盛岡のCafeJazz 開運橋のジョニー 照井顕(てるい けん)

Cafe Jazz 開運橋のジョニー
〒020-0026
盛岡市開運橋通5-9-4F
(開運橋際・MKビル)
TEL/FAX:019-656-8220
OPEN:(火・水)11:00~23:00

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幸遊記NO.423 「父・照井省平の一代記」2019.2.25.盛岡タイムス
 今日、2月25日は、1988年83才だった僕の父・照井省平の命日。トイレに行き居間に戻って来ながら立ち止まったまま動かないので、長男の嫁さんが声を掛けたら、息絶えていたという。その話を聞きながら、かつては役者で歌舞伎の流れを汲む演劇一座・東洋劇団の座長なども務めた父、最後の大見得(おおみえ)、大黙(だいだんまり)を決め込んで、この世をおさらばして行ったのだと、妙に感心したものだった。
 僕が小学生だった頃の記憶の中、松本亀鶴様?と書かれた手紙がよく家に届いていた。地元、平泉達谷の窟(いわや)と一関での野外特設舞台で父たちの芝居を見た記憶がおぼろげにあり、時代を背負ってきた、爺さん、婆さんたちに見せたい!と、明治百年の1968年20才前後の若者達10人程で高田若者会を結成。当時陸前高田にあった「セントラル劇場」という映画館を借り、父が所属していた「松平朝之助劇団」の公演を主催、満席にした。
 僕の長兄、故・幸男が書遺していった覚え書き?「照井省平一代記」によると、父は、14才の時母親、ミヨシと死別。高等学校入学一ヶ月で退学し、祖母、ミノと共に農業に従事するが2年後祖母亡。下に弟と妹がいた。父、28才の秋、妻キノエとの間に長男誕生。以後末っ子の僕を含め4男3女が生まれており双子の2女忠子は生後間もなく亡。32才で、田畑、原野、馬を買い足した。
翌昭和13年父の弟が支那事変に応召されたため、弟のクリーニング屋を帰還するまで3年間手伝う。16年には報国隊班長として自分が北海道へ。戦中は村の農業実行組合長、増産班長、資源調査員をやり、38才で家の造作を終えた翌年の昭和21年家の西側にあった貸家から出火。全7棟を全焼。同年省平の父・幸治亡。その葬儀の日に3女文子が3才で亡。翌22年8月完成となった直後の母屋が台風による水害で裏山崩壊し家がつぶされる。翌年1月末、家を再建。お世話になった人達78人を招待して新宅祝。その23年又しても台風による大水害にみまわれ更なる山崩れで家が2メートル押出され、風呂場倒壊。連続3年の火災水害により買った土地や馬を手放す。その後平泉村の農業調査委員となり、農閑期には役者稼業で各地を回った様子。そんな訳で僕の小中学時代家は本当に貧乏だったが、父はいつも泰然として、おだやかに笑い、顔を洗うとマダムジュジュをぬっている人だった。その父が僕に「いい冥土への土産が出来た」と言ったのは1986年の秋吉敏子ジャズオーケストラの夜だった。

幸遊記NO.422 「眼下に見るリトルジャマー演奏会」2019.2.18.盛岡タイムス
 昨秋(2018)盛岡で開催の眼科学会へ講演しに来た、愛知医科大学病院の眼科医師で教授、指導医の日本眼形成再建外科学会理事長・柿崎裕彦氏が、開運橋のジョニーに来たので僕はとっさに、NY在住のジャズピアニスト・穐吉敏子さんから届いたFAX「私は眼の手術をして(2017年12月12日穐吉さん88才の誕生日に)ヤギュー何とかさん(柳生十兵衛)の様に片目ですが日本に帰る頃(4月の88才88鍵・ソロツアー)には完全になっていると思います。一番つらいのは目薬の為、ワインをグラスの半分しか飲んではいけない事です」や、4月にお会いした時「良くならないので帰ったら又手術です」などの症状について、彼に根ほり葉ほり聞いたら、全てにきちんと答えてくれたのでした。
 それはそうと、その時一緒だった市内の眼科事務長・高橋秀孝さんが、帰り際「今度来る時面白いもの持ってきます!」で、まもなく持参したのは、ジャズを演奏する人形たち「リトル・ジャマー」だった。それは2003年におもちゃのバンダイがオーディオのケンウッドと共同開発した大人のおもちゃ?。サウンドとプレイヤーの動きが、ものの見事にシンクロするさまは、本物のジャズメン達の演奏会を見聞しているが如くであり、ピアノ、ベース、ドラム、ギター、サックス、そしてゲストプレイヤーのトランペッターまでのセクステットによる生ライブ?。持参した彼は自宅に特性ステージを作りスポットライトを当て、一人悦に入りながらその演奏を聴きアルコールを楽しんでいるのだという。
 それを僕はクリスマス直前まで借りて楽しみ、これ何?と気付いたお客さんに聴かせていたら、常連の伊藤洋一さんが「あれ!これは?確か俺持ってるよ!十数年前にビールが当たるキャンペーンに応募したら、ビールに外れて、このリトルジャマーが送られてきた(本当は逆)当時自分の部屋にスペースがなかったから、そのまま封も切らずに物置小屋へ入れて忘れてたよ」と「ハイ!これジョニーへXマスプレゼント」と言って持参したので早速封切り公開。正月には「ネットで未開封のゲストトランペッターを見つけてゲットしたからお年玉ですよ!」と当時の新古品を持参した、それで僕はダジャレでお返ししようと、リトルジャマー大当り!と、のし紙付ビールを送ったら彼はアワデテ?デンワでゴックンしてきたので僕もすぐさまBeBopでカンパイ!

