|
5月5日は子供(男子)の日、いわゆる端午(五?)の節句(3月3日は上巳・じょうし・女子?の節句)。僕等の店がある開運橋通りには、子供の日にちなむ鯉幟(こいのぼり・緋鯉と真鯉に吹流し)が街路灯の下で新緑の風に泳いでいる。岩手山が見える開運橋の下を流れる北上川には時折その鯉たちの姿をみることが出来るというのも盛岡の風情(ふぜい)。素敵な真鯉に恋いし、ポーッとなって緋鯉になった姿?も。今は切られてしまい無くなって淋しくなったが、2000年代末頃まで橋のたもとに大きなねむの木があり、夏になればあかい花が咲く風景、「夏が来て 夏が来て 開運橋 大河の岸のねむの木の 茂みに今年も 泳ぐ金魚(きんとと)」(小泉とし夫)と、短詩にてかつての風景が残されていることはありがたい。
前置きが長くなった。僕が夜間の高田高校定時制を卒業した、1967年の5月5日は、それまで買いためたシングル盤レコード(45回転EP)をもとに、僕の音楽活動のはじまりとなったレコードコンサートを開催した日である。「ジョニー!(女房は僕のことをこう呼ぶ)は穐吉敏子さんの音楽に出会って今年で丁度45年!穐吉さんのコンサートを主催し始めて40周年!離婚と津波で失くしたジャズ関連本を再収集して大学生になったつもりの勉強と、穐吉さんの本を書く許可を穐吉さんから頂いて、もう6年よ。大学院すら卒業した年数。集め調べた穐吉さんの膨大な資料とそのファイルの数々の表紙にまで本人のサインを頂いたんだから私は、5月5日に“開運橋のジョニー内”穐吉敏子・記念資料館“としてインターネットに発表しますからね!」と尻を叩かれた! 想い出せば、あれは2004年10月30日、新宿DUGで行われた「孤軍・秋吉敏子・その人生と作品」(全音楽譜出版社)本の出版パーテイ(本人を囲む会)の席にて僕は、「皆さん、穐吉敏子さんの記念館を日本のどこかにつくりませんか?」と問いかけた経緯があり、その為の目玉となる穐吉さんが運転していたボルボのワゴン車を日本に運んで保管してくれている人の話などをした。あれからすでに15年の歳月。例えば記念館なら紫波の旧郡役所の建物などピッタシなんだけど、とりあえず「開運橋のジョニー」内に資料室として開設の宣言です!
4月は僕の誕生月、生まれた所は平泉の第4区。しかも4男として。この4を3つ掛けると12(ジョニー)となる数字の面白さ!4月1日はエイプリル・フール(いわゆる4月馬鹿)ウソをついて人をかついでも世界的に許される日、いわゆる冗談のよいひ(4/1日)で、その性か僕はジョークが大好き。誰彼に素早く駄ジャレをいうものだから、笑いの無い日というものがない。これ健康のコツ!と肩甲骨を動かしながら、笑うような日々。
それにしても今年2019の春は多忙だった。4月10日・盛岡市民文化ホールでの穐吉敏子「89歳終わりなき演奏の旅」コンサート。案内封書1千人への宛名書き。更には、1日から始まる小泉とし夫さんの口語短歌「92才の朝と赤い裳のひと」の色紙展のための50点余りの左手での書、市内の友知人への案内文の宛名書きと3月31日の朝から1日の朝9時まで24時間ぶっ続けで完徹して書いた170通を郵便局で差し出してから、その日11時から始まる展示の飾り付けをしに「喫茶ママ」へ駆けつける。案内は3日の午後に行われた小泉さんの朗読ライブ(八木淳一郎さんのギター演奏)に間に合えばとの郵便だったが、どうやら間に合った様で会場満員御礼!現・ママ糸坂さんは「字の展示は初めてですよ!」とニコニコ笑。