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ジョニーと行く穐吉敏子への旅NY。2日目の26日、ウッドローン墓地からタイムズスクエアホテルに帰る途中ブロンクスに近いマンハッタン129丁目ウエストにある「ザ・ナショナル・ジャズ・ミュージアム・イン・ハーレム」に向う。到着する頃には雨はすでにドシャ降り状態であったが、ミュージアムの中は、ホッカホカの温かさ。2016年に入った時の印象とはかなり違って立派になっており、日本から昨日戻ったばかりだという館長が、ゴキゲンな対応をしてくれた。
左中央にある白いグランドピアノを指差して、「これはデューク・エリントンの妹さんが使用していたピアノで彼女からの寄贈品です」と言うやいなや立ったまま「A列車で行こう」を弾き出したので、僕はすぐ様、「歌手がいるから一緒に唄わせて!」と言ったら「OK!」と、再度の「A列車で行こう」を、同行した金本麻里がうたってヤンヤのカッサイ!。更に気を良くした館長は一番奥の黒いピアノに座ったので、すかさず僕は、「2年前ここでテデイウイルソンのSPレコード音源をリクエストして聴かせて貰ったのだ」と言うと、すぐさまテディスタイルで弾き出したのには驚いた。又実際に昔の手廻し蓄音器で音も聴かせてくれた。即売の本やバッグ、帽子、ペンも飛ぶように売れ、ビックセールスだと館長大喜びで、皆と一緒に記念写真に収まった。それにしても前回、今回とミュージアムの客は僕達ご一行様のみで、ちょい淋しだが、いかにもマニアック!また来ますよ!。 次は125丁目ウエストにある有名なアポロ劇場。入口前歩道にはめ込められているネームプレートには、ビリー・ホリディ、チャーリーパーカー、ルイアームストロング。そうだ!ルイで思い出したのはあの1958年のニューポートジャズフェスの記録映画「真夏の夜のジャズ」そのジャズ祭の創始者でプロデューサーの「ジョージ・ウェイン」(93才)は今も健在で「音楽ファンにジャズの方向性を提供し続けてきた偉大な人」。我が穐吉敏子さんは映画の年の58年をのぞく、56、57、59年と実際にニューポートジャズ祭に出演した人なのだからいかに凄いことか!そのジョージ・ウェイン氏の奥様、ジョイス・ウェイン(1928~2005)の墓もウッドローンにあり、ジャズメン達の演奏の姿を浮き彫りにして聴衆が見上げる様をジャズ絵巻の様に造られた墓石の美しさであった!。さすがウェイン様。
ジョニーと行く穐吉敏子への旅、NY初日の夜セントラルパーク・ウエストの穐吉さん宅でのパーテイのあと、タクシーに分乗して、ウエスト44丁目のジャズクラブ「バードランド」へ直行。ここは、30年続けたオリジナル演奏の穐吉敏子ジャズオーケストラが2003年12月の解散日まで毎週月曜日に出演していたシアタークラブ。店内入口壁には自由の女神をバックに右手を上げて微笑み立つ穐吉敏子さんの大きなカラー写真が飾られており、嬉しくて僕等もそれに向って右手を上げて店内奥へ。この夜演奏していたのは僕の名のスペルと同じ「KEN・ペプロウスキ・ビックバンド」というラテン系のジャズに体が浮かれる。
翌日昼からガイド付き大型バスをチャーターして、有名ジャズメンたちの墓参りを企画していたが、ガイドのおばさまはしきりに台風並の風雨が来る日で行っても仕方ないみたいなことだった。だが、地中のジャズメンたちはスタンデイングして僕等を迎えてくれた様で、ウッドローン墓地に到着し、案内係が白い車でやって来てバスの先導を始めると、雨は止み、白い十字架の形をした二つの大きな石碑とその中央に葉をすっかり落とした巨大樹木が現われバスが停車、実はそれ、あの「A列車で行こう」の「デューク・エリントン」の墓であった。地面のプレートには彼の本名「エドワード・ケネディ・エリントン」(1899~1974)の文字。道を挟んで右にはひときわ大きな黒い墓石、右側にトランペットを彫った「マイルス・ディビス」(1926~1991)。