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前回幸遊記(№606)「病院でのすごいベットシーン」の続編です。いよいよ待ちに待った?結果発表の日。9月8日がやって来ました。切除した膀胱腫瘍の病理組織検査、診断の説明は、患者とご家族一緒に!というので少し緊張しましたが、切除された乳頭状の美術品みたいに美しく淡いピンク色した腫瘍(ガン細胞)画像を見せられながら医師の口から出た言葉は「今日、今すぐ退院してもいいです!」だった。
嬉しかったけれども、とっさのことで「退院は明日にします!」と僕。退院すればメチャクチャやらなければならないことが待っているので一日ぐらいは晴々とした気分で、カーテンで仕切られた6人部屋の一人空間で自由な時間を満喫してみたい!が本音だった。入院前日「旨いもの一緒に食べよう!」と、親友のO夫妻に誘われお寿司屋さんで女房と一緒にご馳走になった。「入院中に読んで!」と、買っておいてくれた2冊の本、その1冊「笑いと治癒力」(ノーマンカズンズ著/松田銑・訳)岩波現代文庫をベットの上で読み過ごした。素晴らしい内容に感動しながらも笑い転げた。 そう、そのくすりッ!ニコッ!の「笑いこそは、戸外に出る必要のないジョギング。楽しい心は医師と同じ働きをするブラシーボ。ブラシーボとは生への意欲と肉体の間を結ぶ使者で各人の中に住んでいる医者なのだ」という。「精神的安静を勝ち得るための戦いに敗北という形で起こる心の中の過労、さばききれない程の何かが四方からやって来て感受性を飢餓におとしいれられる」いわゆるストレスによる、病。 「人は皆自分の内部に根本的道理の観念を持っていて、その観念が告げる善性に耳を傾けそれに従って行動する。自分になりきる勇気こそが必要なのだ」まさにそう。最高の一日だった。 入院中、10日間ものまったく音楽の無い生活?は初めての経験。退院して店に戻ったら、やって来たのが、関東からのファゴット奏者・興津諒さん(29才)。演奏会で盛岡に来ての帰り「穐吉敏子ミュージアム見に来ました」と彼。「まあだだよう~」と僕。彼は神奈川フィルを中心に活動し静岡交響楽団の首席客演奏者であったり、全日本アンサンブルコンテストの審査員であったりする人で洗足と桐朋両学園で音楽を勉強し、ファゴットは16才からだそうだが、僕の退院祝いにと、浜辺の歌や月の砂漠など数曲と高音から低音までの音階練習音まで聴かせて頂き、感激的な日となった真のブラシーボ。盛岡へは「プラスエクシード・トウキョウ」の演奏会で来たのだという。ありがとう感謝感激!!
何てこったい!いつになく早々に書き送ったつもりでいた原稿。掲載前日電話があり届いていないとの事。女房に確かめたら「書いてないでしょ!書いたのは“穐吉ミュージアム”のことで、いつもの原稿は書く間もなく入院したでしょう」だった。あっ!そうか。タイムスさん、そして読者の皆様、本当に申し訳ありません。御免なさい。ポカしてしまいました。謝々。
さてここからは、その言い訳をしなければなりませんね。あれは7月30日、4回目のコロナワクチン接種を受けた翌日の朝、トイレに立ったら大量の血尿が出てビックリ。便器の水と尿だけでもかなりの量だが、色はどす黒い赤に染まり、しかも尿道が詰まってブッと(巨大?)膨らみ、バラバラッと勢いよく出たと思いきや、それはまるで真っ赤な小魚の様なものが何匹も飛び出してきたのには更にビックリ仰天!よく見れば魚の腹綿(内臓)みたいで、それは日に3度2日間途切れなく出て、一体僕はどうなるのだろうと只事ではない土日を過ごした。しかも10月4日にはバスセンターにオープンする「穐吉敏子ジャズミュージアム」の準備やら、11月11日に盛岡市民会館で開催する、親・子・孫の三世代による世界初演のコンサート「トシコズ・ドリーム」を控えて忙しい最中、頭が変になる。 月曜日、友人医師のすすめで泌尿器科のクリニックで尿検査をして頂き、そこから翌日に盛岡赤十字病院を紹介されて行き、超音波検査など受け、言い渡されたのは「90%以上、癌です!の膀胱腫瘍」。僕等世代の者にとって、ガン!は死への直行便のイメージが強いからガーン!と来るかと思ったら案外平気だった。手術するため2週間程入院が必要との事。 こんな時期にどうしようかと思ったが、先延ばしで良いことは無いと思い、“最短で!”と。血液、免疫、呼吸機能,膀胱カメラ、CT,MRI,X線撮影などなど様々な検査を受け8月31日入院。9月1日全身麻酔による「経尿道的膀胱腫瘍切除術」を受けた。経過は良好!と手術担当の岩崎一洋医師。あとは切除した組織の顕微鏡による病理診断の結果待ち(癌細胞の悪性度や浸潤度をしらべて)太、細2本の管を入れられ「生食」というなまめかしい液体を注入されている日々。こんなベットシーンもあるものなのですな。人生楽し!?