15日の最終日、小泉さんと片付け終えて飲んでいると、「来年4月、もう一度やって下さい」との嬉しいお話。アラマア・マありがとう! 4月7日、赤坂Bフラット、穐吉さんのライブに12人で行く。穐吉さん大連の弥生高等女学校時代の同級生・口羽尚子さんも元気で現われステージを降りたところで2人が抱き合っていた姿も感動的。この2人がジョニーに来た1987年8月(穐吉渡米後の日本初ソロ)がフラッシュバックする。10日はファン達の昨年からの心配を吹き飛ばす凄い演奏で皆さんアゼン!。さて僕の誕生日は「旅の手帖」で知られる、交通新聞社の取材を受ける「日本JAZZ地図」という本に載るらしい。夕方には、2日間、岩手県民会館大ホールをソールドアウトにした「5296」こと「コブクロ」のコンサートに、関係者ご招待で特等席に座る。ジャズとは対極的にあるビジュアルな世界を見聞させて頂き、終演後は楽屋に案内され皆にお会い出来、まるで夢のような母の「子袋」から僕が生まれた日となった。
4月10日(2019)「89才終わりなき演奏の旅」と題する、穐吉敏子さんのコンサートを盛岡市民文化ホールで開催した(北海道、東北、関東、関西、四国、九州、NYからも来場者)。そのコンサート終演時、花束を抱えてステージに上がったのは秋田県大館市からの田中京子さん(81)。彼女は1953年のボストンマラソン,世界新記録で優勝した山田敬蔵氏の妹。山田敬蔵氏が2度目に出場した1957年は穐吉さんがボストンのバークリー音楽院の学生だったことから、人づてに頼まれて、山田敬蔵他日本選手団に、自分のアパートのシャワーを使わせ、スキヤキを作ったりしてお世話(幸遊記№347)「ジャズと生きる・穐吉敏子著・岩波書店」している。
敬蔵氏優勝時の監督が、NHK大河ドラマ「いだてん」の主人公・金栗四三氏。2度目の57年は6位入賞。穐吉さんのお世話が嬉しかったのだろう。61年に初帰国コンサートで穐吉さんが秋田入りした時、バンドメンバーと共に料亭に招き「キリタンポでお礼の歓待」(秋田魁新報・昭和36年3月15日付)をした。そんな山田敬蔵(92才・神奈川在住)氏を「山田敬蔵物語」として調べ書きし秋田の北鹿新聞に連載した石垣隆孝氏から「当時穐吉さんを接待した料亭を見つけました。今も続いている“濱乃家”というところでした」と手紙が届き、更にその料亭の「手作り・きりたんぽ」を穐吉さんに食べさせて!と鍋セットが届いた昨年は、穐吉さんが体調崩して盛岡入り出来ず仕舞で食べさせられず残念でしたが、今年こそ!と再度届けてくれたので、4月10日の昼に開運橋のジョニーにて、山田さんの妹さんに調理して頂き、彼女と石垣さん、僕等と穐吉さんでご馳走になりながら、最近見つけた優勝時の映像を皆で見て拍手。 山田敬蔵さんの妹・田中京子さん(81)は偶然にも穐吉さんと同じ12月12日が誕生日。山田敬蔵さんは第57回のボストンマラソンでの優勝しかも生まれたのは新地町(現・大館市)57番地。おまけに優勝した日は4月20日で僕の誕生日。2003年には優勝50周年招待選手として呼ばれ42、195キロを走り70才以上の部で5位!と、まるで数字のマジック。更に当時山田さんが勤めていた会社・同和鉱業の会長で57年日本相撲協会運営審議会会長だった菅礼之助(1883~1971俳人・菅裸馬)は「菊酒や伝ふ六十九連勝」と双葉山への句。双葉山・穐吉定次は穐吉敏子さんの親戚である。その菅裸馬の本籍地秋田雄勝町で2003年に穐吉敏子コンサート。凄い繋がり!
