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「ジョニー!僕の好きな歌手を呼びたいんだけど、ここで演らせて貰えないかな?」そう言ったのは、日本酒愛好家の田中三郎さん!“この人!です”と、4枚のCDを持参。この人とは独自の解釈で様々な音楽を自分流のジャズにしてしまう独特の雰囲気を持つ「さがゆき」さんでした。日時は7月12日2019。会社員である田中さんが、自分のポケットマネーで印刷したA5サイズのフライヤーは、写真家でもあり写真展も何度か開いている田中さんらしく北上川に架かる旭橋から開運橋撮った写真にギターを持つ“さが”さんの顔写真をフィーチャーした、それこそ独特の雰囲気を持つもので、そのフライヤーで彼が釣り上げ連れて来た人は18名。まさに彼が18番に好きな歌手を彼自身が18番に好きな18人の友人達に聴かせたライブは、田中のさがワールドと言っていいのだろうと僕は思い、昔ジャズ喫茶店主というものはまさにこれだったと。夢中になってコンサート主催した若かりし頃の自分や同業だった人達のことを思い出さずにはおれない雨の夜だった。
「雨とは天が空になるまで流す涙のこと」そう頭の中に浮かんだのは、彼女が帰る時。エレベーターホールにて僕の女房にひしっ!と抱きついて離さない“さが”さんが顔を上げたら、目は夕焼け、まるで真っ赤な海に沈む巨大な太陽のように見えた。小さい時からテレビも見ずに家にあったジャズのレコードを親に隠れて聞き、自分なりの譜面を書いてはひとり弾き遊び幼稚園児時代からジャズをうたい、小学生ですでにライブをやり、一万ものギャラ貰い、中学の時はタクシーで学校に通ったほどの収入を得、バンドにもアンプを買った。母の兄弟はジャズミュージシャン。北村英治のバンドに頼まれ母が着せてくれた深いグリーンの服でディナーショーのステージに立ったのは15、6歳の時。まもなく中村八大さんがスカウトに来て、車ベレットGTを買い、生徒手帳には歌える曲、バットノットフォーミー、酒とバラの日々、コルコバード、ラウンドミッドナイトなど大人の曲をズラーッと書いていて、学校から始末書を書かされたほど、いわゆるわるい娘の女王様、「我が世の春よ!」と彼女。合格した青学に行く間無くステージに追われ、様々なミュージシャンやファンとの出会いによって昔も今も売りではなく買われる唄のステージが月の半分以上あるのはまさに彼女の魅力そのものである。乾杯!。
謹呈の印が押された「ジャズ批評」誌(株・松坂)210号が手元に届いた。松坂さんありがとう!僕もあの東日本大震災以来、古い批評誌を捜し求め続けて、ほぼ全巻揃えたところです。それはともあれ、シュート・アローさんという楽器メーカー勤務の某日本人筆者の新連載「ライナーノーツの誘惑」プロローグに次ぐ第2回「陸前高田の縄文ジャズ」を読みました。「海を見ていたジョニー/坂元輝トリオ・ライナーノーツ・執筆者・五木寛之。1982年発売」とありますが、発売は81年。「五木氏がライナーノーツを執筆することになったのは実際にジョニーへ訪問したことによる」ではありません。五木さんがジョニーに来たのは91年12月。「大作家でしかも極めて多忙な五木氏がなぜ岩手県陸前高田市のジャズ喫茶ジョニーのためにライナーを執筆したのであろうか?」これは僕が五木氏宅に直接頼みに行ったことからですが、書いて頂くのに7ヶ月ほど待ちました。「多額の原稿料をジョニーが五木氏に支払ったとは考え難い」はその通りで五木氏の無償の愛によるものでした。そして「ジャケット写真・朝倉俊弘」の名は俊博。
「なおジョニーズディスクを創設した照井顕氏は現在盛岡で開運橋のジョニーを経営しているようだ」とありますが、知っていてどうして確認の電話一本ないのだろうかと思います。シュートさんが2014年に出版した「昭和・東京・ジャズ喫茶」(株・ディスクユニオン)本の巻末に特別編として、仮設のジャズ喫茶を陸前高田市に訪ね、現店主(僕の元妻)の話をそのまま受け止めたからなのだろうかと?。しかも彼は、昨2018年11月名古屋の楠瀬克昌氏のJAZZ・CITYが発行したジャズ喫茶案内「GATEWAY・TO・JAZZ・KISSA」(陸前高田のジャズタイム・ジョニー)が表紙の本も読んだ様子。だがその本での僕に関する記述読めば、「妻に内緒で盛岡に出て行き妻には負債を抱えた店が残された」とある。そんなことはありません。僕は楠瀬氏に、「確認取らずのこれは、名誉棄損じゃないですか?」と電話した。離婚話ではお金の無い僕のために僕の兄弟達全員がお金を要求されたことから、僕が家裁に申し立てをし、店の負債と盛岡に来てから妻名義に僕が登記した土地付中古住宅の借金も全部自分が背負うことにし、13年に及んだ家庭内別居解消。又、恥ずかしい話ですがウン百万にのぼった離婚までのジャスラック使用料の未払い金についても今尚分割払い中。これが事実です。あ~あ!
