盛岡のCafeJazz 開運橋のジョニー 照井顕(てるい けん)

Cafe Jazz 開運橋のジョニー
〒020-0026
盛岡市開運橋通5-9-4F
(開運橋際・MKビル)
TEL/FAX:019-656-8220
OPEN:(火・水)11:00~23:00

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幸遊記NO.428 「11PMの三陸鉄道リアス線の夜」2019.4.1.盛岡タイムス
 全国初の第三セクター鉄道として35年前(1984年4月)開業なった三陸鉄道・南北リアス線。その中間にあった山田線。ともにあの3・11の東日本大震災で被災したが、3年後の14年に南北リアス線の全線で運行再開。更に今年3月、山田線がJRから三鉄に移管され、ようやく三陸鉄道リアス線(いわゆる岩手沿岸住民にとっての悲願であった三陸縦貫鉄道)の全線開通(達成)と相成ったことは、この上もなく嬉しいことであるに違いない。
 三鉄開業2年前の1982年は東北新幹線の開業であった。当時僕は前衛ジャズピアニストの故・板倉克行さんのレコードデビュー作「海猫の島」という彼のソロピアノを録音して、ジョニーズ・ディスクからリリース。「種山ヶ原の羊」「うわさのやまびこ」「三陸縦貫鉄道の夜」など、彼の即興曲に僕がタイトルをつけて発売した時のことが、まるで昨日のように頭に浮かぶ。
 翌83年には作家の故・井上ひさし氏の母、故・井上マスさん(当時76才釜石在住)が「人生はガタコト列車に乗って」(株・書苑)という本を出版。新聞、TVで大反響を巻き起こしていた。そのマスさんと僕がゲストとして当時の人気深夜TV番組・11PMに生出演!。撮影会場は開業成った三鉄、田野畑駅。特設ステージには日本を代表するジャズピアニストで、宮古市出身の故・本田竹広さん。コーデイネーターは作家の故・藤本義一氏、アシスタントには今、セレブな女として注目を集める松居和代さんが出演して彼等と一緒に話をしているシーンの実況中継でした。
 そこへ三鉄に乗って現われるのが当時は未だあまり売れていない田舎のプレスリーこと、吉幾三さん。彼からその場で「ジョニーさん僕もコンサートに呼んで下さいよ!」だったことから「じゃ来春に陸前高田で」と約束。翌85年、吉さんに、いつにしましょうか?とデンワを入れたら、出したばかりの「俺ら東京さ行ぐだ」(吉幾三・作詞作曲)が売れ始めて一人じゃ決められないのでと、事務所に繋がったら、何と1ステージ250万だとベラボーな話で、以来僕の中で彼は「いくぞ!」から「いかんぞ!」となってしまったという訳なのだが、彼はその後、大スターとなって今日に至る!なのだ。あの日、田野畑駅であれを見た当時の小学生だった斉藤まみ子さんと僕は今、親しい間柄である。

幸遊記NO.427 「沢村澄子の書をのせる舟」2019.3.25.盛岡タイムス
 案内を頂いていた書家の沢村澄子展「三月の舟」(盛久ギャラリー)。そして「もりおか啄木・賢治青春館」での沢村澄子展「銀河鉄道の夜」を散歩がてら土曜の午前に拝見した。様々な姿の舟の書を観ながら「終わりの舟、始まりの舟、三日月の舟」とはがきに書かれていたことばを想いながら、僕は僕で、夏の笹舟、冬の湯舟、ノアの方舟と勝手な解釈で舟字を見る。般若心経が書かれた牛乳パック(表紙をはがした)の灯篭のような箱舟に至っては、この2019年3月、100年の生涯をとじた紫波町の坂本新平氏(友人、安保さんの父上)の棺入(ふないり)の旅を想い浮かべたら、舟の字が書かれている紙そのものが、字を乗せている神紙の舟なのだということに気付かされる。ありがとう。澄子さん!その、澄子さんで連鎖したのは「銀河鉄道の夜」展示会場の、天井から壁まで新聞紙に書かれた、賢治の銀河鉄道物語書を見てた時の澄子さんの名つながり。だんだん句会の早坂澄子さんの句「冬銀河七十億の一人なり」がふと新聞の文字数に重なった気がして、春の字の前で書家・澄子さんの写真を撮って店に戻れば、それこそ天からの70億の春の雪が舞い降りた偶然、必然、自然。
 それはそうと僕が書展をする時の手段のひとつは新聞紙に作品を貼り、周りに墨で線を引き、額替りにする。その新聞紙で忘れられない強烈な印象を僕に与えたのは「神田日勝画集」(北海道新聞社刊、1978年)であった。神田氏は1937年東京板橋生まれ、8才で東京大空襲にあい、一家で“拓北農兵隊”に加わり北海道へ。中学時代から馬を描き1970年絶筆の未完の馬に至るまでの作品中、最後の完成画となった「室内風景」(1970)。その三方の壁と床の全てに新聞紙を貼りめぐらした部屋で、一人の男が青いセーターを着て腰をおろしている絵なのだった。しかも背景となっている全部の新聞の見出しは勿論、記事の文章、広告欄まで本物の新聞の如く克明に描かれており、僕はその絵にドギモを抜かれたのだ。以来、ぼくにとって新聞は「日勝」ということになっている。それはそうと沢村展の芳名帳には僕の少し前に小泉とし夫氏の名。来月1日~15日は盛岡最古の画廊喫茶ママで、その歌人・小泉とし夫(91)のうたを僕が書にして展示。小泉氏の朗読ライブは4月3日午後3時から。ギター伴奏・八木淳一郎氏です!

