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ストリーヴィル・レコードSTLP-912.george wein presents「TOSHIKO・秋吉敏子」は秋吉さんがボストンのバークリー音楽院に留学した1956年の春から初夏にかけNYで録音されアメリカで発売された渡米第一作の幻の名盤。それを何と今年4月10日の「穐吉敏子・終わりなき演奏の旅」盛岡公演の直前、帯広の穐吉ファン井上洋一さんが、札幌で見つけ送ってくれたのです。値札を見れば¥9800。僕が持っているのは1974年にやっと再発なった日本盤。この日本盤の解説書は当時としては珍しかったA4サイズで、のち‘78年にスタートした僕のレーベル・ジョニーズデイスク解説書はこれに準じた。
その「ストリーヴィルレコード」のプロデューサーであり、当時ボストンにあったジャズクラブ「ストリーヴィル」のオーナー。そして世界一有名なニューポートジャズフェスティバルのプロデューサーでピアニストでもあったジョージウイン氏は、秋吉渡米の‘56年1月ボストンに到着した彼女を、バークリーの校長と共に空港に迎えに行った方で、その年の’56年と翌‘57年秋吉をニューポートジャズ祭のステージに立たせた人(’58年の同祭は「真夏の夜のジャズ」という映画にもなった)。その彼が11月3日(2019)NYシテイマラソンの日の夜、マンハッタン52stイーストにあるレストラン「日本」で行われた「穐吉敏子・ルータバキン・結婚50周年パーテイ(金婚式)」に現れたのである。参加者皆、息を飲み込む程感動しきりの様子。現95才杖をついてはいたけれど元気な姿を拝見出来,一緒に写真を撮らせていただいた幸せ。タクシーで帰られる時,僕は昨年出版した「穐吉敏子への旅」(全作品集本)と「1980・穐吉敏子トリオ・イン・陸前高田」のCDを差し出したら受け取ってくれたことにも感動し、遠ざかるテールランプを見送った。 そしてもう1人、在ニューヨーク日本総領事・大使・山野内勘二氏は昨年2018年11月の穐吉敏子カーネギーホールコンサートにもいらしてましたが、金婚式にも出席されていて、僕の女房が「ジョニー!」と僕を呼んだ声に反応して、「もしかして、あの海を見ていたジョニーの?」と話しかけられ、ジョニーズデイスクファンだと明かされビックリしながら写真撮影。彼はなんと8千枚ものCDを持っているというジャズ・音楽ファンだったことにも大感激!と、すごいNYの夜でした。
十代の頃から開運橋のジョニーに来ている佐藤恵美子さん(旧姓・日向・35才介護士)が、いつもとは全く違う別人のようないでたちで店に現れニコニコしている顔を見て、失礼ながら、えっ!こんなにも美しい女性でしたかと、マジにじっと顔を見入ってしまった。いつも僕は彼女のどこを見て来たのかとさえ。僕らの世界で「さくし」といえば歌詞をつくることだが、彼女が今夢中なのは錯視図作り。その研究を自分の胴体にまで応用し、実践として彼女自身を僕に錯視させるために現れたのだったのかも!と今気付いた。
先日「表彰式から帰って来たところです」とご主人と来て、“カフェオレ”を飲みながら見せてくれたのが「第11回・錯視、錯聴コンテスト入賞」の賞状。その入賞作品名は「REIWALL Illusion」(恵美子さんの造語で、令和錯視という意味)。日本基礎心理学会第38回大会@神戸大学、12月1日(2019)に於て「上記作品は錯視、錯聴コンテスト審査委員会の厳正な審査の結果、特に優秀であると判断されましたのでここに表彰致します」というもの。審査委員長は北岡明佳氏。氏は立命館大学の総合心理学科の教授でレデイガガのCDアルバム「アートポップ」に採用された、錯視アート・図形の第一人者。 それこそ県立紫波総合高校卒後の10代から専業主婦だった恵美子さんは夫の理解を得、興味のある心理学を勉強したい!と「放送大学岩手学習センター(通信制)に入学、昨2018年卒業。