4日間乗り放題のJR・大人の休日切符で来ました!と仙台から年に1、2度やって来る三上良徳さん(68)は今年もニコニコしながら手土産持参(三色最中と手焼きのCD)で来店。この数年、彼が現れる予告の電話を受け取ると思わず期待に胸が膨らんでいることに気付く。それは、僕がジャズにのめり込むきっかけとなった、岩手出身のジャズピアニスト・故・本田竹広(1945~2006)さんが、自分のトリオや、リーダーを務めたネイティブサン、あるいはそれ以前の渡辺貞夫さんのバンドにいた頃のFM生放送を同録したテープから、CDに焼き直したものをプレゼントしてくれるからなのだが、何よりも嬉しいのはその音源のデータがものすごくしっかりしていること、いわゆる「いつ、どこで、誰が誰と、誰の何という曲を演奏した」をカンペキに調べ印字してくるからなのです。
特にも良い音楽はそのデータによって明日への懸け橋となり、より虹色に輝くものなのですが、昔のレコードはクラシック始め、ポップスも歌謡曲も録音年月日はおろか指揮者や歌手、団体の名称以外に演奏者名など無記載が多くて何の役にも立たないものがほとんどである。その点、ジャズは昔から全てのデータが記録されてきたことには、本当に頭が下がります。お蔭様で僕も1978年からレコードやカセット、CD作りをして今に至ってますが、その制作に関わった人々の名をそのインナーに印刷してきたのは、そうしたジャズの先人たちを見習ったことによるものなのでした。 それはそうと、三上さんが音楽を好きになったのは家にあったレコードを親から聴かされた幼稚園の頃。だが成長するにつれ、クラシックのこれは誰の何番とかいう学校の講釈がいやでジャズのほうへ向ったが、正直、最初は雑音にしか聴こえなかったらしい。だがデパートで聴くジャズが耳に心地良くなり、東北学院大経済学部へ通う頃には仙台にあったジャズ喫茶ダウンビートへ行き、1970年頃からはエアチェックし、オープンリールテープに有名どころの人達を録音して聴いた。金融機関を定年退職してからはアナグロテープからデジタルへの変換作業するため高周波の勉強をし、最近は定禅寺ジャズフェスで気に入ったバンドを生録それを写真と共にCD化、それを、演奏者にプレゼントして友好を深めているという。
今年2019年12月に90歳を迎えるニューヨーク在住のジャズピアニスト・穐吉敏子さんの記念資料館宣言を本紙・盛岡タイムス(幸遊記№433)に書いた。すると毎日新聞の記者・藤井朋子さんが取材に来て「盛岡のジャズ喫茶店主・秋吉さん思い“資料館”」という記事を6月18日付同紙岩手版に書いてくれた。何というありがたさであろうか!しかも記事写真2枚。内1枚は、新聞・雑誌・専門誌の記事とコンサートのフライヤー。その他諸々のインデックスなどのファイル10冊の表紙に、今年4月穐吉さん来盛時、サインして頂いた資料写真。ここまでは普通?だが2枚目の写真「秋吉さんが表紙を飾る雑誌」として昔の「アサヒグラフ」(ライバル紙・朝日新聞発行)を堂々と載せていたことに僕は驚いた。撮った記者が記者なら、それを載せる編集長も編集長!と、僕は自分の記事のことよりも、そのことに感動を禁じ得ずにいたら、女房に尻を叩かれ販売店に行き残部・全部あらいざらい買って来た。あはは!