今年ようやく展示会が岩手で開催なったので、久しぶりに盛岡へ来たよ。と顔を見せて3晩ジョニーへ通ってっくれた「農機新聞」「新エネルギー新聞」などの発行元、株・新農林社の岸田義典社長と、農機部品会社の人達が来店して、ドリスデイだ、エラフィッツジェラルドだと、LPはもちろん、SPレコードまで取り出して聴き、ワイワイやってるところに現れた、もう一人の東京人。新堀勝康さん(64)初来店。
ずーッと来たいと思っていましたが、やっと来ることが出来ましたと新堀さん。話を聞けばアルミ製品を作る会社の方で、穐吉敏子さんの大ファン。「出張多くコンサートを中々聴けないけれど、10年前(2012)東京オペラシティ・コンサートホールで聴き事が出来たし、トークも印象に残ってます」と言う。そこで確か僕等も行ったはず!とファイルを開けば、ありました。10月20日(土)、盛岡から11名、関東関西などから11名の計22名のジョニーファミリー(ファン)で聴きに行った「穐吉敏子カルテット」(穐吉p/ルータバキンts.fl/ポールギルb/アーロンキンメルds)。あの時は穐吉さんがTV番組「徹子の部屋」に出演していたのを見てチケットを買い、聴きに行けたのだったと。それから穐吉さんのレコードの話を聞けば、僕が未だ一度も見たことがない、1953年録音のデビュー盤「TOSHIKOS・PIANO」の10インチ(25㎝)LPをも持っているというのだった。ワーオッ! だが驚くのはまだ早かった。僕のレーベル「ジョニーズディスク」のレコード盤さえ何枚も持っていて、その中の1枚「海を見ていたジョニー」(1981年発売)を買った時の話。50回も出張で行ったていたギリシャ・アテネのレコード店で見つけ、なんでこのレコードがギリシャに?と思ったそうだ。その話を聞いて、僕はハタ!と想い出した。そうあれは94年、友達の奥様がヨーロッパ1周旅行2人分半額のチケットが当たって、奥様(3・11の津波で二人共亡くなられた)の代わりに友と僕が一緒にギリシャ、イタリア、フランスを回った時、僕が制作した「海を見ていたジョニー」を持参し、アテネのレコード店に行き、店に飾って置いてくれと、頼んできたレコードであるに違いない!と、確信を持った。それがなんと10年後に日本に、しかも根っからの穐吉敏子ファンに抱かれて、密かに再び海を渡り日本に舞い戻っていたのですから、驚き、桃の木、山椒の木!でした。ドントハレ
「店やってますか?」とマスクの上の目が笑っていた。アレッ來田君?と僕。すかさず女房に「小春!來田君ご來田(来店)だよ!」で何年振りの話に花咲くカデンツァ。今何してんのと問えば「一戸町の役場職員、商工観光課で商品開発やってます」だった。一戸町の売りは何?「牛乳系とレタスにトウモロコシ。それにスズタケを使った鳥越の竹細工(都心で人気)。これをちゃんとした価格にしたいし、観光としては、昔の映画館「萬代館」の利活用と「御所野遺跡」ですね。とニッコリ。
萬代館には行ったなあ。御所野は平成元年(1989)発掘調査によって出て来た縄文遺跡。200棟もの竪穴住居跡など見つかり遺跡として保存活用すると決まった1991年から、ちょうど30年の2021年世界遺産登録まで持っていった取り組みの凄さ。僕は來田君に御所野は有名になったが一戸町はさほどではない。竪穴住居の“戸建”こそ“戸籍”の始まり、いわゆる世帯(所帯)一戸の始まり。だから「日本の家屋、始原の町一戸町!(御所野遺跡)と、うたえば、連鎖で町も遺跡も世界遺産もパッと人々の頭に浮かびあがるんじゃないかな?!」といったら、冗談とも本気ともとれるような真顔になって「おれ町長に立候補する!その時は応援のマイク持ってくれますか?」と言ってほろ酔いで帰って行った。もしかして、もしかしたりして、と思いながら見送りました。 