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昭和22年(1947)に始まった戦後のベビーブーム時代に生まれた僕等は、団塊の世代と呼ばれてきたが、何と今年から遂に後期高齢者の仲間入りをしてしまった。昔のことは覚えていても、昨日のことは愚か、今日ついさっき聞いたことすら忘れてしまい、と言うよりも、覚えられないのでメモするが、そのメモしたことを忘れ、気付いてもどこに置いたかも忘れてしまい、メモアテラレナイとシャレを言う僕は一日の大半をもの探しに費やしてあーあーの日々。
そんな折、若者から聞いた「ミマモリ・ハチ」の話である。見守り?身護り?蜂?と聞き返したら「みまもりサービス・Hachi」なのだと言う。ならハチは忠犬ハチ公?と問えば50点。その秋田犬がキャラであり八幡平市の八でもあると言う。しからば横8永久サービス業?と僕(答えは百近?) 年老いた祖父母は勿論、父や母さえ、見守っていたくても付き添っていられない。でも犬なら常に優しく付き添ってくれる。そんな犬の心と気持ちを大切にした現代のみまもりう方もあっていいのでは!と気付いたのがコンピューター会社アップルの社員だった大西一朗さん(63・盛岡出身)が2019年に八幡平市で起業した「AP.TECH.株」の「みまもりサービスHachi」。アップル社のスマートフォンとアップルウオッチという腕時計を連動させて、高齢者の一日の歩数や動態、体調、心拍数とその変動、睡眠状態(淺深)等々迄、それこそ離れたところにいる家族や介護者がまるで側にいて話しかけ見守っているかの如く役目を果たしてくれるアプリを開発したのだという。それは自分が関東で働いていた時に、親を見守ることが出来なかったことからの開発であった。 その様々なアイデアを考えるのは元auショップで働いていた北田唯(35・紫波出身)さん。「社長と同じ盛岡三高出身だから拾って貰ったの」と謙虚な彼女のアイデアを組み込み形にするのが東京出身滝沢市在住の伴地慶介(33)君。彼女は社員で彼は委託契約者。それぞれコンピューター関係の仕事も持ちながら、尚且つアナログな対面の仕事もしたいとジャズに興味を持ち盛岡バスセンター3階のホテル・マザリウムに開設になった「穐吉敏子ジャズミュージアム」のラウンジ「CafeBar West38」でバーテン、ウエイトレス、として共にカウンター内にも立つ音楽好き。そんな二人が心を込める「みまもりサービス」は、月¥780とあって加入者に喜ばれている様子だ、なはん(780)。OK!
盛岡バスセンターがこの10月4日にオープン。開通式は1階のバス発着場で行われ、僕を含めた黒服の男たちがズラリと並び、達増県知事、谷藤盛岡市長、佐藤ローカルハブ社長、バス会社の人々などがあいさつのあと、ダンスを踊ってくれた子どもたちを乗せた各社3台のバスが出発すると、センターの周りはまるでお花畑のようなカラフルな色彩に身を包んだ女性たちが、わんさかわんさか、にぎやかに待っていて、驚きました。
思わず1960年の旧バスセンター開業の時はどんなだったのだろうか?と見知らぬ過去へ思いめぐらせば、昔々の杜稜館、神明社へと1世紀半もタイムスリップしそうだが、最初は2階建て。 のち3階建てへと増築されたガラス張りの、当時としてはかなりモダンな建物であり、そのセンターロゴは、今見ても素晴らしい書体。そのロゴは少し小振りになったが、センター全体の外観イメージと共に継承しつつ、中味は想像を絶する斬新さにあふれており、3階のエレベーターが開くと、おーっ!と少なからずの人数が声を漏ら す。 それは、設計者やヘラルボニーさんへの賛辞ともとれる自然発生音であるのが何かうれしい。そして、穐吉敏子さんのジャズミュージアムである。大半はただ通り過ぎる人々。 それが何とはなしに川の街、盛岡的でいいのかもなあと、笑みを浮かべれば、熱心に読み、見詰め、たたずんで眺め、ある人は流れる穐吉さんの音楽を聴きながら、「カフェバーWest38」でコーヒーを飲み、はたまた、昼飲みの時間を楽しみ、ホテルの部屋に囲まれた中庭で日光浴。