他に「ライオネル・ハンプトン」(vib・1908~2002)。「マックス・ローチ」(ds・1924~2007)などなどジャズの巨人たちが同じ一角に工夫こらした形の墓石で点在し、まるで星空!。 そしてもう一人の行ってみたい墓の前まで車は走り、止まった先には、そう「野口英世博士」(1876~1928)、奥様の「マリー」(1876~1947)が眠る。自然石にプレートをはめ込んだ他とは違う墓に、日本人らしさを感じ、皆さん再度の感激!。それにしても日本から突然こんなに大勢でジャズメンの墓参りに!と、本当に感激の表情を現しながら気持ちよく案内し説明してくれた、WOODLAWN墓地のデイレクター・Mr・MICHAEL・FLAMINIOの素敵な笑顔に心から感謝しつつ別れをおしみながら、「また来て!」「また来ます!」と握手を交わして、バスに乗ったら又、雨が降り出した!ガイドは「30年振りに野口さんの墓に来た」と言う。次の目的地はハーレムである。
ニューヨーク・7番街・57丁目にある世界有名三大ホールの一つ、カーネギーホール。その中のいちばん小さな「ウェル・リサイタル・ホール」。88才のジャズピアニストで、米国における日本の文化遺産である穐吉敏子さんを祝って、IMJS・コロンビア大学が主催する「Totally・Toshiko」コンサートが、2018年11月27日(水)夜8時から行われるというので「ジョニーと行く穐吉敏子への旅・NYカーネギーホール・コンサート・ツアー」を企画し、行って来た。
参加したのは北海道から九州まで、僕の知る穐吉敏子さんファン21名。うち13名が岩手からである。成田を出発したのは25日16時40分、全日空10便。JFケネディ空港着が現地時間同日15時10分。入国審査後、チャーターしていた大型バスでホテルへ移動。三連休最後の日とあってバイパス道大混雑でバスは旧道を走りマンハッタンへ着いた時にはすでに18時を回っていて、穐吉さんに電話でホテル到着を知らせ、チェックイン後すぐに、ロビーへ再集合。タクシーに分乗し、セントラルパーク・ウエストの穐吉さんの自宅へと全員で押しかけた。(穐吉さんから17時半に皆さんで自宅にいらっしゃい!とご招待を受けていた)リビングに入ると真っ先に目に飛び込むのは入口正面壁に飾られている黄緑色の油絵!穐吉さんとご主人、ルータバキン氏の演奏画。描いたのは僕のジャズ講座に通い続けている紫波町の菅原恭子さん。そして台所の入口壁に目をやれば1986年陸前高田で僕等が主催した、穐吉敏子ジャズオーケストラが900枚の杉板にサインした時の記念写真。それが今も飾られていて嬉しさ32倍(年)! 穐吉さんが僕に言う「テイクアウト料理でごめんなさい」誤らなけりゃいけないのはこちらの方で、それこそ2012年、今回の様に大勢で押しかけた時、穐吉さんは僕等全員に振舞う料理の数々を全て一人で調理して僕等を迎えてくれたのでしたが、その2日前、ワシントンDCでのコンサートでカゼを引き、体調悪いなか無理をして僕等を迎えたその深夜、救急車で運ばれ、初入院。次の公演先、シカゴの4日間をキャンセルしたことが脳裏に浮かび、申し訳なさでいっぱいになった。でも今回は穐吉さんの娘で歌手のマンデイ満ちるさんが来てパーテーを手伝ってくれて、安心するやら恐縮するやら、より嬉しいやら、感激やらで、皆さん大感謝!
来る12月12日(2018)89才を迎える我らが穐吉敏子さんの記事が、去る11月7日付毎日新聞の夕刊に「NYの秋吉敏子さん新たな栄誉。音の力、社会変えうる。反戦・社会問題ジャズでつづり88年」の見出しで大きく報じられ嬉しくなった。記事を書いたのは大阪の同社科学環境部の記者・渡邊諒氏。同紙夕刊は岩手では入手出来ないことから「秋吉敏子さんの記事を夕刊に執筆しましたのでお送りします。お読みいただけましたら幸いです」と手紙を添えた新聞が届いた。ありがとう!