幸遊記NO.421 「イギリスから日本のディープモダンジャズ」2019.2.11.盛岡タイムス
 幸遊記(419)で、ドイツからビニールのアナログレコード(LP)でジョニーズ・ディスクの初期作品が再発になったことを書いたが、上京の折、文京区白山のジャズ喫茶・映画館(幸遊記404)へ行った時「このCD評判になってますよ!ジョニーズ・ディスクから、2曲も入ってますね」と、マスターの吉田昌弘さんから手渡されたCDの3面見開きジャケットには、40点余りの小さな写真。よく見れば都内のジャズ喫茶の看板や店内を撮影したものをちりばめた、まるでジャズ喫茶案内のカタログ版!撮影者はデビットヒル。
 タイトルは「ジャパニーズ・ディープ・モダン・ジャズ・1969~1984」と、カタカナと英語の表記。中味は日本のジャズシーンが一番熱かった1970年代の録音を中心として、松風鉱一(sax.ALMレコード)アイザワトオル(p.タチバナ)中山英二(b.ジョニーズ・ディスク)植松孝夫(ts.トリオレコード)中村新太郎(b.ストリート・ノイズ)片山光明(ds.ジョニーズ・ディスク)森山威男(ds.バップ)辛島文雄(p.ホワイ・ノット)杉本喜代志(g.キバ)の9タイトルアルバムから、それぞれ1曲ずつ、9曲(これこそ究極!)がイギリスのBARELY・BREAKING
・EVEN(BBE)レコードからの発売。
 「頭から聴いてみますか?」とマスター。その流れくる松風の「アース・マザー」を聴きながら、あっ!そういえばドイツからリリースの話があった頃、イギリスからもオムニバスCDに入れたいという話が入ってますと、東京の株・ウルトラヴァイヴ(ソリッド・レコード)の担当者から、電話があったことを思い出し、そうか!あれがこれになったのか!と後日会社に電話を入れたら問い合わせてくれて、先日やっとサンプル盤届いた。それが開けてビックリ玉手箱!CDの9曲にプラス3曲の3枚組LPまで!ガラケーだけでネットをやらない僕はまさに「シラヌがホトケ様」状態であることをまざまざと知らされるハメに。
 はたまた、ジャズ批評誌最新号207の特集はジャズと昭和。表紙に美空ひばり、グラビアにペギー葉山、フランク永井、江利チエミ、榎本健一、その巻頭ページにJAZZ名盤全202タイトル・スペシャルプライスシリーズの広告。ピアノ編61、ボーカル編21、に続く邦楽ジャズ編21タイトル。その中になんと40年前に僕がリリースした作品が5枚も並んでいるではないか!そうかジョニーズ・ディスクも僕も?今が旬なんだね!?

