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「如水・遺作展」が滝沢市巣子の茶房「結の蔵」(火・木・定休)で11月16日(土)~12月9日(月)まで開かれている。屋根のないアトリエ作家として青一色(藍色)でもって四季を表現しきった孤高の画家・如水こと菊池武男さんは、3年前の2016年6月6日16時、95才であの世を描く旅に出た。菩提寺である盛岡・仙北町の長松寺はじめ、玉山の常光寺、奥州の霊桃寺、松島の瑞巌寺には彼の光に満ちた大作が飾られており鑑賞可。遺作展では生前如水さんが描き遺した膨大な作品群の中から50点程選んでの展示。晩年結の蔵で展示会を開いた如水さんは、店主の川原睦子さんと意気投合、巣子の保育園で如水さんと子どもたちの絵かき交流まで実践して未来へ希望を託したりもした。
企画した川原さん自身もまた、かつて大迫にあった築80年余りの蔵を解体、自社のゆい工房敷地内にそっくりそのまま移築。土壁の再現乾燥までの丸5年を経て「結の蔵」という喫茶店を始めたのが2008年4月10日。川原睦子さん68才の時だった。彼女が決断した解体移築は社員たちに昔の建築技術を学ばせ、後世にそれを引き継がせる希望をこめた“ゆいの心”「あいはあいよりいでてあいよりふかし」そのもののようだ。店は昔懐かしの、手作りおしるこ膳とソフトドリンクのみの純喫茶。それこそ蔵シックな店内の大きなテーブルなどの調度品も一枚板のすごさで、ゆったりと巣子せる空間!そのキレイさも、12年経過の店と同様80才になった彼女も、信じられない程の素敵さだ。 「自分にとって人生の旅は光ることに気づくことでした」とは、如水色紙に添えられたことばだが、2014年東京での「やまびこ展」を企画した僕にくれた手紙には「貴方との出会いを光る宝石のように自分の手に握っていたことがよかったようです」と書いてあり、震災直後に2人で毎週毎週被災地へ行き、僕が般若心経をうたい、如水さんが絵を描く行為を繰り返した想い出話をしていた時、如水さんは僕と出会った時から、僕の載った新聞記事を切り抜いては保存しておいたものだよ。持っていただろうけど無くしただろうからあげるよ!と20数年分の何枚もの切り抜きを渡してくれたことに感激した日のことまで想い出されます。期間中開運橋のジョニーでも如水展です。
同級会の旅行で楽しいのは何といっても夜の宴会。誰かが歌い、誰かが踊るは毎度のことだが、長いこと平泉の町会議員を務めた会長の高橋幸喜さんがカラオケをはじめたら、踊り好きで、必ず着物の熊谷はつゑさんが、今年は何故かやつれた様子の洋服姿で踊り出したのにビックリ。すると「彼女は一週間前にご主人を亡くしたのよ」と誰かの声がした。何と、それでも参加し、踊ってくれているのに再度ビックリ。彼女にとってもありがたい同級会なのかもなあと思いながら、口に盃はこぶ自分。日本三古泉のひとつ、いわき湯本温泉郷・元禄彩雅宿・古滝屋(1695年創業)9階・露天風呂「天女の湯あみ」に一人で入れる酔い心地。各々部屋には何冊もの本が置いてあり、一階の図書コーナーはまるで図書館。よく眺めれば目立つのは震災関連本。明日はいよいよ、原発被災地へ!