その過程でネットのSNSで北岡氏の作品と出合い、彼のファンになり2007年の雑誌「New Ton」の別冊でほれ「錯視」の不思議な世界にはまり込み、自分もワードでの錯視図形づくりを始動。白黒、灰、カラーグラデーションを付けたいくつもの正方形を並べたその行仕切線の色、灰と黒でも台形に見え正方形の方向性まで変わる。それに、彼女の「令和錯視」は正方形を行組する時少し横にずらして配置することでより台形の傾きが強くなり、グラデーションの方向によっても、逆台形に見える作品の数々を提出し入賞となった。又、彼女は盛岡市立乙部中学校時代に描いた「お米と私」は水彩画なのに「まるで油絵の様に見える」と評され小渕恵三氏から「総理大臣賞」を贈られており、この時すでに彼女の頭の中では人の心理、心象に現れる「錯視心」が育まれていたのに違いないと僕は感じた。
8月20日(2019)に新潮社から発売になった新潮新書826「秋吉敏子と渡辺貞夫」西田浩(1963年東京生まれ、読売新聞編集委員)著を買い読んだのは8月29日草津での秋(穐)吉敏子さんのコンサートを聴きに行く往復の新幹線とバスの中でだった。帯には「1963年ふたりの出会いが日本のジャズを変えた」(当事者への膨大な取材を基に戦後日本ジャズ史を描く)とあった。
1940年代中頃ビバップと呼ばれたリアルジャズをむさぼるが如く猛烈に吸収し、自己研鑽を怠ることなく今日なお世界のジャズを牽引(けんいん)し続けている穐吉敏子と、20才の時にその穐吉さん率いるコージーカルテット(録音は残されていないが伝説の本格ジャズバンド)に抜擢され、穐吉渡米(56年)後はそのバンドを率いた渡辺貞夫。(このコージーカルテットの演奏は30年後にレコード化された“ジャズシーン‘57”阿部克自プロデュース(トリオレコード)の2枚組、7バンドの一つで聴くことが出来ピアニストは八木正生)。 穐吉さんはバークリー音楽院を卒業し、‘59年に結婚した前夫・チャーリーマリアーノと共にトシコ=マリアーノ・カルテットを結成して61年に帰国した時、渡辺貞夫さんに学ぶ気があるならと、バークリーに入学金と学費の免除を交渉し、アメリカでの保証人を見つけて彼を渡米させた彼女。貞夫さんはそのバークリーで学んだことを日本に持ち帰り、日本のミュージシャンに教え広め育てながら日本のジャズシーンを牽引し続けて今に至る二人のストーリー。 「二つの巨峰に連なる日本ジャズ山脈の威容だ」とは週刊新潮9月19日号(及川房子さん提供)。「戦後の日本を動かした“天の配剤”とも呼ぶべきダイナミズムを生き生きと描く」「敏子と貞夫は80代の今も新しい挑戦を続けており、人生論としても痛快な本だ」と読売新聞10月13日付(萩谷栄彦さん提供)。「現在も第一線で活躍を続けるふたりの巨星の伝記が交互に語られ、それぞれに食うや食わずのアメリカ生活と世界を舞台にした活躍が隣り合わせる人生は日本ジャズ界への刺激であり推進力であり続けてきた。雑木林進・文」ジャズ批評11月号(松坂ゆう子さん提供)。その渡辺貞夫さんは一関のジャズ喫茶ベイシーに、穐吉敏子さんは盛岡・開運橋のジョニーに、それぞれ毎年いらしてコンサートを続け、僕ら岩手の菅原・照井マスター同士も互いの店を往き来しています。
12月6日(2019)の未明から朝にかけ盛岡の街がうっすら雪化粧をした。店の窓から開運橋を眺めて、ふと浮かんだのは「粉雪まじりの氷雨に濡れて 散るは涙かネオン花。夜の盛岡君住む街を・・・の「盛岡ブルース」(三浦路夫・本名・道雄、八幡平市出身の歌。1971年須沢玄詩、作詞・坂田儀一・作曲)であった。えっ!盛岡ブルースってこんな歌詞だっけと想う方もいるかも。そう、最近といっても6年前の2013年12月にリバイバルした瀬川ゆき(本名秀子・北上出身)の「盛岡ブルース」とは違う。こちらは、つのかけ芳克・作詞作曲による盛岡ブルースで瀬川ゆきさんの歌唱もなかなかによく、そのCDを聴きながら、更に想い出していたのは同じ曲で青江三奈のヒット曲「盛岡のブルース」(1979年)「青い灯がゆれる 盛岡の夜に 君と出逢った中の橋 今夜の二人素敵だわ ロマンチックです・・・」の歌声であった。