幸遊記NO.420 「和賀寿彦の憧れジャズピアノ」2019.2.4.盛岡タイムス
 昨2018年夏「ジョニーのホームページに載っている写真を見ながら、曲を作りました」と「川を見ていたジョニー」というタイトルの楽譜を持参してピアノ演奏。次の来店時には「盛岡タイムスに載っていた記事。“もりおか・ふるさとの詩”を読んで問合せ、送ってもらった詩に曲をつけました!」と再び、江刺市出身・盛岡在住の及川秀夫さんの詞に曲と演奏をつけCDにして持参したのは、秋田県横手市、岩手県盛岡市、在住?往来?のピアニスト?作曲家?コンピューター・プログラマー?3Dグラフィックス・アーチスト?の和賀寿彦さん(64)。
 実は彼と初めて会ったとき?初めて会話した時?「僕は昔、ニューヨークで穐吉敏子さんのピアノ講習を受け、いかにしてジャズの伝統を継承しつつ斬新なインプロビゼーションのアイディアを得るか?というようなことなどを教わったことがあるんです」というのだった。僕は思わずエーッと声が出て、頭の中ではすぐさま「ワガトシヒコが我が敏子」と置き換えられ、いつ?どこで?と問い、聞いた。
 「1992年の夏でした。ニューヨークのマンハッタン・スクール・オブ・ミュージック(ジュリアードと並ぶNYの名門音楽専門学校)での3週間の夏期講習。当時のスイングジャーナルに、その記事が載ってます」と言うので、すぐさま調べたらありました!9月号に。しかもその夏NYでのJVCジャズフェスティバルに同音楽院、学生バンドのピアニストとして出演もしていた。
 彼は教員で音楽好きだった父母。ピアノを習っていた姉に囲まれ、音楽に満ち溢れる家庭環境で、ピアノやオルガンを弾き遊んだ。中学でレコードに夢中になり、高校時代横浜の叔父の家で聴いたアートブレーキーのレコードでジャズと出会い「キャバレーのバンドマンになる」と決意したところ、母と叔母に反対をされ、東京の音楽専門学校や武蔵野音大に通わされクラシックを学びながら、想いはジャズへでバイトをしては何回も渡米し、ジャズを見聞。25才の時、静岡県熱海市でジャズピアノ・生活を始めた。ところが「父・余命数ヶ月」の連絡を受け看病の為秋田へ戻ったことから音楽以外の実用的、非実用的研究を実践、あらゆる方面でその能力を発揮して、なおかつピアノに至ルでの今日なのでした。

幸遊記NO.419 「ドイツから世界へのジョニーズディスク」2019.1.28.盛岡タイムス
 1977年初夏、札幌から僕の所に1本のカセットテープが届いた。送り主は当時札幌を中心に北海道で活動していたベース奏者・中山英二。僕はといえば30才宣言として命の次に大切にしていたレコードの大半を売り払い「列島唯一・日本ジャズ専門店」と、店の看板を書き換えた時。その中山英二のテープを繰り返して聴きながら大地を走り抜ける風のように爽やかな音楽にのめり込んでいく自分がいた。そして、待ちに待った9月12日、陸前高田市民会館大会議室で彼のライブコンサートを主催。
 こんなに素晴らしいミュージシャンでも、地方に住んでいるということだけで日が当たらず、レコードは東京から地方に流れてくるものを、ただ買って聴くだけ、なら僕が岩手から東京へ全国へと日本のジャズファンに、直接届ける自主レーベル「ジョニーズディスク」を創設しよう!その処女作は彼と決め、翌年の78年2月「中山英二カルテット・アヤのサンバ」を大船渡の録音クラブに手伝って貰い店内で収録。同年6月に通信販売形式で発表した。プレスは日本ビクター。その販社ビクター音楽産業にちなみ、僕もテルヰ音楽産業と名付けてのスタート。
 以来、ジョニーズ・ディスク・レコードは再プレスをせず1000枚売り切れ御免での発売をしてきた。それがこの10年余り、CDでの復刻が相次ぎ、特にも1980年の「海を見ていたジョニー」(坂元輝トリオ)は日本ジャズの筆頭作として定着、2017年にはHMVからアナログ盤で限定再プレス。その予約数がプレス量を超え、お蔭で僕には見本盤さえ届かなかった。そんなこんなの昨年秋、ジョニーズディスク初期作01、03、04、06、08をドイツでプレスし、フランス、イギリスなどEUとアメリカ、日本に向け発表したいというオファーを受け許可したところ、昨2018年12月から3週間ごと、すでに3枚の作品がLPレコードで発売になり世界へ飛び立った。昔の帯の替りに貼られたステッカーには、ジョニーのマークと「伝説的な日本の自主ジャズレーベル。プロデュース・バイ・ケン・テルイ。シンス1978年」。と英語で標記されており、ジャケットは当時のままだが片隅にバーコードとMULEMUSIQ.COM.MADE IN EU.DISTRIBUTED BY COMPAKTとある。これは僕の店にも届き「取扱中!」です。

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