盛岡のCafeJazz 開運橋のジョニー 照井顕(てるい けん)

Cafe Jazz 開運橋のジョニー
〒020-0026
盛岡市開運橋通5-9-4F
(開運橋際・MKビル)
TEL/FAX:019-656-8220
OPEN:(火・水)11:00~23:00

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幸遊記NO.438 「デュークエリントン切手の元写真」2019.6.11.盛岡タイムス
 幸遊記№436故・阿部克自氏の撮った穐吉敏子生写真のこと書いたあとで彼の、写真集「ジャズの肖像」(2018年シンコーミュージック)の監修にあたった行方均氏の巻頭文の中「オレの撮ったエリントンがさあ、アメリカの記念切手に使われているんだよ」と阿部さんが行方さんに言った下りと、その覧右上にある切手写真を見て、あれ!と思った僕。その切手とはピアノを弾くデュークエリントンを左側、つまりステージの後ろ側から撮影した珍しい写真である。切手!切手、と僕の頭の中がレコードの様に回転する。そうだ!あれだ!。資料棚から取り出した故・村上軍記さんからの手紙類。その中から出てきた「4枚のエリントン切手(未使用)」。彼が65才だった2009年に、僕に送ってくれたまさに本物のそれだった。この切手が発行されたのは、デューク没後12年目の1986年4月29日(デュークの誕生日)。その写真撮った時のエピソードは阿部さんの本「とっておきジャズ体験・パーカーの子守唄」(1994年シンコーミュージック)の12話「予感」に書かれていて、1966年赤坂のクラブ「月世界」での公演時にデュークへ前々日に渋谷公会堂で撮った写真を渡しながら「今日は出来れば逆光で撮りたい」と伝えたら「じゃあオレの脇に居ればいい」と、メンバーと一緒にステージに上がらせてくれたのだという。
 しばらくしてニューヨークの出版社からデュークの自叙伝「ミュージック・イズ・マイミストレス」(音楽は我が恋人)が届いて、開けてみたらあの月世界での一枚が一ページ大で使われていた程、デュークが気に入った写真だったらしい。だがその写真を切手にしたアメリカ郵政省からは無しのつぶて!と、米大使館に不満申し立てをしたら、Kアベの作品と認められ切手への使用料が支払われたという。それと似た話だが2016年3月、ニューヨークのジャズクラブ、ブルーノートで僕が買った穐吉敏子の絵はがき(LP孤軍のジャケット写真を元に描かれた)のことを関連的に思い出し、確かめてみたがK・アベの名はクレジットされていなかった。LP孤軍は僕が穐吉敏子への旅をはじめるきっかけとなった作品。それを僕に紹介してくれた村上軍記さんの人生観を変えた一枚は「デュークとコルトレーン」(インパルス盤)。デューク亡きあと生誕100周年を記念にデュークをトリビュートする曲をつくる時、アメリカ側が作曲者として指名、依頼したのは日本人穐吉敏子であった。なんというめぐりあわせであろうか。

幸遊記NO.437 「予期せぬアクシデント」2019.6.3.盛岡タイムス
 時折調べ物をしに図書館に行く。と書き出して浮かぶのは、そうだこれも音楽の調べ(演奏や調子)と同じことかと。その調べ中(いわゆる演奏中)に起きたアクシデント・予期せぬ事故の話で思い出したのは、昔、クラシックのコンサート中、停電に見舞われ、演奏中に会場真っ暗、だが演奏者は何事も無かった様にその曲を暗闇の中よどみなく弾ききったという話。その演奏者とは、安川加寿子(1922~1996)。日本芸術員会員で、芸術家会議会長、日本演奏家連盟理事長、日本ピアノ教育連盟会長、などなど数えきれない程の役職を歴任した東京芸大名誉教授。身近な話としては1964年11月、岩手県公会堂で労音主催例会コンサートで来演していたピアニスト。
 その安川加寿子さんを親戚に持ち、彼女からピアノの手ほどきを受けたジャズピアニストのケイコ・ボルジェソン(72・スエーデン在住)。僕は彼女のヴォーカルとピアノが大好きでたまらない1人であるが、実は彼女、昨2018年12月、僕の店でライブの予定だったが当日の朝、前日の公演先だった福島で宿泊先の階段を踏み外し転げ落ち、右手首を骨折。すぐさま病院で手術を受け、ライブがキャンセルになったのでした。そのリベンジにと、この5月31日・2019、店に来てライブをしてくれたが右手にはまだ生々しい手術痕。帰る途中福島で金属を抜き取る手術をするのだということでしたが、右手が使えなくなったことで自分にプラスになったのは左手の使い方の進化とヴォーカルが深化してうまくなったと言っていたけど、聴いてみたらそのとおりで僕も惚れ直しという親愛から深愛へと変わる程、凄さが増したことは、まさにケガの巧妙かも。昨年大好きな二人(トシコとケイコ)さんそろってのキャンセルだったが、その二人の復活演奏には、これまで以上に感動させられました。
 それこそ図書館でふと昔の事を想い出し調べてみたら出てきたのが。僕の名が世に出た最初のアクシデント記事!1966年11月の新聞。「24日午前1時ごろ陸前高田市内の県道笹の田峠のカーブの多い下り道で居眠り運転、軽四輪ライトバンが約百メートルがけ下の沢に転落、三人が一ヶ月の大ケガで県立高田病院に収容された。運転していたのはクリーニング店員・照井顕(19)」。乗っていたのは叔父、叔母で、よくぞ誰も死ななかったもの、以来僕は二度目の人生を生きて来た。