あるいは中ノ橋通と南大通の交差点を行く人や車の流れを見て楽しめる広いベランダの広場へ出、眺め楽しんだあとは、スパでぬるめのナノ炭酸泉にゆったりとつかり、熱めの湯に入り、そしてサウナで汗を流し、水風呂に入る。こんどは、リラクゼーションのボディケアをしたところで階下のフードホールでおなかを満たす。 誰かが「まるで理想郷のようですな」と言ったけれど、まさにそう!。ある夜、僕が駐車場からたくさんの荷物を運んでいた時、舗道に落としたら、若者が「持ってあげますよ!」と、来た道を戻り、3階まで運んでくれたのでした。ありがとう!。 何と親切な人と思ったら、彼はセンター内の「ばすからめん」の店長さんで、何かとてもうれしくなり、あとで食べに行ったら、うまいのなんのでした。
この10月14日(2022)還暦を迎える齋藤博孝さんのピアノ物語である。昨年6月彼が偶然カーラジオで聴いた「100台のピアノ物語」長年にわたり音楽教室で使用して来たピアノをまとめて入れ替えることになり、その100台のピアノ(グランド10台、アップライト10台、電子ピアノ80台)を欲しい人にプレゼントするというお話。「なぜピアノが欲しいか、ピアノにまつわる熱い想いを、直筆の手紙で東京の山野楽器にお送り下さい」。
この企画に齋藤さんは400字詰原稿用紙10枚分にも及ぶ長文の手紙をしたため応募したら、100人の中の1人として受かり、尚且つその中から3話がピアノストーリーとしてBSフジの人気番組「小山薫堂・東京会議」に登場するというもの。その1話に選ばれたのは彼のグランドピアノ物語。手紙には、齋藤さんの家族、妻(54)長女(25)長男(22)次男(19)のこと。博孝さんの職業は自動車共済などを取り扱う保険屋さん。 あの3・11の東日本大震災を期に仕事は大変な事になり、自らも精神的病にかかり、挙句の果てには、彼が保証人になっていた会社の倒産、その責務のため自己破産。守りたかった自宅を空け渡し、その引っ越し先を依頼していた不動産会社にまで騙され、泣きっ面に蜂の如くの状態で、飼っていた犬猫連れて住める貸家やアパートさえも見つからず途方に暮れていた時「ピアノ当選通知」。 本来なら最高に嬉しい瞬間、大喜びのはずが、辛さ苦しさで殺伐としていた時期だったことから辞退すべきではないか?と頭をよぎった。という。だが良く考えてみれば、我が家に吹く風が変わった瞬間であり、仙台から帰省していた娘さんの「やるしかないね」の一言は、かつての笑顔を取り戻すきっかけとなった。 ピアノプレゼントへの応募のいきさつは、3人の子供たちがまだ小中高生だった頃、全員が各吹奏楽部でトランペットやチューバを担当。ある時3人が部屋でディズニーメロディを、ああでもない、こうでもないと言いながら合奏する音を聴きながら「音楽って本当にいいもんだなあ」とジーンと来て泣いた彼。ある日ラジオから流れて来た福山雅治さんの「家族になろうよ」を聴いて、自分でピアノを弾き、妻が歌い、子供たちが伴奏する、1曲だけの家族演奏会を開く夢を持ち、それに向かって今、動き出さねばピアノが弾ける自分の未来もやって来ない!と行動した結果なのでした。
10月4日オープンする「盛岡バスセ ンター」その3階には34室の「ホテル マザリウム」。受付カウンター(ボックス式)から一番近い客室のナンバーが318。その黒いドアに、白で標示されている文字は「Toshiko Akiyoshi」。うれしくてフェイスブックにアップしたら早速誰かが「徹子の部屋?」「敏子の部屋!」とSNSに書いていた。
そこへちょうどタイミングよく「こんなの見つけたけど、持ってますか?」と持参してくださったMさん。そのどこからか届いたMさん宛ての封書の中から出てきたのは懐かしの「ジャズ・タイムス紙」(1979年の4月号)。 その3~4ページに穐吉敏子VS黒柳徹子!と、対談が写真入りで載っていた。確かその頃テレビの徹子の部屋に穐吉さん出ていたなあと思いながら読むと、エアチェックした徹子の部屋の二人の語りでした。その中で徹子さんが「アメリカで穐吉さんのビッグバンドが一番というのは、世界でも一番なんでしょうが、どんなお気持ちですか?」。 穐吉さん「あまり実感がありません。