東京電力福島第一核(原子力)発電所のある大熊町、双葉町は中間貯蔵施設にされ、帰還困難区域を除くすべての地域で面的に除去された土壌や廃棄物の保管場所となり、その数2000万袋という恐ろしさ。両隣の町富岡町、浪江町にさえ一切人影見えず、町は廃墟と化し、田畑は雑草や木々まで生い茂り、まるで危険信号だらけのように、黄色い花を咲かせるセイタカアクダチソウに埋めつくされた不気味な光景が延々と続く。そこは巨大なイノシシの住み着くエリアとなり、かつて食用であったが汚染され繁殖するため、相馬市ではなんとイノシシ専用焼却炉を農水省予算で建てたという。 浪江町の震災遺構となった舟の形をした請戸小学校生徒たちは1キロ以上も離れた大平山まで逃げ登り全員助かった!というからまるでノアの方舟的導きと言えるかも。又小説にも!そして3500から2700台まで減ったとされるソーラー式放射線計量器など徹々たるものでさえ、その撤去や維持費だけでもあと10億円はかかるというのだから、原発は会社と議員?以外の国民にとってどんなに不利益な負の遺産であることか!それはそうと、福島浜通りは今、使用できなくなった農地を利用した半農半エネと呼ばれる「再生可能エネルギーの先駆けの地・福島」としてソーラーシステムによる太陽光発電所がいたるところに作られその広大さはまさに発電(田)地帯に生まれ変わり、その発電力は3000kw/b余りに達しているという。
平泉中学校・昭和37年度(1963年3月)卒業・令和元年同級会の案内が届いた。参不の葉書受取人は葛西良治さん(幸遊記№80)元プロジャズドラマーである。期日は10月29~30日。ああ、どうしよう?が本音だった。何しろ11月3日、ニューヨークで行われる、穐吉敏子さん(90)とるー・タバキンさんの結婚50周年・金婚式パーテイに僕等夫婦も御呼ばれし、出席の返事をだしたばかりだったから。だが古希祝以来3年振りの同級会なのと、福島の白水阿弥陀堂(国宝)見学。原発、津波被災地を富岡町のNPOガイドによる案内で回るというので参加することにした。早朝出発地の平泉へと在来線に乗る。駅に降りると、別車両から」もう1人同級生が降りた。学年トップの成績だった伊藤(真籠・まごめ)直子さん(盛岡在住)で「あら一緒に来たんじゃないの?」と三浦(高倉)邦子さん(平泉在住)の声。バスのガイド役はドイツワインのバイヤーである千葉敏明さんで出発進行!オーライ。
途中、仙台、東京からの学友と合流し白水阿弥陀堂へ。そこは今を去る860年前の1160年(永暦元年)、平泉の鎮守府将軍・藤原清衡の娘であった岩城の国守岩城太夫則道公の夫人徳姫がじ?白水に霊地を得、一ケ寺・無量寿院願成寺を建立。夫・則道公没後には白水阿弥陀堂を創立(中尊寺光色堂に似る)。仏堂前にはこれまたもう通じ大泉ケ池のような浄土庭園を造営。白水の地名も徳姫の故郷奥州平泉の泉を分字して名付けたと伝えられる、まさにもう一つの平泉。何とも言えぬ平安なたたずまいは、真に極楽浄土そのものの感。 国宝・願成寺阿弥陀堂。国重文。本尊阿弥陀如来、観世音菩薩立像、勢至菩薩立像、持国天王立像、多門天王立像、それを囲む内陣の四天柱も経年により飴色黒色化しているが、それがかえって像容美を際立たせ仏の慈悲深さが滲み出ている様に思われた。それにしても庭園囲む木々の紅葉と池に架かる橋の芸術美!その奥に佇む阿弥陀堂への参道往来すれば、この世、あの世の自在感。200余名の同級生の内、21才でこの世を去った高橋春喜さんから今年72才でなくなった鳥畑良治さん、及川泰さんら33名の涙が天から慈雨となって降りて来たのでした。
衆議院事務局参事の涌井正幸さんは、あの東日本大震災以降岩手に幾度もボランティアに来て、帰りには必ず開運橋のジョニーに寄ってくれるので、僕も穐吉敏子さんの東京でのコンサートなど上京の折々に電話をすればニコニコと和服姿で現れ一緒に聴き、一緒に飲む間柄。9月板橋でのルータバキントリオの翌日「照井さん国会議事堂に来ませんか?僕が案内しますから」というので行きました。