幸遊記NO.436 「ヒロシマの希望と阿部克自の生写真」2019.5.27.盛岡タイムス
 昨2018年8月6日付・本紙盛岡タイムス(幸遊記・№394)に登場していただいた広島・善正寺の中川元慧住職から3月11日に封書が届いた。入っていたのは手紙とコンサートパンフコピー。パンフは2001年8月6日、ヒロシマ厚生年金会館で行われた「穐吉敏子ジャズオーケストラ広島公演」(ヒロシマ~そして終焉からの初演コンサート)。企画したのは住職を頭とする実行委員会「私が広島で生まれ育ち被爆者を親に持つ僧侶としてのささやかな平和に対する思いから、21世紀には核兵器が絶対に使用されることのないことを願って、秋吉さんに“ヒロシマ”という曲の作曲を依頼し、秋吉さんの希望でその発表を21世紀最初の8月6日、今日この広島の地で行うものです」と中川住職の挨拶文。主催したのは広島テレビだが、そのコンサートの模様を放送したのはNHK・BSI・8月11日。1200部刷ったパンフ以上の入場者数で足らなくなりメンバー全員のサイン入り1部だけが住職の元に残った。送られてきたそのコピーを見て僕はアッ!と思い出しパンフ資料を調べたら、ありました!本物が!それこそ秋吉オーケストラのコンサートを制作した招聘元の株・オールアート・プロモーションで、ロードマネージャーをしていたアキヨシこと鈴木明義さんから、コンサートのこぼれ話(原爆投下時の音をドラムで表現演奏したジョージ川口さんのこと)を聞いた後で、僕が持っているよりジョニーが持って入る方がいいからとプレゼントしてくれたものだった。あらためて鈴木・中川両氏に感謝です。
 すると翌4月、今度は神田神保町にある「アデロンダックカフェ」の滝沢理さんから昔の穐吉さんの白黒生写真5点。2枚は1963年帰国時のステージ写真(ふっくらとしたおなかには生まれる前のマンデイ満ちるが入っている)と、84年ケンフランクリング撮影のピアノを弾くトシコ。そして80年代の穐吉夫妻、それを見せたら「あ、これ阿部ちゃん(阿部克自・1929~2008穐吉のレコード孤軍のジャケット撮影者で日本人初となったジャズ写真家の最高栄誉「ミルトヒントンアワード」2005の受賞者)のしゃしん!」とサインを入れてくれた穐吉さん。そういえば昨2018年1月行方均さんが監修した阿部克自写真集「ジャズの肖像ポートレイチャーズ」(表紙にはデューク、マイルス、コルトレーン等と共に秋吉写真)をプレゼントしてくれたのが盛岡の及川房子さんでした。感謝!感謝!

