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7月の末だった。主人から頼まれて来ました!と、たかはし・ちずさんが1冊の本を届けに来てくれた。「ロング・イエロー・ロード」(ジャズ三冠王の長い道のり----秋吉敏子)本多俊夫著、一光社、1984年発行である。この本実は発売と同時に買い読んだものであったが、すでに中味の記憶はあいまいで、それこそ離婚で失い、3・11の津波で海へ流失。以来10年探し求めさ迷い歩き、ネット上でも探してもらってもいたが、遂ぞ今まで見つけることが出来ず仕舞いでいた。嗚呼!ありがとう!
ちずさんのご主人は、ザ・サンライズマン。彼はこれまでにも、様々なそれこそ1950年代にまでさかのぼっては、穐吉敏子さんに関する資料を見つけて来ては「これはこれは」と僕を喜ばし続けている日出ずる国の男。 さてその本「日本女性がジャズの三冠王に」「ジャズとは何か」「秋吉敏子の音楽人生」「穐吉敏子ディスコグラフィ」の4章からなる200ページ。ジャズの三冠王はエイリアン。ジャズにとってわたしは何か、を考えた。誤解されているジャズ。レコードを聴きまくってジャズを仕入れた時代。アメリカへ留学。一流奏者との交流。結婚、出産、離婚。三冠女王の秘密。などなど40項目からなるインタビューを交えた本だが、著者・本多俊夫氏は若かりし頃はプロのジャズベーシスト。のちの評論家でジャズ番組のDJでもあった。(1929~2002) 知ってはいてもちょっと僕の気を引いたのは敏子さんの姉・美代子さん(本の中では三千代の表記)が語った「敏子がピアノを始めたのは母の影響が強かった。母は大の音楽好きで長唄からクラシックと幅が広かった。だから家には各分野のレコードがいっぱいあったし、父は謡曲をたしなみ戦後はそれで生計立てた」と。 「自分は長唄と三味線を得意としていたが、敏子は私よりラジオで長唄を熱心に聴き、私の踊りを見て覚え、学校で踊ったと先生から聞いて、母もビックリ、とにかく負けん気のつよい子でした」と。その敏子さんがバークリーで勉強したいと思ったのはシュリンガーシステムという音楽理論。それも科学的、数学的立場からの理論で音楽的アプローチからではない理論とオーケストレーションを勉強し、4年の行程を3年で卒業していた凄さでした。その彼女を評論家の行田よしおさんは「真の意味でこころざし高き人、不断の努力と不屈の精神とで今日を築かれた」とありました。
ニューヨークのジャズシーンを伝える月刊誌「オール・アバウト・ジャズ」(www.all.aboutjazz.com)7/21(2022)発行に、ジャズピアニスト・穐吉敏子さんの娘・マンデイ・ミチル(歌手・フルート奏者)のロングインタビュー記事が載った。
オール・アバウト・ジャズといえば、浮かんでくるのは、穐吉さんが表紙を飾った2009年4月号(穐吉さんが僕に送ってくれた)。それはさておき、マンデイさんは、穐吉さんと前夫・チャーリーマリアーノ(サックス奏者)との間に1963年8月19日、東京で生まれ、アメリカで育った。インターロッケン芸術アカデミーにて奨学生として学び、フルート、ボーカル、作曲をやり、フルーティストとしては80年にレコードデビュー。87年、映画「光る女」に出演し日本映画アカデミー最優秀新人女優賞を受賞。91年「満月」で歌手デビュー。のち「ジャズとは何か」について数十人の有名アーチストへのインタビュー。その1人、ウェインショーター(サックス奏者・1933~)は「タブーはありません」と答え、そこから、彼女は「自分の人生にアプローチする」という実験と試行錯誤を繰り返し、本能的な歌詞の書き方から深い思考や感情を解き放つ方法、スリムなアンサンブルや作曲に重点を置くなど、自分の心の中で感じたことを自分のために反映させることが重要と、音楽の方向性や制作などで、世界をリード。「全て行うことを恐れない女性を代表することを願っている」とあり、アシッドジャズのパイオニアだが「私は振り返って私の最高の日が私の後ろ(過去)にあるのは好きではありません」はまさに母・穐吉敏子さんからのDNA。 そして又「私にとって最も重要なことは、リスナーの耳を教育することです。