しかもこの4チャンネル用には前年の1970年録音の原信夫とシャープス&フラッツのために書き下ろした「すみ絵」を初録音した時であり穐吉さんにとってもツアーと録音そして自らのビッグバンド結成にもつながるまさに「ダブルエクスポージャー」(二重露出)の年だったのです!

幸遊記NO.417 「小学3年の書初め大会」2019.1.14.盛岡タイムス
 昨2018年の秋、僕の実家の跡取りになっている姪の幸子(長兄の長女)から電話があり、2016年秋に85才で亡くなった長兄・幸男の遺品を整理していたら「ケンちゃんの書が出て来たのよ!」だった。僕は「ああ、そう!すぐ貰いに行くから!」と行って来た。その書とは、半紙に毛筆で書いたいわゆる習字の束だった。
 平小(平泉小学校)一ねんから四年まで。練習したものや清書して学校に提出し、先生から丸一つ、二つ、三つ、a、b、c、それに赤墨で直されたものなど120枚余り、半紙を切りノリで貼りつないだ紙への縦書など、とっくの昔に忘れ記憶のないものがほとんどだったが、今も頭の中に残っているのは「つよい子」。たぶん一年生になって書いた最初の書だったのだろう。花が咲く。うみやま。きくの花。日本ばれ。冬がくる。お年だま。と続いていた。
その一年分を学校から返された春休みに、父がその書を家の中に貼り飾った記憶も甦えってくる。そこへ何かの用事で父に会いに来た人が、書を眺めながら「これ書いた子、俺にあずけさせてくれないか?」と父に言い僕はその人の家、10キロほど離れた平泉駅近くの街場の家に連れて行かれ、何日か泊りがけで書の特訓を受けたのでした。習ったという記憶はそれしかないのだが、初めて持たされた太い条幅用の筆で紙の上に正座してから?書いた光景も浮かぶことから、たぶん2年生の春にも行った?のかも。書は、「6級から3級」うぐいす。あめふり。ふうりん。むぎかり。とりいれ。こがらし。いろり火。もちつき。3年の書は、五月ばれ。水およぎ。大きい月。かきくり。山のぼり。で「特級甲」とある。
4年は、初日の光。林の小道。夏休み日記。寒明け立春。「初段」とあった。この4年生まで通った学校は達谷分校という教室二つだけの複式学級。何かがある時だけ本校に行って講堂の後に並び、何度か名前を呼び上げられ壇上にて賞状を貰った記憶もあったが、その証も一つ出てきた。「昭和31年書初大会金賞、照井顕書」とあるそれは、平成元年に幸男兄が自分で表具した掛軸であった。包み紙には「この家の大切な書」とまでしたためられており、僕は兄に感謝しながら涙ぐんだ。その条幅掛軸の書「あきかぜ / 三年照井顕」三年生から63年過ぎた今年の僕の書初めは旧暦の賀状用「亥国情緒・JAZZ2019」である。

幸遊記NO.416 「元旦のビックバンド三昧12時間」2019.1.7.盛岡タイムス
 今年は暦法・十二支でいうところの第十二番目の亥、動物でいうと「いのしし」。僕の生まれ年であり、4月20日で、その6回目を迎える。元朝と云っても、毎日朝方に寝る僕にとっては深夜なのだが、今年の始まりは自分の歌のCD、1997年7月録音の「般若心経」2002年4月録音の「梵音遊戯(ぼんのんゆげ)」の2枚を聴きながら酔仙の純米酒を飲んで寝た。
 年賀状の中に、着飾った女性の先に立ち玄関からおでかけするカワイイ、イノシシのリトグラフの素敵な絵があって、僕は思わず、“亥ってらっしゃい”と声が出た。僕の秋吉敏子さん好きを知ってる友人夫妻からは二人で山口県の秋吉台で撮った背中写真年賀。確かに僕は秋吉さんの背中を追い掛けてきたのだと知らされた。
 さて元旦は店も休み。いつもの開店時間である午後2時から、メンテナンスをしたステレオ(旧式オーデイオ)の限界大音量長時間再生に挑む。炸裂する管楽器群とリズム陣が一体となって挑む物凄の音符数。それを一糸乱れぬ最速技巧で連動させる強靭なスイング感、コリーダーの汲めど尽きせぬ泉の如く、新鮮に沸き出づるサキソフォンのアドリブ。全ての楽器の特徴を知り尽くし、バンド全員の個性をも引き出し、更に伸ばすため、その上を要求しての説得と説明。作曲、編曲、演奏、指揮、バンドとその演奏の全てを統括して前人未踏の境地を切り拓いた穐吉敏子さん。
 その彼女のビックバンドデビュー作、1974年の「孤軍」に始まり、1986年の「ウイッシング・ピース」に至るまでのビッグバンド(オーケストラ)演奏による(CDを除く)アナログ盤(LPレコード)16枚のA・B面を、ノンストップで聴き通した。聴き終えて時計を見れば、2日の午前2時!あっという間の12時間。超大音量で聴ける環境の有り難さ、その音量で心地良く興奮しながら聴き続けられた上質の演奏、夕食時間を除く全ての時間は、男らしく?立ちっぱなしの一人作業しながら。
 「一年の計は元旦にあり!」そう誰かに教わったのは10代?と、ことわざ事典を開けば一年の計はの前に「一日の計は朝にあり」とあった。毎日起きると、その日やるべきことをすっかり忘れているので、昼のせいだといわず、今年からは「寝る前の朝に計を」頭の中に入れるように心掛けよう!と自分に言い聞かした19年!そう19はミュージック年!