幸遊記NO.435 「盛岡労音のジャズ例会事始め」2019.5.20.盛岡タイムス
 僕が2001年春に盛岡へ店を出してからこれまで様々な人たちから教えてもらった昔々、盛岡へコンサートにやって来た人やグループ名、主催団体などそれらを耳にするたびにメモして来たつもりだが、そのメモのありかにたどりつかず、目もあてられないなどと、シャレでごまかしてきた僕も、そればかりも言っていられぬと、まず自分と同世代のジャズ喫茶の活動歴。それと先輩たちの店のやり方、その活動の痕跡(こんせき)、岩手ジャズ愛好会、岩手ジャズ喫茶連盟、東山堂楽器(現・東山堂)、盛岡労音(のち盛岡新音)と、そして盛岡最古のジャズライブ店と思われる「白バラ」に至るまで、それらをよく知る人々との出会いによって、ようやくその全貌(ぜんぼう)が見えはじめてきた。
 今年2019年の5月連休前、盛岡のジャズコンサート史から欠くことのできない穀蔵力氏に出会ったことを前回書きましたが1961年以前存在していた芸協(盛岡芸術鑑賞協会・会長・山本弥之助・当時の市長。会員数2500名)を発展的に解消し、労音、労演として再出発したとき、労音(勤労者音楽協議会)の事務局だったのが穀蔵さん。委員長はうたごえサークルをやっていた県総務部の高橋源氏、役員を除く30人程の委員の中には佐々木初朗氏(下ノ橋中の先生、のちの教育長で、市民文化ホールにパイプオルガンの導入の労をとった方)の名。さてその盛岡労音は煩悩(ぼんのう)の数と同じ全国で108番目の発足。その初例会は61年12月の「二期会合唱団」2200名の会員により県公会堂で3回のステージ。更に62年1月第2回例会は2770人の会員で「鈴懸の路」で知られるジャズクラリネットの鈴木章治とリズムエースで盛り上がったその労音のコンサートは一年後の穐吉敏子までに4度のジャズ関連コンサートを開いていた。
 僕がこんなことを調べるきっかけとなった穀蔵さんと偶然に出会うことになる直前、実は70年代に“BunBun”という、ライト・ミュージック・ニュース・モリオカ(のちにイワテ・発行元・東山堂楽器/現・東山堂)という手書きの隔月刊ミニコミ紙(72~76、数万部発行)の編集をしていた槻館常敏さんとコンタクトが取れ、連休明けに「ブンブン」を見せて貰う約束をしたばかりだったのだから、渡りに舟、縁の不思議さをつくづく思わされている最中なのです。皆様ありがとうございます。

幸遊記NO.434 「ついに始まった盛岡ジャズ史への旅」2019.5.13.盛岡タイムス
 この幸遊記の連載を始める前、100週(回)書かせて頂いた「トシコズ・ドリーム」(№96・2010・11・29盛岡タイムス)の主人公・穐吉敏子さんの「私のジャズ物語・ロング・イエロー・ロード」(NHK教育TV番組“人間講座”2004年6月~7月期を収録した本)を、穐吉さんがニューヨークから僕に送ってくれた。その第7話「ジャズを愛する人々」の中に僕の名前も出てきてビックリしたものでしたが、第4話「わが心の師デューク」の冒頭に「ピアニストとしての師がバド・パウエルだとすれば、音楽家としての師がデューク・エリントンでした」とある。穐吉さんが初めてデュークの音楽をレコードで聴いたのが1947年頃(僕が生まれた)だというが「正直なところ何だかよくわかりませんでした」。その10年後ボストンでデュークのオーケストラと共演したときも「音楽の理解が浅かった私は正直なところアンサンブルには興味がありませんでした」(中略)。その時受けた印象は「彼のユニークでダイナミックな指揮ぶりに彼の音楽家、リーダーとしての大きさを感じた」。
 又6年後の72年夏、デュークがロスのディズニーランドに出演した時、客席にいたアキヨシをステージに招きバンドと共に「A列車で行こう」を弾かせ、大勢の聴衆がピアノのまわりに集まり手拍子を取った。演奏後、老夫婦が寄ってきて「貴女の演奏は30年前のデュークみたい!」と言った。「デュークに似ているとは思わない私は、貴方たちはデュークを聴いて何年になるのですか?」。答えは「私は28年、ワイフは36年間のファンです」。その時穐吉さんは「アメリカのジャズの歴史、厚みにめまいがする思いでした。このような人々に支えられてジャズ史の上に立ち、その歴史の重要な1部であるデュークを羨ましいとも思いました」。このくだりは忘れ易い僕でも覚えており、あれから15年、あっという間に僕も穐吉ファン歴45年になった。
 2019年5月の連休前、僕は盛岡のコンサート(特にもジャズ)には欠くことの出来ない重要な人物・穀蔵力氏に、民家画廊「ダダの家」で偶然に声を掛けられ、1963年、秋吉敏子カルテットを盛岡に呼ぶため、アメリカからのバンド招聘元・神原音楽事務所まで交渉に行ったと聞き、その資料を調べながら穐吉さんを基点として、僕の中で更なる盛岡ジャズ史にまで発展している。

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