日本の国民なら誰もが皆知っている国会議事堂。たしか中学の修学旅行で上京し議事堂前で皆で写真撮ったが中を見学したかの記憶は無いから、まあ初めての見学。しかも議事堂内で働いている人の案内だから最高!一般人が入れないところまで案内、説明してくれ、国立国会図書館の分室へも。知っての通り議事堂は全部石造り。沖縄の海でとった「琉球石灰岩」の柱や壁には巻貝や魚らしき化石なども見受けられ「ここは正に海千山千の人々が居るところ」と実感した次第。 中央広間から紅じゅうたんの階段上正面に御休所(ごきゅうしょ)と呼ばれるいわゆる皇室があり思わず息をのむ!大正9年(1920)から昭和11年(1936)まで何と17年、延べ254万人が9810トンの大理石で作ったという。ステンドグラスはイギリス製。全ての鍵と郵便投函筒と呼ばれる1階から3階の細長い穴に手紙や書類を入れると筒の中を通って地下に集約されるエアシステムはアメリカ製。この2つ以外は全て日本製なのだそうである。塔の先までは65メートル。2階から6階は吹き抜け塔部の窓らしきところがステンドグラス。最上部のトンガリには誰も何が入っているのか知らないという木製の柱箱(神棚?)写真(涌井さん撮影)を見せられビックリドッキリ! 岩手出身の総理大臣は原敬(大正7年)、米内光政(昭和15年)、東條英機(昭和16年)、鈴木善幸(昭和55年)と65人中4人。堂の前庭には日本全国から集められた「都道府県の木」が植えられており、ちなみに「東京は、いちょう」「沖縄は、そてつ」「岩手は、なんぶあかまつ」。照井と涌井(2井?)で「牛重」を食べながらふと思い出したのは2001年、僕が盛岡へ来た年ちょうど参議院選があり、とある政党から照井さん立候補して!と頼まれ、永田町まで来て選挙用ポスター写真まで撮られた日のこと。立っていたら?あはは!
10月20日2019「第4回とっておきの音楽祭・イーハトーブ・モリオカ」(実行委員長・太田代政男・岩手県合唱連盟名誉会長)が市内5ケ所の青空ステージで行われた。そのメイン会場の「もりおか歴史文化館前広場で10時のオープニングに盛岡中央通にある仁王幼稚園の子どもたち(4才の孫通園中)が歌やダンスをやるというので女房と散歩がてら見に行った。「この世界が神様の愛で満たされますように」と、子どもたちの祈りのことば、そして歌とダンス、親たちの大撮影会を見学。帰り際「園長先生がね、ジョニーのカンバッチをつけていてビックリ。店に来たことあるんですって!」と感激していた女房の小春。
大通野村証券前で11時から始まるステージを準備中の人に音楽祭のパンフを頂く。ドトールで珈琲を飲み帰る途中30分だけMOSS広場のバンドを聴こうと立ち寄ったら、そこにはなんと、大阪のシンガーソングライター・呉(GO)ひとしさんがステージに立っていてビックリ!呉さんも手を振る僕を見つけてニッコリ。かたわらにはMikiさんという語りの女性(都営地下鉄のアナウンス・柳川実紀さん)呉さん唄えば彼女も手話でうたうベリーグットなアイデア。最初に歌ったのは「ヒロシマ」という曲「晴れ渡る静かな青い空に きのこ雲も黒い雨もない 人の願いは心の幸せ 争いのない そんな未来 広島は遠きあの日の痛みを背負って 伝えてゆけ 惑う世界に 繰り返させない 道しるべとなれ」とてもいい詩曲だった。「呉さんの歌は、そとの方が似合うね」と感動して涙ぐみはち切れんばかりの拍手をする小春。僕は僕で穐吉敏子さんの「ヒロシマ~そして終焉から」の終章「HOPE」マンデーミチル、そして金本麻里の歌がオーバーラップしていた。 16才から歌いはじめ、28才で妻との死別。言葉の分からない外国の歌に感動で涙し、自分の歌もそうありたいと思うようになった彼は「心の中で会いたくて」をテーマとし、今を生きる歌手。彼は1998年陸前高田時代の僕の店で歌い、当時担当していたFM岩手の僕の番組にも出演。2年前盛岡の松園にあるデイサービス「かたらいの家ゆう」で歌った時には、おばあちゃんが踊り出して僕を誘い職員をも感激させた光景。その歌の持つ生命力に感動したことまで思い出す良き日となった。 |
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