彼は一昨年の2016年10月23日付け同紙でストーリー、秋吉敏子の70年を書いた人。今回の栄誉は、アメリカの芸術家活動を支援する団体「ミッド・アトランティック芸術財団」から10月19日、首都ワシントンDCにある国立ケネディセンターにて「ジャズの生きた遺産賞」(リビング・レガシー・ホノリー・アワード)を受賞したというもの。もちろん日本人初で、ジャズ遺産創出と、その永続化への貢献、そしてアメリカの大学の教科書に彼女の曲が多数使われ演奏され続けていることも受賞理由のひとつだが、彼女自身もいろんな学校に呼ばれクリニックに出かけてきたのも事実。 かつて彼女はグラミー賞に史上最多の14回もノミネートされながら一度も賞を貰えなかった。そのことに彼女はアメリカにはどうしても突き抜けられない、見えない天井があるとして「ガラス・シーリング」という曲を書き発表したのが20年前の1998年のことだった。その反骨の精神でもって社会悪?に一人敢然と立ち向かい戦い挑んだ彼女。するとどうだろう、彼女が日本人第1号として1959年に卒業したバークリー音楽院はすぐさま名誉博士号を授与。翌99年「国際ジャズ名声の殿堂入り」。2006年「ジャズの生きた伝説賞」、そして、絶対貰えないだろうと彼女自身が思っていた最高賞「ジャズ・マスターズ賞」も遂に彼女の手中に舞い込んだのでした。 つまり渡米して40年以上、実に70才にもなるまで、全米的大賞に無縁だったことは、他の優秀な人たちとあらゆる面で比べてみたとしても差別は顕かであったが、穐吉さんを認めなければ全ての賞が無価値になるとアメリカ自体が学んだのだろう。ある人がブログにこんなことを書いていた。「ところで、日本人が彼女の偉大さに気付くのは、いつになるんでしょうか」と。
1967年6月1日創刊。2018年11月号で206号を数えた隔月刊の「ジャズ批評」誌。その発行元「株・松坂」の社主であり、発行者であり、編集責任者であった松坂比呂子さんが今年5月26日、午後3時24分、85才でお亡くなりになった。去る11月4日、高田馬場「カフェ・コットンクラブ」にて「松坂比呂子をしのぶ会」を開催しますという案内を頂き、女房と2人で参加して来た。
会の発起人代表は、新宿「DUG」の中平穂積氏。発起人はジャズ喫茶店主や演奏家,評論家など30人程が名を連ねる。会場は立すいの余地も無く立っても座っても身動きとれない程全国からの人、人、人。彼女はどれだけ多くの人に愛されていたのだろうと思いながら、お話や演奏に耳傾けても、ほとんど聴きとれぬ程皆旧知の友と話し合っているのだった。それはまさに辞典のいうところジャズの騒々しさであり、ある種の心地良さでもあった。 僕も昔からファンであり続けてきたジャズピアノの明田川荘之さんとは、色々話が出来た。彼はパーキンソン病におかされ、ひどい時には、ピアノを弾いても音が出なかったと言う。若かりし頃誰よりも音の大きかった彼の演奏を思い浮かべれば涙より他はなく悲しくなったが、相変わらず口は達者で少しは笑顔も。旧知の評論家・行田よしおさんとも久し振りにお会い出来てうれしかったが、皆それなりに年令を重ね、体の不調を訴える。が瀬川昌久氏の元気な姿や「岩手から出て来たのかい?」と声をかけてくれた石井一氏など元気な方もいて、人それぞれ! 会場のカフェ・コットンクラブは有名ジャズスポット「イントロ」の茂串邦明氏の経営。イントロの創業年月日は僕のジョニーとまったく同じだが、イントロだけに今も若さみなぎる彼。帰りに2015年に出版したイントロの40周年記念誌を頂き、僕もお返しに「穐吉敏子への旅」本をプレゼントした。 翌日帰る前にお茶の水と神保町で本とレコードさがし!するとあの幻の「JAZZ」1969・6月の創刊号が遂に見つかり、最後のページのラストコーラスを開くと「毎日通った、東銀座の小さなジャズ喫茶が閉店。そこのママさんが今はあるジャズ雑誌の発行人兼編集人になっているらしい」と松坂比呂子さんのはじまりが書いてありました。凄いタイミング! |
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