彼、來田忍さん(38)は一戸町生まれ、岩手大学工学部福祉システム工学科と大学院を卒業。在学中GHK(岩大放送研究部)に所属し、当時僕が担当していたFM岩手のオールザットジャズ番組を聴き、TVでも見ましたと僕の店にやって来て、学生たちのライブや穐吉敏子さんのライブを見聞し、僕をGHKスタジオにゲストとして迎え、レゲエやロックのあとで「ライデング・サン・ジャズ・コーナー」ゼロ回目という、いわゆる放送用試験番組を制作。僕の音楽歴の始まりから穐吉敏子ファンになるまで、なってからのことまでインタビューされたそれは「ジャジー・ドリーム・サウンド・ステーション」と名付けられ「ラヂオもりおか」で放送されたのは20年ほど前の2003年。エンディングで番組担当の女子大生たちが「ジャズのゲストにビックリしました。凄いことをやる人(穐吉敏子ジャズオーケストラ・日本ツアープロデュース)だけど、おもしろかったね!」のコメントは嬉しかったので今も覚えています。ありがとう!この一葉の便り届いたとステップしながら舞子さん連れて又ご來田下さい。
前回602幸遊記のおしまいに穐吉敏子さんが興味を持って勉強したいと思ったバークリー音楽院への留学の第一目的はシュリンガーシステムという音楽理論だったと書いた。音楽理論とは音楽が先で、それを理論付けたものであることから、常に変化するものでもある。ところが、シュリンガーは変わらない理論。音楽的アプローチではなく科学的数学的立場から書かれたもので、穐吉さんの言葉を借りれば「これと、これと、これと、ナンバーをこういうう風に使うとこんなリズムになります。それをこういうう風に変えるとこんなになります。それを今度は直ちに聴いてみることによって、以前、聴いてなかったものが、それによって聴けるという、、、、そういう可能性があるんです。で、私ちょっと面白いかなと思って勉強したんです」。他には作、編曲、オーケストレーションを学び、バークリーレコード(ジャズ・イン・ザ・クラスルーム)のVol.1(1957)ではそれこそ科学的タイトル?音の残像?ともいえる「シルエット」を作曲。Vol.2には「マイエレジー」が収録されている。
バークリー音楽院はもともと、ジョセフ・シュリンガー博士という人が自分で考えだしたシステムを教える学校から始まっていて、創立は1945年、‘70年に大学となった。そのバークリー日本人第1号が穐吉さん。2人目が穐吉さんの推薦で入学した渡辺貞夫さん。というのが日本での定説。ところが、僕の店で演奏した竹中真さんというジャズピアニストは、かつてそのバークリーで日本人第1号の教授だった方。その彼によると、学校で古い資料を見ていたら、穐吉さんの次、渡辺貞夫さんより先に入学した日本人(東京大森出身?の人?)が居たというのだった。とっさに僕は、誰?日本、特にジャズ界では誰も知らないことだから、トピックスになる、と、来演の度に問いましたが、どうしても思い出せないということから、捜しに探し求めた結果それは大森荘蔵氏(哲学者・東大名誉教授・1921~1997)ではないかという推論(結論)に至った!それは彼の「直感的にある考えが正しいと思ったら徹底的にやってみる」の、それだが「やりすぎなければ革命は出来ない」そう僕等の若き頃は誰もが皆、そう思っていた。「体をさわりあうのと同じように声でさわりあう」はまさに哲学者にして音楽愛好者であった彼の名言!おもわずうっとりとしてしまいます。「音楽の音に限らず、音というものは哲学にとって密接な関係を持っている。音は感覚の本性である“無常性”を最も鮮やかに示す感覚である」と、音楽的。嗚呼ジャズも大きな森である。 |
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