数多く発売された盛岡を冠する歌では何といってもこの青江三奈の「盛岡ブルース」が筆頭。男性の歌ではバーブ佐竹の「霧雨の街盛岡」(雨宮英子・作詞、小杉仁三・作曲1974年)「霧が降る降る盛岡の街一人さまよう中の橋、、、」であろう。それはともかく青江三奈と言えば「恍惚のブルース」「伊勢佐木町ブルース」「本牧ブルース」などの大ヒット曲で知られた歌手で戦前の淡谷のり子と並び称され戦後から平成にかけてのブルースの女王であった。 僕らジャズの人間にとっては伊勢佐木町といえば1950年代にあったクラブ「モカンボ」でのジャムセッション。日本ジャズ史上最重要な音源として1975年レコード化され、当時秋吉敏子と並ぶ天才ピアニスト・守安祥太郎唯一の音源としても貴重なものとなっている。 今の伊勢佐木町通りの中央には青江三奈の大モニュメント。その彼女とて「恍惚のブルース」でデビュー(1961年NHK紅白歌合戦初出場)以前は横浜のクラブ「ナイトアンドデイ」の専属歌手としてジャズを唄っていた人。その声はニューヨークのため息と称されるジャズ歌手・ヘレン・メリルの声と声質そっくり。まさに日本のため息!だった彼女は1993年ニューヨークで「ザ・シャドー・オブ・ラブ」というジャズCDを制作。その中でマルウオルドロン(p)ジョージムラツ(b)等の演奏で歌った「伊勢佐木町ブルース」の英語バージョンは絶唱絶品。その曲のあとでLPレコードタイトル曲になった「盛岡ブルース」を流すとこれも最高!と拍手する人も。
僕は今、金本麻里さん(盛岡出身在住ジャズ歌手・第33回日本ジャズボーカル新人賞受賞)の第4作目となるアルバム「ジェリコの戦い」(ジョニーズディスク)12曲入りJD-38-CDを制作中で、来年の2020年1月、ウルトラヴァイヴを通じ全国発売及びネット販売予定。その制作とコンサートの案内文を読んだ三島黎子さん「陸奥烈女伝」や「沙羅双樹の花の色」などで知られる(紫波在住の作家)から手紙が届いた。それによれば「タイトルの曲名を目にし、一瞬にして想い出が蘇りました。今から15年も前ですが、日本とヨルダンの国交樹立50周年を記念しての催しに、当時のヨルダン駐在大使・小畑紘一夫妻が当流(小堀遠州流)門下であったことから、記念の親善茶会の催しを当流に任され、約20名ほどが代表で渡航した時のこと」とある。
CD表題曲の「ジェリコの戦い」はジャズテナーサックスの開祖・コールマンホーキンス(1904~1969)の名演、ゴスペルシンガー・マヘリアジャクソン(1911~1972)、フォーク歌手のオデッタ(1930~2008)、ジャズコーラスのゴールデンゲイトカルテット等々の名唱がある有名曲で、旧約聖書ジョシュア記に基く歌。ユダヤ民族をエジプトの圧政と虐待から解放したモーゼの遺志を継いだジョシュアが多くの同胞を連れ故国イスラエルへ渡り40年にわたる苦難の旅の最後の難関がジェリコの砦だった。モーゼの教え通り7日7周、羊の角笛吹き鳴らし神の栄光を大声で叫ぶ(演奏と歌?で)と城壁は崩れ落ち、戦わずに勝利したという物語。 死海への「深い河」として歌い継がれているヨルダン川。そのヨルダンの日本大使公邸にヨルダン国のお歴々を迎えての茶会。更に日本の援助で建設されたという死海を見下ろす展望台での茶会。それが終わろうとする頃、一帯素晴らしい夕焼けに包まれ皆々その美しい夕陽沈みゆくさまに見とれていたその時、対岸にちらちらと灯がつき始め「あれはどこ?」とガイド役の政府高官に三島さんが尋ねたら「ジェリコ」と。「あのジェリコの戦いで有名なジェリコはあそこか」と胸にこみあげ作った歌「死の海に夕陽は落ちて対岸のジェリコの街に灯は瞬けり」は帰国して書いた彼女の報告文中の一首。 来る12月22日(日)夜7時から盛岡市民文化会館でレコーディングメンバーの金本麻里(vo)武藤晶子(p)小川恵理紗(fl)の女性トリオによるCD先行発売記念「ジェリコの戦いコンサート」である。 |
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