米国では学校はじめ、多くの管理者が、音楽と芸術の真の重要性を理解していないため、音楽と全体的な文化教育が十分ではありません。でもリスナー(音楽鑑賞者・聴衆)の耳だけはジャズにもっと調和している必要があります」と。 そして歴史上の誰れかと夕食をとることが出来るとしたら?の問いには「双葉山(1912 ~1968本名・穐吉定次)。彼は日本の偉大な力士(69連勝の記録保持者)であり人物の1人。たまたま私の母の父のいとこでした。彼は哲学者であり詩人でもあり、私のルーツの1つとして、彼に会いたかったのだと私は理解しています」。今年秋に盛岡にオープンする母のミュージアム(穐吉敏子ジャズミュージアム)と、そのコンサートにもふれておりました。ありがとう。
紫波町にある野村胡堂・あらえびす記念館・協力会というNPO法人の理事長・野村晴一さんから電話を頂き、ご自宅におじゃまして来ました。最初に出迎えてくれたのは犬のまる。僕もまるで犬のようなケンだから、仲良くしようといったら、お座りし、お手!までしてくれた。はいよケンケンするかいと僕。
そこへ野村さん出て来て、これ持って行ってと差し出したのは、箱に入った10本のワイン。ラベルを見れば、なんと!14年前の2008年7月20日あらえびす記念館で行われたジャズコンサート「穐吉敏子ピアノトリオ」の記念ボトル(NYの穐吉さん宅には今も空びんが飾られています)。当時出来て間もない紫波フルーツパークが自醸したミュラートゥルガウ2007の辛口。ずっと蔵の中で寝せておいたのだという。 僕の頭は一気にあの日のコンサート終了後の打ち上げ光景に戻って行った。穐吉さんのあの一言「なんでこんなにマズイワインをつくったのかしら。ブドーが若いから、ジュースの方がよっぽどおいしかったんじゃない」は、強烈な印象となって居合わせた人々の耳に突き刺さった。それでも若い時に(胡堂の)銭形平次をよく読んでいたという穐吉さんは、いつか美味しいワインが出来たら送ってください!と、ワインのネーミングを考えて下さる約束までしてくれたのでしたから、皆の喜びようは凄かったし、当時町長だった藤原孝氏が感謝を込めて穐吉さんと嬉しそうにワイン談義していた姿まで浮かんで来る。 頂いて来たそのお墨付き?のワイン。開運橋のジョニーで密かに1本栓を開け、1人で飲んでみた。結果は?って!一口目はあのイメージ。だがなんと二口目、三口目、1杯、2杯と、口にする度少しずつ美味しさがアップするスッキリ感。飲み飽きず、気が付いたら1本空いていました。土蔵という貯蔵環境の良さに脱帽!ああ旨かった。 それこそ野村晴一さんは胡堂さんの弟孫にあたる方で奥様共々人柄最良、館長時代の2000年代から2010年代、僕は毎日の様に記念館に足を運び、とてもお世話になりました。この幸遊記の顔写真は、本紙盛岡タイムスさんに撮って頂いたもので、記念館で開いて頂いた僕の書展(2006年5月)「音楽の基本リズムはコドウです」の時のもの。そして胡堂百話に習い、穐吉百話「トシコズドリーム」(2009.1~2012.12)をこの幸遊記以前に百回書かせて頂いたのでしたが、読み直したら“とてもマズイ”文章でした、今はどうなのだろうか?誰かご感想をお聞かせ下さい?(週一連載700回記念に)
フリージャズ・サックスのパイオニア・高木元輝こと、李(LEE)元輝(WONHUI・1938~2002)さんの特集本「アートクロッシング・第3号2022」が、山口県防府市新田1863の「ちゃぷちゃぷレコード」から、この6月1日発売なりました。と、僕のところに持参し、プレゼントしてくれた金野吉晃さん。彼は、盛岡在住のフリースタイルミュージシャンであり、海外レーベルを含め、多数のCDを発表してきた人で、この本にはリーさんのレコード「グロー」について自分も書いているというのでした。