昔は特別な事でないかぎり、新聞記事そのものに書いた記者の名前などは載せなかったが、いくら大新聞の記事とはいえ、取材し書くのは個人個人である。何故新聞社は書いた人の名を載せなかったのか?、それはともあれ、今ではあたりまえになった著名入り記事。その先陣をきったのは、何を隠そう毎日新聞だった。「毎日は最も開かれた新聞ですよ。本社に直談判しに行った方を1ページ目の“人欄”でとりあげたこともあるほどだから。照井さんだってやってることはその人に劣らない!東京へ行くことがあったら、ぜひ本社を訪ね、人欄担当の編集委員に会いなさい。きっと道が開けるから」そう言ったのは同紙釜石通信局にいた鬼山親芳氏だった。ブタもおだてりゃ木に登るたとえ話のように僕もレコード制作で上京の折、名刺も持たずに直談判に行って、出て来てくれた編集委員にすこぶるおこられ帰ってから自己PR宣材を送ったがなしのつぶて。1年後の上京時に意を決し電話したら「又あんたかい!まあ来てみなさい」で行ったら写真を撮られ、言いたい事をしゃべりなさい!とで、1983年9月3日付毎日新聞の「ひと」欄に「日本のジャズを育てる照井顕」で載った。これは僕が36才にしてやっと自分で勝ち取った?唯一の金メダル?それをけしかけた鬼山氏は2001年同紙連載の21世紀東北の100人に僕を入れてくれたのでした。
2015年4月、学研から発売になった「ジャズの教科書・ニッポンJAZZ紀行」に「40年にわたり邦人ジャズに傾倒、レコードでは秋吉敏子を熱心に収集、秋吉敏子記念館を目指す」として僕の店・開運橋のジョニーが紹介された記事を読んだという北海道・釧路市の野田和則さんと方から、郵便物が届いたのは同年4月の初旬だった。「私も日本のジャズが好きで、聴いてます。穐吉敏子さんが特に好きでよく聴きます」と1980年6月6日、NHK505スタジオから生中継された、秋吉敏子トリオのFMエアチェック盤CD(カセットからダビングされたもの)などが届きビックリ。しかもその放送一週間後の13日、彼女が初めて陸前高田を訪れ、コンサートを開催した時のボブボーマン(ベース)ジョーイバロン(ドラム)とのトリオ編成初来日時の貴重な音源であった。
それ以来、未だ見ぬ彼のことを頭に浮かべると、翌々日に郵便が届くのだから不思議。先日はそれこそ僕が盛岡に出てきた2001年のNHKFM・秋吉敏子(p)鈴木良雄(b)村上寛(ds)のライブ盤が届いた。僕と釧路の関係で云えば、定時性高校4年の時の修学旅行で北海道へ行った時のこと。釧路の海と街を見下ろす高台の公園にあった啄木の歌碑「しらしらと氷かがやき千鳥なく、釧路の海の冬の月かな」は、今もすらすらと僕の頭から口を伝って出てくる不思議。野口さんから以前に届いてた啄木歌碑マップを開くと今では釧路市に何と25基。先の碑は1934(昭和9年)全国で6番目に完成した釧路最初の啄木碑だそうである。啄木は1908(明治41年)1月「さいはての駅に下り立ち雪あかりさびしき町にあゆみ入りにき」釧路新聞の記者として釧路入りから数えて今年は1並びの111年。当時啄木が釧路に残した借金は今、その何倍何十倍もの還元率となって釧路を潤し続けている様子。 又釧路港から見る夕日の美しさは、インドネシアのバリ島、フィリピンのマニラ湾と並ぶ世界三大夕日の一つとされ、厳冬期日没の瞬間に夕日が緑色に耀くグリーンフラッシュと呼ばれる現象に出会えば幸せになれるという話や1856年北海道で最初の採炭が行われた岩見浜。今に残る日本唯一の太平洋炭鉱(釧路コールマイン)。日本の政府には失言が飛び交うけれど釧路の湿原に聴こえるのはジャズのような丹頂(短調)鶴の一声である!か。 |
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