幸遊記NO.426 「聖歌の子・中川やよひの良夜の書」2019.3.18.盛岡タイムス
 岩手で最も古い歴史を持ち今なお刊行され続けている文学誌「北宴」は1951年(昭和26年8月)の創刊。現編集者・小泉とし夫氏(91)は初期の頃からの会員である。その北宴の前身だった「若樹」。その更なる前身の「新樹」。新樹は北原白秋の門下だった巽聖歌(たつみせいか・童謡・たきび作詞者・紫波町出身)が1946年(昭和21年)に創刊した詩と歌の文芸誌。その巽聖歌が1949年に東京へ出て新樹を再刊。それが今日まで70年間も続いてきたが昨2018年遂に終刊となった。
 その聖歌の「たきび」それをヒントに?本当のたき火跡を凝視して広大な陸地に置き換え?絵とし、濃黒、漆黒、暗闇の様でも黒ではない土、土地、大地、陸地を描き続けた稀有な画家・野村千春を母とする長女のやよひさんが生まれたのは、たきびができラジオで放送された1941年の秋。命名した人の名は北原白秋。「やよひ」は「春の神様」の意味とのこと。そのやよひさんに僕が書いて紫波あらえびす記念館に展示した巽聖歌の童謡詩の書を全部まとめて送った。するとお返しに「父・聖歌が書いたたきびの書をコピーし、父の朱印を押したものです」という手紙と一緒に贈ってくれたのでした。
 その後、本紙・盛岡タイムスが聖歌に関する記事や特集を組んだ時、その新聞を送るとすごく喜んで手紙をくれた。そして又昨年11月18日、彼女の句集「良夜の書」(本阿弥書店)が届いてビックリ。ところが、その本の発行日である11月30日を待たず「11月21日、母が77才で天寿を全うし、永眠いたしました」という葉書が、やよひさんの娘・幸子さんから届き、ボーゼンとしながら本を開けば「如月や父生まれし日に母逝けり」「われ乗せて師走の街を救急車」「オペをせし腹部看ながら髪洗ふ」「独りだけのプラットホーム星月夜」「太陽の遠のいていく枯野道」「青空をさしてつんつん冬木の芽」などなどが心に迫り来る。
 平成8年「野火」。14年に「新樹」。24年に「架け橋」にとそれぞれ入会し、平成27年「新樹賞」29年「架け橋賞」を受賞した中川やよひさん。父で詩人の巽聖歌の遺言は「生きた証を遺しなさい」だったという。その遺言通り彼女は絶唱ともいえるこの「良夜の書」という新たなる聖書をこの世に残していったのです。「竹の皮脱ぐを仰ぎて眩しかり」。