幸遊記NO.415 「ジャズRセンターとカーネギーホール」2018.12.31.盛岡タイムス
 ジョニーと行く穐吉敏子への旅inNY、3日目11月27日、サッチモハウスからマッハタンに戻って、僕は一人、タクシーに乗る。26丁目ウエストの人通りの少ないオフィスビル街、ジャズレコードセンターなどという看板は無い。地番号だけのビルの入口にタイプ文字程の社名表示板のベルを押す。間も無くビル入口のドアカギが開く。人っ気のない廊下とエレベーター、そして又廊下先の、804号室のドアを開けると、オフィスのような店?に僕の年令位と思われる白人女性が一人、その左手奥は倉庫のようなスペース。だがそこにはありとあらゆるジャズの関連物。客?は僕を入れて2人。
そして見つけたCDは穐吉さんのヒロシマ組曲米国盤、LPは1954年にカーネギーホールで催された「ザ・バードランド・オールスターズ」の2枚組ルーレット盤「エコーズ・アン・エラ」!さあ今夜は穐吉さんのカーネギー!と心が踊る。本は穐吉さんが渡米した年(1956年)の総まとめジャズ誌「メトロノーム・イヤーブック‘57」を見つけて開くとそこにバークリー音楽院の広告。なんと!「本校の生徒・穐吉敏子が作編曲した彼女のピアノトリオアルバムがストリービルレコードから発売になりました」という宣伝文句。そう!これこそ、かつて穐吉さんが「私は学校の広告塔にされたの」と言っていたことを裏付る物的証拠!としてゲット。レコード会社もその年の代表看板作品として広告を出しているスゴさ!。
 さて旅の主目的である、穐吉さんのカーネギーホールコンサート「トータリー・トシコ」へは皆オシャレしてホテルから徒歩で向う。交差点で「ジョニーさん」と声を掛けてきたのはドラマーのマークテイラーと婦人だった。客席にはロンカーター、デイブピエトロ他ジャズメンやアメリカソニーの小野山弘子氏などの顔々。コンサートの冒頭、穐吉さんはお世話になった人や日本から21人もの団体で来てくれたと僕達のことなどを話して曲が始まり、2曲目との間に、「ここはアメリカなのに冒頭から何故か日本語でしゃべりだしてしまった」というようなことを英語で話して会場をどっと笑わせる茶目っ気も健在。1部ソロ2部カルテットの感動的な演奏の終了後、楽屋には僕が出版した「穐吉敏子への旅」本を差し出してサインをもらう駐米日本大使が居た。その光景に僕は胸が熱くなった。

幸遊記NO.414 「ヴァンガードとサッチモハウスの探訪」2018.12.24.盛岡タイムス
 ジョニーと行く穐吉敏子への旅inNY、2日目の夜、1940年代から現存するNY最古のジャズクラブ、ヴィレッジヴァンガードへ22時30分からスタートの第2セット目を聴きに行く。並んでいた女性と先におりた女房が話している。「ファーストセット終ってないから未だ入れないって」。この外人?(女性)の日本語にビックリ。しかも日本の霞ヶ関で働く、アメリカの国際弁護士だという。待ってる間に彼女の息子だというハンサムボーイと美しいガールフレンドが現われ挨拶を交わす。
 この夜11月26日(2018)は月曜日、毎月曜はこの店の看板バンド「ザ・ヴィレッジ・ヴァンガード・ジャズ。オーケストラ」の出演、店は満員。心地良い分厚いサウンドが体を揺らす、最後の曲が始まった。おや!これは穐吉さんがドイツの放送局オーケストラ・SWR・ビック・バンドに招かれ、指揮し作編した2007年録音の2枚組CDのタイトル曲「レッツ・フリーダム・スイング」ではないか!と、なお真剣に聴く!
 翌27日は自由行動の日、それぞれ街の散策や美術館めぐり、教会めぐりなど繰り出し、僕と行動したい人は朝9時ロビー集合、7番街42丁目まで歩いて7トレイン(地下鉄)に乗って、サッチモこと、ルイ・アーム・ストロング・ハウスへ向う。マンハッタンの地下を抜けると高架橋を走る天空列車となる面白さ。時折、様々な人種の男や女が乗り込んで来ては、唄い踊り演奏するチップ目当ての楽隊が入れ替わり立ち代わる楽しさは、まるでショウー電車!車窓の風景とのギャップが凄い!
 サッチモハウスでは行く度に小さな発見がある。今回はサッチモの居間にある何百本もの7号リール・テープの棚、机上にある小さなデッキ、メーカーを見たら、何と「AIWA」じゃないですか!まさにサッチモの「愛は」地球の民の心音までテープに収めていたのです。裏の日本庭園池には今も紅い鯉。彼は4度「恋」結婚をした。道を隔てた真向かいでは、新しく建設されるサッチモ記念館の基礎工事が始まっており、次回訪問時にはオープンしているかも!と期待に男ながら胸がふくらむ!?。サッチモは生録音テープ一本一本のケースに本や写真、新聞からと思われる切抜きをコラージュして貼り付けておりそれはもうひとつのサッチモ芸術!それが新しい1冊の本になっていた。もちろんゲット!

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