182ページからなるその150~153ページに「海を見ていたウォンヒー」金野ONNYK吉晃として、1985年に僕がプロデュースした、李さんと菊池コージさんのジョニーズ・ディスク(JD-13)について、金野さんから僕がインタビューを受けた(2018)の話が載っておりました。「私(吉晃)の父の実家が、陸前高田の「ジョニー」から500メートルも離れていなかった。叔父夫婦が経営していたその薬局に泊まりに行けば夜は必ず「ジョニー」で酔仙の「亀」や「鴎」という焼酎を飲みながら店主自慢のオーディオでジャズを聴くのが楽しみだったで始まる文章。 在日韓国人2世として京都に生まれた高木元輝さん。祖父は書道家。父は在日朝鮮人の代筆師として日本に来た人で、元輝さんはその4男2女の5番目。中学でクラリネット、高校でサックスを始め、吉沢潤クールキャッツでプロデビュー。ビッグバンドで活躍後、フリーの吉沢元治(b)富樫雅彦(ds)高柳昌行(g)加古隆p)等々他多くのヨーロッパフリーミュージシャンと共演し、日本人として最初にフランスの世界ジャズ人名辞典に載った人。 その高木元輝さんが僕の店で演奏し始めたのは1981年から。毎年様々な演奏者と来演。そのフリー演奏は音楽を超越した別次元へと吹き進む彼独特の垂直音。だがその曲の終わり頃に、えも言われぬ美しい音を出す。その一瞬の音で、出来るだけシンプルに普通に演って頂けませんか?で“OK”を貰い、録音。A面をソプラノとテナーのサックスソロ。B面をドラムとのデュオ。スタイルは水と油だがそれを交叉させるレコード作り。李さんは気に入らない様子でしたが、その音をアメリカツアーにまで持参して聴いたという。後に東京で会った時、彼は「照井さん、だんだんあの演奏が好きになってきました」と言ってニヤッと笑った、まるで少年の様ないい笑顔は、今も忘れられない。そういえば「露天風呂に入って聴いているみたいな音楽だ」と言った人がいたっけ!
只今(2022)公開募集中の「穐吉敏子ジャズミュージアムのクラウドファンディング締切の7月31日前に、日本語と英語版の記事を公開したいと思っておりますので、可能であればオンラインで1時間半程度ジョニーさんにお話を伺ってもよろしいでしょうか?大変忙しい中、ご検討の程よろしくお願い致します」のメールをくれたのは、サウンドジャーナリズム「HEU」の許浄若(きょ・じょうじゃく)さん(26・台湾出身)。
彼女は2013年に日本の文化を知りたい!そのために、とりあえず日本語を勉強しなければと来日したが、日本語はとてもむずかしく、単語だけの会話しか出来ずにいたら尊敬していた編集者から首を言い渡され落ち込んだけれど、それが逆に自分のエネルギーとなって、音の世界に飛び込んだのだと。名刺には「音を追求する」とあるが、本当は「追求ではなく探求する」でした!と、笑う。今はイヤホンをつくる会社に勤務しながら、音のジャーナリストになるべく、早朝に起きて、本を読み、調べては文章を書く。でも、2年前までは全然何も書けなかったですが、と言いつつも「記録するのが好きなので感じたままに記録したい」と、音に関する事々についてのリサーチの毎日という。 そこで標的となったのが僕!?昨年、今年と来盛しては、ジャズについて、音について、そして穐吉敏子さんについて色々と質問し、記念写真に納まり帰った後、よく僕のCD“般若心経”を聴いているという。それは「私の名前の浄若は、この般若心経からの字ですから」と。たしかに!そしてこちらから送る紙に音を表す字を、或いは絵を書いて送り返して下さいませんか?。切手を貼った封筒も入れておきます。との事。 オンラインでの質問は「48年前初めて穐吉さんの“孤軍”を聴いた時、何が心に何が引っかかったのでしょうか?」「ジャズに日本の要素など取り入れるにあたって穐吉さんの背を押したのは何だったのでしょうか?」「照井さんが感動した穐吉さんのコンサートについて」「夢の実現にあたって最も困難だったことは何?」「店の赤字がピークに達しても続けようとしたものは何でしょうか?」「穐吉さんの音楽をとことん探求した中で気づき学んだことは何?その醍醐味も教えて下さい」「人生の生き方全てを穐吉さんに教わったと、それについておしえていただけますか?また穐吉さんに共感したことは何でしょう」等々に脱線しながら、ことばあそびを交えての楽しいひとときでした。ありがとう。お陰様で僕も少し浄若なった様な気分でした。拝 |
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