やることはいつも同じですから、ある程度のレベルを保つように心掛けて続けていく。それを他の人が注目してくれるということじゃないかと思います。ジャズバンドの一つの伝統を受け継ぎながら何か新しい事をやっていく姿勢なんです。それが希少価値なんで しょう(笑)」。 徹子「ミナマタ」という作品を作っ ていますが、日本の社会問題は、穐吉さんの生活の中で切れない問題ですか?」。 穐吉「私の考えは、まず第一に社会人であり、第二にジャズ音楽家なんですね。社会人として自分にふりかかる事が起こった時に、私はジャズ音楽家ですからジャズ語で、自分の気持ちを述べるということなんです」 それこそ当時の社会問題であった、このミナマタ病をテーマにしたアルバム「インサイツ」は1976年度のスイングジャーナル誌の第10回ジャズ・ディ スク大賞の最高賞である「金賞」に輝いた絶対至高の名演であった。そのイ ントロで「村あり、その名を、ミナマタという――」の名唱は、穐吉さんの一人娘、マンデー・満ちるさん(当時13歳)の朗唱ともいえる歌声で、いつ聴いてもジーンときます。 そのマンデーさん(fl・vo・59歳)は来る11月11日夜7時から盛岡市民文化ホール(マリオス)にて、母・穐吉敏子さん (92) と息子・ニキータさん(Sax・22歳)と一緒に親子孫3世代による世界初演!のコンサート「トシコズドリーム」で来盛します。 まずは10月4日の穐吉敏子ミュージアムオープンには、穐吉さん作曲の「ホープ」を歌うホープガールこと金本麻里さんのライブでスタートです!お誘い合わせの上、ご来場ください。
「道、それは時の流れゆく彼方に向かい、熱き何かを求め生きぬとする者の前に存在する。その道は険しく遠く、ときには辿り着くことを許さぬように厳しさを秘め、限りなく人を魅了してやまない」と言ったのは荒川憲二郎さん、田沢湖ジャズクラブの会長。時は1992
年盛岡の岩手教育会館で行われた穐吉敏子ジャズオーケストラのコンサートで彼女のオープニング曲「ロング・イエロー・ロード」を聴いたのちの言葉だった。 その彼、荒川さんにとって、40年来の夢だった、ジャズ喫茶「ケニー・トーン」(憲二郎の音)を自分の故郷、秋田県角館町のJR田沢湖線菅沢踏切近くに今年2022年にオープンした。僕も女房と連れたって開店の日に訪れてみたら、何と!店内は、穐吉敏子レコードギャラリーの如く、サイン入りのジャケットが壁にズラリ!オーディオは彼が自宅で使用していたものだが、広さが合ったのか、ガゼン本領発揮して素晴らしい音で鳴っていて嬉しくなった。 小中学校の先生だった彼が、生徒たちに教えて来たのは夢を持つことの大切さだった。「夢と聞くと何を想い浮かべるだろうか憧れの職業に就くこと、勝負に勝つこと、大金を手に入れる事。ただ何となく夢は若い時に追いかけるものというイメージがあった。それを覆してくれた人が居る」と報じた秋田魁新聞(8/23)。20代の頃から「いつかジャズ喫茶を開くのが夢、夢があるから仕事にも頑張れる。と言い続け、定年退職後に自分自身の長年の夢だったジャズ喫茶を始めたのだから、喜んで駆け付けた若者たちは皆教え子たちであった。新聞記事には、「師をと仰ぐ照井さんとの交流を続け自分もジャズの魅力を伝える立場になりたいとと考える様になった」と僕とのいきさつなども書かれてあり嬉し。振り返れば40年余りの交流である。夏休みに毎年10年通って1992年田沢湖邪頭倶楽部を立ち上げるまでの彼を主人公にした僕の小説?「瑠璃色の夜明け」はのちに東北近代文学事典に当選?して名前が載ったこともすでに懐かしい思い出ですが、彼が教え子から「ジャズってどんな音楽?」と聞かれ、どう答えていいか言葉につまりながらも、口を突いて出たのは「ジャズは感じるものである。音楽の枠(ジャンル)をも飛び越え心を刺激し振動させる何かだと思っている」は、30年前の彼の言葉。それを実践する第2の人生の幕開けに乾杯!!30年続けたジャズクラブにも乾杯!そして穐吉敏子ジャズミュージアムに乾杯! |
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