幸遊記NO.425 「89歳・終りなき演奏の旅」2019.3.11.盛岡タイムス
 昨年(2018)の4月開催予定だった、「穐吉敏子88才88鍵ジャズピアノソロ」には、ツアーの途中、彼女が体調を崩し救急搬送され入院。後半の公演がキャンセルになった。そのことで穐吉さんから、FAXが届いたのは昨年の6月。「来年(2019)4月、今年心臓発作で伺えなかったところへ伺います」ということで、今年(2019)4月5日(金)浜松、7日(日)赤坂、10日(水)盛岡、12日(金)福島、14日(日)山形の5ヶ所ツアーが決定。
 盛岡公演は昨年と同じ市民文化ホール(マリオス小ホール)。只今、チケットを発売中で昨年同様、好調な売れ行きである。今年のタイトルは「穐吉敏子・89歳・終りなき演奏の旅!」料金は全席指定¥8.900.当日¥9.900。とした。この料金で「なんで中途半端な金額なの?」と問う人や、「一万円が一まんいいのでは?」「この料金って10年後もかけてますね」とシャレを見抜いた女性などもいて、チケット売りも又楽し!である。
 昨秋、穐吉敏子さんは、アメリカ中央アトランテック芸術財団から、ワシントンDCにある、国立ケネディセンターに於「ジャズの生きた遺産賞」というとてつもない賞を受賞した。それより先の2006年受賞の「ジャズの生きた伝説賞」を日本の賞に照らし合わせてみれば、それは「文化褒章」や「文化勲章」に価するものだろうと思われる。だが当の穐吉さんは、僕の前で涙を浮かべ、「これ以上、嬉しいことはありません」と言ったのは2006年の国立芸術基金・NEA・ジャズマスターズ賞」の知らせを受けた時でした。そのことは名より実を重んじる、彼女のジャズ演奏家としての誇りの表れであると、感じたものでした。
 それはそうと30年続いた平成という年号が間もなく終ろうとしていますが、毎年8月に行われているクラシックの「草津夏期国際音楽アカデミー&フェスティバル」が今年40回目あたることから、ジャズの穐吉敏子さんがゲストに呼ばれるそうです(20回目にも呼ばれた)主催者はその穐吉敏子さんの演奏を退位後の皇后・美智子様が聴き、美智子様の演奏を穐吉さんが聴くというコンサートを企画しているとのこと。お二人は共にお互いの生き方を尊敬しあっている同士?であり、最初で最後の歴史的瞬間を僕も見聞しに行くことにしています。

幸遊記NO.424 「宮城秀次アトリエ美術館」2019.3.5.盛岡タイムス
 僕が陸前高田からやってきて、盛岡に店を構えた2001年、岩山にあった橋本美術館の閉館ニュースに驚いたものだった。橋本八百二氏(1903~1979)は県立美術館建設運動の先立ちしながら、なおかつ自力で岩手の風土に根差した南部曲家を基本とした美術館の建設(75年開館)をして、岩手の美術文化に貢献。念願の県立美術館の完成を待っていたかのように、閉館した。そののち漆芸美術館となったが、現在は放置されたままで、淋しいかぎりだ。
 2011年の東日本大震災で街が消えた陸前高田は、昔から絵画の盛んなところであった。教師をやりながら市の芸文協の会長を長年務め、市内の絵画人たちでつくる彩光会の中心人物であった宮城秀次(88)さんに、1982年僕が、NHKTVで全国放送された時「おめでとう!お祝い!」と言って真赤な空と真っ黒な大地に見える抽象的な絵をプレゼントされ店に飾っていた。津波で流失。それより先の2003年5月、僕が企画し陸前高田市民会館で行われた「穐吉敏子ジャズオーケストラ」の実行委員長も務めてくれて、市も巻き込んで成功に導き、満席にしてくれたのでした。
 高台の地にあった彼の家は津波から逃れ無事だったが、車検に出していた車は被害にあい、それを期に免許も返納。運転をやめ自宅前にある自分のアトリエを解放し、ギャラリーとしたことや、自分の絵画作品集の出版。昨2018年震災直後からの陸前高田小友地区・写真集「大津波の爪痕」等の記事を読み、いつか僕も見たいと思っていて、それがようやく実現した。 
細い道を隔てた自宅前にそのアトリエギャラリーはあり、入り口を見守る様にお地蔵様が杖を持ち立っている姿が目に入る。実はそれも宮城さんがセメントを用いて1994年に制作したものだそうで、実にいい顔をしていた。アトリエで今制作中の絵は江戸時代に小友のナカヨシ丸が小笠原で遭難した時の想像画?で灰色一色?で描いていた。大小様々な絵にまじる何体もの木彫の仏像や能面まで、全部自分の作品なのだという。新制作協会に属する人だけに流石!と思いながら鑑賞させて貰っていたら、この絵とこの絵、盛岡の店に持っていってと、2009年6月にエジプトで一週間滞在し描いてきた「ピラミッド暮色」と「エジプトの娘」という油絵を頂いてきて店に飾らせて頂きました。

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