福島の県庁所在地である福島市の入江町にある福島音楽堂周辺はむかしむかしは湖で、その中心にある信夫山は福の島と呼ばれていたという話を松本秀勝さんというアマチュアのサックス奏者から聞いたことがある。その福の島のふもとに音楽堂と並んで建っているのが古関裕而(こせきゆうじ)記念館。その古関裕而氏は、今から丁度120年前の1909に
年(明治42年)8月11日、福島市大町の「喜多三」(きたさん)という大きな呉服屋の長男として生まれた。父・三郎次は大の音楽好きで、大正初期まだ珍しかった蓄音機を店の使用人の娯楽用に購入し余暇にはいつもレコード(sp)をかけていたという。そんな音楽環境の中で育った裕而氏(本名・勇治)は10才の時に母・ひさに買って貰った卓上ピアノで作曲を始めクラスメイトの書いてくる詩にも曲を付ける程の才能を発揮。楽譜も自由に読めるようになり、曲も五線紙に書くことが出来、記号の意味も理解していた様子。ペンネームの裕而は1927年彼が当時傾倒していた山田耕筰氏の事務所宛に送った楽譜に「がんばりなさい」と手紙を添えて、彼の楽譜を再び送り返し、更に、その後数回の手紙のやりとりをして、その度の言葉に励まされての人生転換。コロムビアの専属作曲家で顧問だった山田耕筰氏の推薦で同社専属となった。 古関裕而の名で真っ先に僕の頭の中に浮かぶのは「黒百合の花」(1954年、菊田一夫作詞、古関裕而作曲、織井茂子唄)。何故これかと言えば、僕の数少ないカラオケ曲の定番だからです。だが彼は5000曲も作曲しており、その有名ヒット作も数え切れない程のこしている日本の大作曲家の1人である。僕の知らない曲「福島行進曲。福島夜曲」(1931年が初吹込み)。「船頭可愛いや」「露営の歌」「長崎の鐘」「イヨマンテの夜」「雨のオランダ坂」「フランチェスカの鐘」「高原列車は行く」「あこがれの郵便馬車」「ひめゆりの塔」「夕月」「君の名は」「幸福という名の駅」「終着駅」など次々と曲名やメロデイが浮かんでくる程たくさんの名曲があり、そしてあの1964年東京のオリンピックマーチである。来年2020年はそれこそすったもんだの復興五輪だが、そんな話をよそに来春のNHK朝の連続TV小説(朝ドラ)はこの福島出身の作曲家・古関裕而がモデル。平成元年に故人となった彼だが、30年経ての令和元年復活話である。
アサヒグラフ1953年12月23日号の巻頭記事に「本年度・浮世バンザイ告知板」という人物記事。その序文、一年の良い話は朝鮮でやっと砲火がやんだ(休戦協定調印)ぐらいのもの。8度の台風、豪雨が日本をおそい、更に東北は1932年来の冷害。政治は「戦力なき平和」を祈求する人々と「武装する平和」を堅持する人々がからみあい、国民は不安で仕方がなかった様子。そんな中で明るい陽射しを思わせるような話の種を、新聞雑誌の隅々から拾い上げ、その人々に会って、暗い世相の中、現実の楽しい顔を紹介している。
そこに登場している一人に我らが、穐吉敏子さん(当時23才)。「幸運拾った十三日の金曜日・ジャズピアニスト見出されて米国へ紹介」の写真入記事。このグラフをサンライズマンという人にプレゼントされて以来、その元になっている最初の新聞記事を読みたいと何年も想い続けていたら、この4月4日(2019)に、その記事が載っている「1953年11月14日付朝日新聞」コピーが僕の手元に届いてビックリ!探してくれたのは同紙のM記者!感謝感激雨霰(あられ)の僕。 その記事、何が大事かと言えば、昨・2018年10月、米国中央アトランテック芸術財団から「ジャズの生きた遺産賞」を受賞した世界のレジェンド・穐吉敏子さんが渡米(1956)のきっかけとなった“大事件”?を報道した最初の記事だからである。当時、日本のジャズ関係者の間では、すでに有名であり、本人曰く「小さな井戸の大きなカエル」だった彼女だが世間一般にはまだ知られておらず、新聞は「日本の一無名ジャズピアニストが来日中の楽団・JATP(ジャズ・アット・フィル・ハーモニック)のピアニストでアメリカの人気投票№1のオスカーピーターソン氏が彼女を激賞!アメリカへ紹介しようということになり、JATPメンバーの伴奏で、彼女のピアノがノーマングランツ氏の手により、ラジオ東京のスタジオでレコーディングされ米国に紹介される」という様な内容である。その初レコーディングから66年目の今穐吉さんは89才「終わりなき演奏の旅」(エンドレス・ジャーニー・コンサート)を続行中で4月10日19時盛岡市民文化ホール(マリオス小ホール)での演奏会に来盛します。お聴き逃しのないようご来場下さい! |
Copyright (c) 2005 Jazz & Live Johnny. ALL rights reserved. |